浜田剛史
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基本情報 | |
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本名 | 浜田 剛(旧リングネーム)[1][2] |
階級 | スーパーライト級 |
身長 | 170cm |
リーチ | 173.5cm |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1960年11月29日(64歳) |
出身地 | 沖縄県中頭郡中城村 |
スタイル | 左ファイタータイプ |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 24 |
勝ち | 21 |
KO勝ち | 19 |
敗け | 2 |
無効試合 | 1 |
浜田 剛史(はまだ つよし、1960年11月29日 - )は、日本の元プロボクサー。本名・旧リングネーム:浜田 剛(読み同じ)。沖縄県中頭郡中城村出身。元WBC世界スーパーライト級王者。沖縄県立沖縄水産高等学校卒業。帝拳ボクシングジム所属。現在はプロボクシング解説者、健康食品会社社長。帝拳プロモーション代表。入場曲は『ヒーロー HOLDING OUT FOR A HERO』。
人物
浜田の育った家は総勢21人もの大所帯であった。浜田自身が7人兄弟の末っ子ということもあり、さすがに親の目が届きにくかったのか、幼いころは朝から晩まで自然の中で遊んで育った[3]。
6歳上の実兄・雄二の影響で小学生の頃からプロボクサーを志す。雄二は近所の小学生を集めては野原でスパーリング大会をたびたびやっていたが、剛史は小学4年生でありながら6年生の相手をワンパンチで戦意喪失させるほどで、パンチ力は当時から図抜けたものであった。最後には雄二以外に相手できる者がいなくなってしまった[3]。その雄二をして、剛史のパンチを受けたときの衝撃が高校の同級生達より凄かったと言う。中学時代からは那覇市内のボクシングジムに通った。
世界初挑戦を控えた1986年6月27日、練習中に突然視力が急落、両手の力はミネラルウォーターの栓も締められないほど低下し、階段も四つん這いでしか昇れなくなる、重度のオーバーワーク症状を経験。桑田勇トレーナーは世界戦の1週間前までの練習を一切禁止にし、全てを休養に当てるように指示。本人曰く「一日22時間眠った」末、期日には完全に回復した[3]。
非常にストイック、真面目なボクサーで、現役時代は「ボクサーは目が命」と言って、ボクシングの試合のVTR以外はテレビを見ることなく過ごした[1]。ただ、あまりにハードパンチャーだったため自身の身体に跳ね返ってくる反動も高く、怪我に泣かされた現役生活でもあった。それでも拳の骨折による2年間ものブランクを乗り越え世界王座奪取を果たした上、「15試合連続KO勝ち」の日本記録保持者でもある。現役を引退した今もなお、酒や煙草は一切やらず、自らが後進の手本となっている。
現役引退後は後進の指導のほか、日本テレビ「ワールドプレミアムボクシング」、WOWOW「エキサイトマッチ」など、プロボクシング中継の解説者としても活躍[4][5]。解説は常に冷静かつ的確と評判が高い。日本テレビでは飯田覚士またはセレス小林(以前はファイティング原田)、WOWOWではジョー小泉とコンビを組んでいる。
2007年3月14日、帝拳プロモーション代表に就任[6]。月刊『ボクシング・ビート』では「浜田剛史の世界トップ選手ウォッチ」として主要ボクサーの戦力分析を連載している[7]。
2011年2月11日に公開されたボクシング映画「あしたのジョー」では解説者として出演している。
主な戦績
沖縄水産高3年時の1978年、インターハイ・フェザー級優勝。アマチュア通算43戦37勝 (28KO) 6敗[8]。同校卒業後上京し、帝拳ジムに入門、同時に当時ジムのスポンサーだったKKベストセラーズに就職。
1979年5月21日、プロデビュー(2回KO勝ち)。スーパーフェザー級だった。(翌年2月全日本新人王決定戦制する)今井房男に判定で不覚を取った。
1981年7月18日のノンタイトル戦で左拳を骨折したのを皮切りに、同じ個所を4度骨折。結果として、復帰まで2年あまりを要する。
1983年8月5日、2年振りの復帰戦(2回KO勝ち)。この試合からリングネームを本名の「浜田剛」から「浜田剛史」に改める。
