爆撃の詳細
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:26 UTC 版)
1937年4月26日は月曜日であり、近隣の農村から農民が集まってゲルニカに定期市が立つ日だった。晴天で夜明けを迎え、天気は終日晴天との予報がなされていた。作戦の指揮を執るフォン・リヒトホーフェンはビトリア=ガステイスからメルセデス・ベンツを走らせ、ゲルニカの南東にあり町を見渡せるオイス山中腹の高所に向かった。飛行部隊の指揮はルドルフ・フォン・モロー中尉が執り、飛行隊の先導を任せられた。ユンカース Ju52爆撃機、ハインケル He111爆撃機、ハインケルHe51戦闘機、メッサーシュミット Bf109は、それぞれビトリア=ガステイスとブルゴスの空軍基地から飛び立って北方のゲルニカに向かった。いったんバスク海岸まで出ると、180度向きを変えてウルダイバイ河口(英語版)を南下し、午後4時30分、モロー中尉が乗り込んだハインケルHe51戦闘機1機がゲルニカ駅付近に50キロ爆弾を落として空襲が開始され、モロー機はすぐに飛び去ったが、ドゥランゴ北方のガライで後続機と落ち合うと、モロー機による先導の下、イタリア軍機6機を含む爆撃機12機が同じルートで飛行した。本格的な爆撃が開始され、午後7時45分までの3時間15分の間、20分おきに波状的な空襲が行われた。さらに15分後にはハインケルHe111爆撃機の編隊が低空飛行して機銃掃射した。空の爆撃機は基地に戻って燃料と爆弾を補給し、再び中継地点のガライからゲルニカに向かい、爆撃を繰り返した。午後5時15分には重い機体が特徴的なユンカースJu52爆撃機が飛来し、20分おきに2時間に渡って絨毯爆撃を繰り返した。絨毯爆撃はオビエド周辺の共和国軍基地を攻撃するにあたってコンドル軍団が採用したばかりの戦法だった。 コンドル軍団は論理的な三波の攻撃を行った。第一に爆撃機が高威力の爆弾を投下して建物を破壊し、第二に戦闘機が機銃掃射を行って住民を射撃し、第三に爆撃機が焼夷弾を瓦礫の上に投下して大規模な火災を発生させた。焼夷弾は地上に到達した衝撃で発火し、摂氏2,000度から3,000度となって10分以上激しく燃焼するため、消火は困難だった。スペインの他地方とは異なり、ゲルニカの家屋には木材が多く使用されていたことも焼失範囲が大きかった理由である。ドイツ軍の資料によれば使用されたのは250キロ爆弾54発、50キロ爆弾158発、焼夷弾5,948発であり、これに加えてイタリア空軍も飛行機や爆薬を提供した。計40トンの爆弾と焼夷弾が使用されたが、焼夷弾が本格的に空襲に使用されたのは歴史上初めてのことだった。ゲルニカ駅長は回線が遮断される前にビルバオに電話して報告を行っており、ビルバオからは消防士や医師などの救援隊が派遣されたが、バスク軍がコンドル軍団に対して反撃を行うすべはなかった。エミリオ・モラ(英語版)将軍が指揮を執る地上軍はゲルニカまで15kmに迫っていたが、なぜか爆撃後のゲルニカには進攻しなかった。 世界は今夜終わったその現実とは思えない荒廃の中でトンネルは溶解し、通路には炎の門ができ、崩れて張りぼてとなった家からセメントと煉瓦が崩れ落ちるなかで一握りのぼんやりとした生き物が壊滅した世界の断片を必死にかき集めている。… — クリストファー・ホルムによる44行詩「ゲルニカ、1937年4月26日」の冒頭部分、
※この「爆撃の詳細」の解説は、「ゲルニカ爆撃」の解説の一部です。
「爆撃の詳細」を含む「ゲルニカ爆撃」の記事については、「ゲルニカ爆撃」の概要を参照ください。
- 爆撃の詳細のページへのリンク