海軍藩へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/12 08:25 UTC 版)
文久3年(1863年)11月、久留米に帰国すると、家老・有馬監物や参政・不破美作を説得して藩論を公武合体を藩是とした開国路線に転換させ、富国強兵を進める。これは当時の薩摩藩・長州藩・佐賀藩がとっていた政策と同質のものである。蒸気船の購入、軍備の洋式化(英国式)を行うため、国産物の専売や鉱山開発行う殖産興業を推進し積極的な資金獲得政策を実施した。 元治元年(1864年)1月に薩摩藩から初めて蒸気船雄飛丸を購入し、6月に開成方・開物方・成産方の三局が新設された。蒸気船の購入にあたり、航海修業として勝海舟のもとに大津遠太らを送り出した。また佐賀藩に召し抱えられていた田中久重(からくり義右衛門)を藩で登用するよう推挙し、久留米藩と兼任として府中町(現久留米市御井町)古飯田に久留米藩製造所を建設して鉄砲の製造を行わせた。 慶応2年(1866年)には洋船購入の藩命を受け、長崎へ向かう。しかし長崎での交渉が難航したため、9月に久重と松崎誠蔵、町人の宇野嘉蔵とともに蘭船で上海へ密航し、そこで汽船の購入を遂げた。この密航は西洋の見聞を広めるためでもあったといい、見聞録『秋夜の夢談』を記した。 慶応3年(1867年)7月には開成方に海軍設立が命じられ、今井・松崎・松岡伝十郎らが担当し、11月には千歳丸を購入、藩所有艦船は7艘となり、久留米藩は薩摩藩・佐賀藩・土佐藩に次ぐ海軍藩となった。 同年、参政・不破美作が暗殺されると攘夷派(外同志)の水野正名が政権を握り、今井ら開国佐幕派は藩政から追放され、明治2年(1869年)切腹を命じられた。48歳。 今井の刑死を知った薩摩藩士の黒田清綱は「久留米は惜しい人物を殺した」と嘆いた。のちに「殉難十志士」と呼ばれる。
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