活動の年譜
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「ウサーマ・ビン・ラーディン」の記事における「活動の年譜」の解説
1979年、アフガニスタンのソビエト軍と戦うためにアブドゥッラー・アッザームの呼びかけに応じパキスタン入りし、ムジャーヒディーンの1人となる。 1988年、マクタブ・アル=ヒダマトが分裂。ペシャーワルでアルカーイダを組織。 1990年、アフガニスタンの英雄としてサウジアラビアに帰国。 1991年、湾岸戦争で、異教徒のアメリカ軍の介入や聖地メッカのあるサウジアラビアへのアメリカ軍駐留に反発し、スルターン・ビン・アブドゥルアズィーズ・アル=サウード王子に交渉するも拒否され、反サウード家を鮮明にする。 1992年、サウジアラビア国籍剥奪。国外追放され、スーダンに身を寄せる。スーダンで建築事業を営みインフラ整備に携わる。アルカーイダの組織はこの時期この地で大幅に拡大され、国際的なネットワークが繋がり、「イスラムの教えに反する者全てに聖なる戦いを仕掛けよ」と呼びかけた。 1996年、アフガニスタンに移動しイスラム原理主義勢力ターリバーンに客人として扱われる。豊富な資金力でアルカーイダの基地を作り、テロ訓練を行う。 1998年、ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線結成。「アメリカと同盟国の国民を殺害せよ」というファトワをアイマン・ザワーヒリーと連名で出す。アメリカ大使館爆破事件。スーダンの化学工場とアフガニスタンの訓練キャンプがアメリカ軍のミサイル攻撃を受ける。 1999年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1267でビン・ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを要求。ターリバーンは拒否。 2000年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1333でビン・ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを要求。ターリバーンは拒否。 2001年秋、アル・カーイダのメンバーであるモハメド・アタ他数名による9.11アメリカ同時多発テロ事件発生。ブッシュ政権にアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、ターリバーンに身柄の引渡し要求がつきつけられたが、ターリバーンはこれを拒否した。 ターリバーン政権崩壊後は消息不明だが、アフガニスタンとパキスタンの国境山岳地帯に潜伏していると推定されており、パキスタン軍の掃討作戦に包囲されているとの情報も流れた。 2002年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1390でビン・ラーディンとアル・カーイダ関係者およびターリバーン幹部の資産凍結を決定。 2004年2月28日、イラン・イスラム共和国放送のパシュトゥーン人向けラジオ放送が、パキスタン国境付近でパキスタン軍が"だいぶ前に"ビン・ラーディンを拘束したとのニュースを伝えたが、AP通信/ロイターによると、パキスタン外相、アメリカ国防総省はこの情報を否定した。 2004年10月29日、カタールの衛星テレビ局アルジャジーラが、その頃撮影されたといわれるウサーマの映像を放映。この中で、ウサーマと思しき男はアメリカ同時多発テロ事件を行ったことを初めて認め、更なるテロを警告した。これに対し、ブッシュ大統領は「脅しに屈しない」と強調した。 2005年10月に発生したパキスタン地震によりアメリカ諜報部が彼の消息が絶ったとし、更には人工透析の電子機器が常に必要でありながらも地震により電力が止まっているなどの情報もあるため、ドイツの新聞がビン・ラーディン死亡説を報道した。 2007年1月31日、米CNNはアラブ首長国連邦のドバイにて、ウサーマの義理の兄弟がマダガスカルで武装グループの襲撃を受け射殺されたことを明らかにした。被害者の兄弟がUAEの衛星テレビアル・アラビーヤに語った。 2011年5月2日、パキスタンのアボッターバードで米軍によって射殺される。
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