秋かぜの記
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 16:26 UTC 版)
俳諧紀行・撰集。諸九尼は京を出発し、奥の細道を体験するべく、大旅行をし代表作「秋かぜの記」を書いた。読者を意識したので、書いていない所もある。明和8年(1771年)3月晦日、京を出発。東海道、江戸、仙台を経由し、帰りは中山道経由で9月4日石山の記載で終わっている。その年は、飢饉も震災も無かったので、無事に旅を終えたと作家の金森敦子は書いている。従者は最初は二人で、元治郎という老僕と只言(しげん)という法師であった。当時は旅行も大変な時代で、厳しい関所などで、必ず迂回して間道をいった。金森は、一行は、あまり金子をもっていなかったので、法師が托鉢もしたのではないかと書いている。京を出発し、主な経由地は、石山寺、近江八幡、愛知川、高宮、垂井、名古屋、鳴海、岡崎、國府、新城、秋葉神社、神澤、掛川、藤枝、江尻、原、箱根関所、畑、小田原、大磯、江の島、鎌倉、神奈川、江戸、木下、香取神宮、小見川、野尻、鹿島、縦山、水戸、中の湊、額田、折端、棚倉、須賀川、二本松、福島、桑折、白川、仙台、松島、(帰路一部省略)白河、那須、日光、鹿沼、出流、桐生、前橋、原の町、大笹、保科、善光寺、姥捨、中窪、諏訪、飯田、妻籠、大久手、鵠沼、垂井(省略)京である。 諸九尼は既に俳諧師として有名になっていたので、各地の俳諧師の所に泊まったり、訪問されたり、交流しながら旅行した。深川芭蕉堂の再興の頃、百韻の巻頭の句を頼まれた。健康を害したときもある。籠も使った。「秋かぜの記上巻」は、冒頭に「奥のほそみち」を踏まえて書いているが、あとからは丹念な作品にせず、仙台からのおりかえし後は、体調もあり記述は少ない。中山道の道筋は走り書きのみである。下巻は実際に会った俳人などの句、323句が収録されている。倉敷の俳人に序文を依頼した。特に有名な俳人でもなく、この本を引用した人は少ない。上下の全文が刊行されたのは昭和35年(1960年)の大内初夫らの本が最初である。
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