1984年9月9日、元WBA世界ライト級チャンピオンのクロード・ノエル(トリニダード・トバゴ)に4回KO勝ち。ムサシ中野、串木野純也、赤井英和らが保持した「12試合連続KO勝利」の記録を破る「13試合連続KO勝利」の日本新記録を樹立。
1984年12月2日、日本王座初挑戦。日本ライト級王者友成光に挑み、7回TKO勝ち。王座獲得に成功。連続KO勝利記録を14に伸ばす。
1985年4月4日、タイ国ライト級王者ダウトーン・チュワタナとのノンタイトル10回戦で2回KO勝ち。連続KO勝利記録を15に伸ばす。
1985年7月7日、東洋太平洋王座初挑戦。東洋太平洋ライト級王者ジョンジョン・パクイン(フィリピン)に挑み、12回判定勝ち。連続KO記録こそ途絶えたものの、王座獲得に成功する。しかし、この試合で今度は右膝の半月板を損傷した[1]。11月には初防衛成功。
1986年7月24日、22戦目にして世界初挑戦。東京・両国国技館でWBC世界スーパーライト級王者レネ・アルレドンド(メキシコ)に挑む。39勝中37KOを誇る強打の王者相手に積極果敢に打ち合いを挑む。迎えた初回終了間際、右フックで王者の腰を大きく落とさせると、一気に連打を叩き込み、最後は左ストレートでダウンを奪う。王者は起き上がることができず、そのまま10カウント。3分9秒KO勝ちを収め念願の世界王座奪取に成功。
同年12月2日、初防衛戦。ロニー・シールズ(米国)と対戦するが、挑戦者のアウトボクシングの前に得意の強打を発揮することができず。苦戦を強いられたが、12回判定(2-1)勝ちを収め防衛成功。
1987年7月22日、2度目の防衛戦。前王者アルレドンドと再戦したが、6回、前王者の強打に捕まりダウン寸前に陥ったところでレフェリーストップ。世界王座を手放した。
世界王座陥落後、1勝1敗となったアルレドンドとの完全決着を期し、一時は再起に向け始動したものの、負傷を抱える右膝の具合が思わしくなく、またアルレドンドが初防衛戦で王座を手放したことも重なり、再起を果たすことなく引退。プロ通算24戦21勝 (19KO) 2敗1無効試合[8]。
戦績
戦 | 日付 | 勝敗 | 時間 | 内容 | 対戦相手 | 国籍 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1979年 | |||||||
1 | 5月21日 | 〇 | 2R | KO | 掛川 憲正(大星) | 日本 | プロデビュー戦 |
2 | 10月4日 | 〇 | 1R | KO | 村山 雅彦(三迫) | 日本 | |
3 | 10月23日 | ● | 4R | 判定 | 今井 房男(三好) | 日本 | |
1980年 | |||||||
4 | 2月22日 | 〇 | 5R | KO | 多賀 邦夫(角海老) | 日本 | |
5 | 4月29日 | 〇 | 1R | KO | 風間 勝雄(風間) | 日本 | |
6 | 7月1日 | 〇 | 6R | TKO | 登坂 静男(ピストン堀口) | 日本 | |
7 | 8月29日 | 〇 | 1R | KO | 奥山 源彦(平和) | 日本 | |
8 | 11月23日 | 〇 | 1R | KO | 峰 猛(センターS) | 日本 | |
1981年 | |||||||
9 | 2月10日 | 〇 | 8R | KO | 福井 武志(北陸石丸) | 日本 | |
10 | 5月10日 | 〇 | 2R | KO | ベラチャート・マハチャイ | タイ | |
11 | 7月18日 | 〇 | 2R | KO | デオ・ラバゴ | フィリピン | |
1982年 | |||||||
1983年 | |||||||
12 | 8月5日 | 〇 | 2R | KO | マックスボーイ・ドヨゴン | フィリピン | |
13 | 10月14日 | 〇 | 1R | KO | ドミー・ソリアーノ | フィリピン | |
1984年 | |||||||
14 | 3月1日 | × | 6R | - | ホセ・レセンデス | メキシコ | 無効試合 |
15 | 4月3日 | 〇 | 3R | TKO | グレッグ・トリプレット | アメリカ合衆国 | |
16 | 7月12日 | 〇 | 1R | KO | ロミー・クナナン | フィリピン | |
