消失するまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:55 UTC 版)
トラックは、1939年(昭和14年)頃から吉野貯木場として利用が開始され、戦後の1950年(昭和25年)4月には吉野木材組合連合会の木材市場となり、のちの河川改修が行われたあとの現在も当地で木材市が行われている。一方、野球場は、その後もグラウンドとして使われ野球以外にも運動会や郷土の競技大会などが行われていた。第二次世界大戦中には戦技訓練の道場として使われた。相撲場は大相撲の地方巡業でも使われたが、戦後、1951年(昭和26年)に、吉野中学校が建設される。野球場は、中学校のグラウンドとしても使われた。なお、戦後の一時だけ、この野球場でプロ野球公式戦を行っている(後述)。 しかし1959年(昭和34年)に襲った伊勢湾台風で吉野川沿いも大規模な水害を受け、この中の島も冠水した。翌1960年(昭和35年)には復旧したが、同年に行われた四月日本体操祭奈良県大会を最後に、運動競技場としての使命を終える。 その後、水害対策のため、中の島によって二つに分かれている吉野川を一本化し直線化することになり、南側の川を埋め立て川幅を狭め(現在は周辺の谷から流れ込む小川が流れている)、対岸と狭まっていた中の島の北岸を削り、桜橋付近から上市橋付近にかけて堤防が作られた。北岸が削られたことにより、同地にあった吉野中学校は移転し、現在の場所に今の吉野町立吉野小学校が作られ、上市橋から旧木材橋までを結ぶ道路が敷かれて現在に至る(配置図参考)。この河川改修工事によって美吉野運動競技場の全ての施設が消失した。 地形の変遷に関しては国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで見ることができる。
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