海軍大臣時代
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1898年(明治31年)、西郷従道の推薦により47歳で第2次山縣内閣の海相に就任し、その後は日露戦争が終結するまでの約8年という長きにわたって事実上の海軍トップとして君臨した。山本は「ロシア海軍に勝つ」という一点を当時の海軍の目標として、様々な施策を行った。「ロシア軍艦を全滅するためには、日本の軍艦も半分は沈める覚悟だ」とも公言している。 士官には海外留学を奨励し秋山真之・広瀬武夫などの多数の青年士官を米国、英国、ロシアなどへ派遣した。士官の教育に力を入れると共に、能力ある兵卒は途中からでも士官になれる制度を作り、佐官まで昇進した者も数名出た。 国内の製鉄所・造船所を整備し、戦時における修理・補給体制を充実させた。また当時の燃料としては最高級の英国炭を全艦船の燃料として採用した。 艦上での食事の改良にも力を注ぎカレーライスや肉じゃがなど栄養価の高い斬新な献立を奨励し、乗組員の健康管理にまで目を配った。当時の日本では脚気が問題であったが、栄養価の高い食事や適度なパン食などで、乗組員の脚気はほぼ皆無になった。 外交では日英同盟を積極的に支持し、海軍条項を早期に同意するなど、外務省に協力した。この功績により1902年(明治35年)、小村壽太郎らと共に男爵に叙せられる。 国内での艦船の新造を振興する一方で日英同盟に配慮して英国へ発注し、また戦後の好意を期待して米国にも発注するなど、広い視野をもって行動した。また日英同盟によって当時世界の主要港を支配していた英国を中立化し、ロシアのバルチック艦隊の日本海までの長期航海における補給・修理・休養を出来る限り妨害して、日本海海戦前に疲労させた。 官房主事時代から取り組んできた海軍軍令部の独立を達成し、明治天皇による初めての海軍軍服の着用、予算規模の拡大などによって、海軍を陸軍と対等の関係まで進めた。また陸軍の大陸への兵站を守る海上権を先ず第一義に考え、日露戦争ではウラジオストク艦隊、次いで陸軍との協同作戦により旅順のロシア太平洋艦隊を全滅させ、船舶の通行の安全を図った。 開戦に備える一方で、ロシア海軍に勝てる見込みが立つまで開戦に反対し続け、用意が整ったと判断するや開戦に賛成した。開戦直前には東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任命し、それまでの人事慣例を破るものと批判されたが、人事権は海軍大臣にあると断行した。明治天皇に理由を尋ねられ「東郷は運の良い男でありますので」と答えた逸話が残っている。1904年(明治37年)、東郷と同時に海軍大将に昇進した。
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