17 | 9月9日 | 〇 | 4R | KO | クロード・ノエル | トリニダード・トバゴ | |
18 | 12月2日 | 〇 | 7R | TKO | 友成 光(新日本木村) | 日本 | 日本ライト級王座獲得 |
1985年 | |||||||
19 | 4月4日 | 〇 | 2R | KO | ダウトーン・チューワッタナ | タイ | 15連続KO記録樹立 |
20 | 7月7日 | 〇 | 12R | 判定 | ジョンジョン・パクイン(比) | フィリピン | OPBF東洋太平洋ライト級王座獲得 |
21 | 11月3日 | 〇 | 1R | KO | スワルノ・ペリコ | インドネシア | OPBF東洋太平洋ライト級王座防衛1 |
1986年 | |||||||
22 | 7月24日 | 〇 | 1R | KO | レネ・アルレドンド | メキシコ | WBC世界スーパーライト級王座獲得 |
23 | 12月2日 | 〇 | 12R | 判定 | ロニー・シールズ | アメリカ合衆国 | WBC世界スーパーライト級王座防衛1 |
1987年 | |||||||
24 | 7月22日 | ● | 6R | TKO | レネ・アルレドンド | メキシコ | WBC世界スーパーライト級王座陥落 |
テンプレート |
受賞歴
- 年間表彰[9]
- KO賞3度(1981年、1984年、1985年)
- 努力賞(1983年)
- 技能賞2度(1984年、1985年)
- 最優秀選手賞(1986年)
- 年間最高試合賞(1986年:レネ・アルレドンド戦)
出演
映画
脚注
- ^ a b c 宮崎正博 著「浜田剛史〜初回KOでタイトル強奪の強打者〜」、ボクシング・マガジン編集部編 編『THE GLORIOUS MOMENTS 究極の栄光・世界チャンピオン名鑑 – 日本ボクシング史に輝く41人の男たち』ベースボール・マガジン社〈B.B.MOOK117 スポーツシリーズNo.72〉、2000年1月15日、pp. 66–67頁。ISBN 978-4-583-61076-4。
- ^ 日本プロボクシング協会: “世界王者アーカイヴス (World Champion Archives)”. 浜田剛史. 日本プロボクシング協会 (2008年6月1日). 2009年11月24日閲覧。
- ^ a b c 「浜田剛史物語」『実録ボクシング世界王者 最強ハングリー列伝』竹書房、2009年10月14日、pp. 144–190頁。ISBN 978-4812469675。
- ^ “NTV BOXING PROGRAM ダイナミック・グローブ – 解説・実況アナ紹介”. 日本テレビ. 2010年8月20日閲覧。
- ^ “ボクシング「エキサイトマッチ」|出演者紹介”. WOWOW. 2010年8月20日閲覧。
- ^ “帝拳新代表に浜田氏!本田会長が指名「国内全権」”. スポーツ報知. (2007年3月15日). オリジナルの2007年3月21日時点におけるアーカイブ。 2011年4月2日閲覧。
- ^ “ボクシング「エキサイトマッチ」|浜田剛史の世界トップ選手ウォッチ”. WOWOW. 2010年8月20日閲覧。
- ^ a b ボクシング・マガジン編集部編 編『日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年 (JAPAN PRO BOXING HISTORY – 50 YEARS OF WORLD TITLE BOUTS)』ベースボール・マガジン社、2002年5月31日、pp. 256, 297頁。ISBN 978-4-583-03695-3。
- ^ Hisao Adachi (2007年3月15日). “¡Hamada asume cargo en Teiken Promotion!” (スペイン語). NotiFight.com. 2010年8月21日閲覧。
関連項目
- 男子ボクサー一覧
- 世界ボクシング評議会(WBC)世界王者一覧
- 東洋太平洋ボクシング連盟(OPBF)王者一覧
- ボクシング日本王者一覧
- 日本のボクシング世界王者一覧
- 沖縄県出身の人物一覧
- はじめの一歩 連載初期、主人公・幕之内一歩のモデルが浜田とされていた。
外部リンク
- 浜田剛史 (@hamada_tsuyoshi_official) - Instagram
