王制の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 05:54 UTC 版)
1884年に開催されたベルリン会議でヨーロッパの列強国はアフリカ分割についての協議を行い、ポルトガルは植民地の歴史的所有権を主張したが、最終的に実効占拠による土地所有の原則が議決される。1886年に国会でアンゴラとモザンビークを結ぶ植民地帝国の建設計画が発表され、ドイツとフランスへの根回し、探検隊の派遣による実効占拠が進められた。しかし、ポルトガルの政策はケープタウンから北上するイギリスの政策と対立するものであり、1890年1月11日にイギリスはザンビア、マラウイ、ジンバブエに相当する地域に駐屯していたポルトガル軍の即時撤退を要求した。ポルトガルはあてにしていたドイツの支援を得られず、やむなくザンビア、ジンバブエに相当する地域を放棄するが、世論はイギリスに譲歩する政府の姿勢を非難した。反王政を掲げる共和党も植民地政策を攻撃し、当時ポルトガルで普及し始めた新聞の多くが共和党を支持する立場を取ったため、共和主義は大都市の中産階級の間に広まった。こうしたイギリスの最後通牒に対して1890年にポルトで反英暴動が起こるが、暴動の実情はアフリカ方面の失策への失望ではなく、経済の悪化と政府の無力に対する不満の表れと考えられている。反乱の中で共和主義者はナショナリズムを掲げ指導的な立場につくが、やがて暴動を統制することが混乱になり、1891年のポルトでの急進派の共和主義者の反乱に至る。そして、17世紀のハプスブルク家の統治下で高揚したセバスティアニズモ(救世主信仰)は、共和政によってポルトガルが直面するすべての問題が解決される「共和主義待望論」に形を変えて民衆に浸透していく。 1906年に王党派の政党が内部抗争によって分裂すると、国王カルロス1世はジョアン・フランコに独裁を認めたため、反王政運動は激化する。1908年2月1日、リスボンのコメルシオ広場でカルロス1世と王太子ルイス・フィリペが過激派の共和主義者によって暗殺される。一命を取りとめたカルロス1世の次男ドン・マヌエルは父の跡を継いでマヌエル2世として王位に就いた。 国政選挙においてリスボンではポルトガル共和党が勝利するが、全国区では依然として王党派が優位に立っており、平和裏に共和制の政権を樹立することが難しい状況にあった。1910年10月3日の夜、リスボンで共和主義者の蜂起が発生し、翌日に海軍の急進的な下士官とカルボナリ党員がテージョ川に停泊していた軍艦を制圧し、王宮に砲撃を加える。マヌエル2世は一族を連れてリスボンから脱出してエリセイラに向かい、イギリス領のジブラルタルに亡命した。10月5日にリスボン市民の熱狂的な歓迎を受けた共和党指導部は共和制の樹立を宣言し、ブラガンサ王朝は滅亡を迎える(1910年10月5日革命)。共和党の指導部はリスボン市民によるパリ・コミューン成立の再現を不安視し、革命の主力であった急進派を政権から切り捨て、テオフィロ・ブラガを臨時大統領に選出した。
※この「王制の終焉」の解説は、「ポルトガルの歴史」の解説の一部です。
「王制の終焉」を含む「ポルトガルの歴史」の記事については、「ポルトガルの歴史」の概要を参照ください。
- 王制の終焉のページへのリンク