猿若町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 03:55 UTC 版)
天保12年(1841年)10月7日、中村座が失火で全焼、火災は堺町・葺屋町一帯に延焼し、市村座も類焼して全焼した。浄瑠璃の薩摩座と人形劇の結城座も被災した。 折しも幕府では、老中首座の水野忠邦を中心に天保の改革が推進されていた。改革は逼迫した幕府の財政を立て直すことを目的としたものだったが、水野はこれと同時に倹約令によって町人の贅沢を禁じ、風俗を取り締まって庶民の娯楽にまで掣肘を加えた。特に歌舞伎に対しては、七代目市川團十郎を奢侈を理由に江戸所払いにしたり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定するなど、弾圧に近い統制下においてこれを庶民へのみせしめとした。 堺町・葺屋町一帯が焼けたことは、こうした綱紀粛正をさらに進めるうえでの願ってもいない好機だった。奉行所は早くも同年暮れには中村座と市村座に芝居小屋の再建を禁じ、一方で幕府は浅草聖天町(しょうでんちょう、現在の台東区浅草6丁目)にあった丹波園部藩の下屋敷を収公。翌天保13年(1842年)2月にはその跡地一万坪余りを代替地として中村・市村・薩摩・結城の各座に下し、そこに引き移ることを命じた。聖天町は外堀のはるか外側、堺町・葺屋町からは東北に一里はあろうかという辺鄙な土地だった。水野はそこに芝居関係者を押し込めることで、城下から悪所を一掃しようとしたのである。 同年4月、聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名に因んで猿若町(さるわかまち)と改名された。夏頃までには各芝居小屋の新築が完了、9月には中村座と市村座がこの地で杮落しを行なっている。さらに同年冬には木挽町の河原崎座にも猿若町への移転が命じられ、翌天保14年(1843年)秋にはこれが完了した。芝居茶屋や芝居関係者の住居もこぞってこの地に移り、ここに一大芝居町が形成された。 河原崎座の移転が完了した直後に、幕府では水野が失脚、天保の改革は頓挫する。そして水野の目論見とは裏腹に、猿若町では三座が軒を連ねたことで役者や作者の貸し借りが容易になり、芝居の演目が充実した。また城下では常に頭を悩まされていた火災類焼による被害もこの町外れでは稀で、相次ぐ修理や建て直しによる莫大な損益も激減した。そして浅草寺参詣を兼ねた芝居見物客が連日この地に足を運ぶようになった結果、歌舞伎はかつてない盛況をみせるようになった。浅草界隈はこうして江戸随一の娯楽の場へと発展していく。 この猿若町に軒を連ねた中村座・市村座・森田座(または河原崎座)の三座を、猿若町三座(さるわかまちさんざ)という。
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