- 浜田剛史 (@champ_hamada) - X(旧Twitter)
- 浜田産業 - 浜田が代表を務める栄養補助食品の製造・販売会社。
前王者 レネ・アルレドンド | WBC世界スーパーライト級王者 1986年7月24日 - 1987年7月22日 | 次王者 レネ・アルレドンド |
濱田剛史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/16 19:41 UTC 版)
濱田 剛史 はまだ たけし | |
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内閣府地方創生推進室より公表された肖像 | |
生年月日 | 1964年10月30日(58歳) |
出生地 | 日本 大阪府八尾市 |
出身校 | 大阪経済法科大学法学部 |
前職 | 検察官 弁護士 |
現職 | 高槻市長 |
所属政党 | 無所属 |
称号 | 法学士 |
公式サイト | 高槻市長 はまだ剛史WEBサイト |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 2011年5月1日[1] - 現職 |
濱田 剛史(はまだ たけし、1964年〈昭和39年〉10月30日[2] - )は、日本の政治家、弁護士、元検察官。大阪府高槻市長(4期)。
父は音曲漫才師の暁照雄。
来歴
大阪府八尾市で出生。「暁照雄・光雄」(松竹芸能所属の音曲漫才コンビ)の一員として知られた実父(暁照雄)からは、演芸や芸能の世界ではなく、大学へ進学することを幼少期から勧められていたという。
実際には、興國高等学校から大阪経済法科大学の法学部へ進学。大学からの卒業後に、会社員を経て1993年の司法試験に合格した。司法修習を経て、1996年4月に検事に任官。大阪地方検察庁や東京地方検察庁に勤務した。2002年3月の退官を機に、弁護士として大阪弁護士会へ登録。2009年4月から2年間、大阪府高槻市の公正職務審査会委員を務めた。また、姫路獨協大学の法科大学院、関西大学、母校の大阪経済法科大学で教鞭を執っている。
2011年(平成23年)4月に、高槻市の市長選挙へ初めて立候補。公正職務審査会の委員として接してきた奥本務市長の引退に伴う出馬で、奥本からの支援や民主・自民・公明各党からの推薦・支援を背景に、対立候補(元・市議の吉田康人)を斥けて初当選を果たした(濱田:73,701票、吉田:70,412票)[3]。
2015年(平成27年)4月19日公示、4月26日執行の同市長選挙に出馬し、2回目の当選[4]。同年5月1日に市長就任。
2021年(令和3年)5月21日、中核市市長会会長に就任[6]。
2022年(令和4年)5月20日、中核市市長会会長に再任[7]。
2023年(令和5年)4月16日公示、4月23日執行の同市長選挙に出馬し、元衆議院議員、元大阪府議会議員の松浪健太看護師の吉本草蔵を破り4回目の当選[8]。
市政
- 2020年5月1日、新型コロナウイルス対策の財源に充てるため、自身を含む特別職7人の5月から2021年3月までの月額給与の減額率を現行の10%から20%に変更する条例案を市議会臨時会に提出。同日、同条例案は可決された[9]。
脚注
- ^ 議員・首長の任期満了日 - 大阪府
- ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、288頁。
- ^ 2011年統一地方選
- ^ 2015年統一地方選
- ^ 2015年統一地方選
- ^ 令和3年度中核市市長会役員体制
- ^ “令和4年度 中核市市長会総会を開催しました | 中核市市長会”. www.chuukakushi.gr.jp. 2022年8月6日閲覧。
- ^ 2023年統一地方選
- ^ “新型コロナ 高槻市、補正予算案379億円 単親家庭など補助 /大阪”. 毎日新聞. (2020年5月1日) 2020年6月1日閲覧。
外部リンク
- 高槻市長 はまだ剛史WEBサイト
- 濱田剛史 (@hamada_takeshi) - Twitter
- 濱田剛史 (m.hamada.takeshi) - Facebook
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