桜島地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/10 07:37 UTC 版)
桜島地震 | |
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倒壊した住宅(鹿児島市) | |
本震 | |
発生日 | 1914年1月12日 |
発生時刻 | 18:28(JST) |
震央 | 日本 鹿児島県 鹿児島湾 北緯31度36分 東経130度36分(北緯31度36分 東経130度36分 / 北緯31.600度 東経130.600度) |
震源の深さ | 6 - 10[1] km |
規模 | マグニチュード(M)7.1 |
最大震度 | 震度6:鹿児島県鹿児島市[2] |
津波 | 3、6m |
地震の種類 | 火山性地震 |
被害 | |
死傷者数 | 死者29名 負傷者111名[2] |
被害地域 | 鹿児島県 |
本文脚注参照 出典:特に注記がない場合は理科年表による。 | |
プロジェクト:地球科学 プロジェクト:災害 |
桜島地震(さくらじまじしん)は、1914年(大正3年)1月12日午後6時28分(JST)、鹿児島県中央部の、薩摩半島と桜島に挟まれた鹿児島湾を震源として発生したM7.1[3][4]の地震。地震規模推定に使用された観測点が少ない為、最終的に精度を丸めた値と考えられている[4]。
概要
桜島大正大噴火の最中に起きた地震であり、噴火開始から約8.5時間後に発生している。通常の火山性地震はマグニチュード6以下であるが、この地震は例外的に規模が大きい[3]。
単純な火山性地震ではなく、マグマの侵入によって地殻の強度が低下し、元々蓄えられていたひずみが解放されたため、大地震につながった[1]。
噴火に先立つ11月9日16時以降、桜島島内では数回の有感地震を感じていたとされる[5]、その後には鹿児島郡東桜島村有村(現在の鹿児島市有村町)の有村温泉場でも有感地震を感じていた[5]。11日には鹿児島市内でも明瞭な地震を感じる様になっていた[5]。
本震による各地の震度
桜島地震の本震による各地の最大推定震度は以下の通りである[6]。鹿児島市では最大震度が6弱と推定されるが、これらは臨海部の埋立地に限られ、市街地の多くは5弱~5強であったと報告されている[7]。
震度 | 都道府県 | 観測所 |
---|---|---|
6 | 鹿児島県 | 鹿児島市沿岸部 |
3(弱) | 熊本県 | 熊本 |
佐賀県 | 佐賀 | |
宮崎県 | 宮崎 | |
2(弱・弱キ方) | 長崎県 | 長崎 |
1(微) | 長崎県 | 佐世保 |
大分県 | 大分 | |
広島県 | 広島 | |
静岡県 | 浜松 |
被害
当時の鹿児島市と谷山村(後の谷山市、現:鹿児島市の一部)を中心に死者29名、負傷者111名、住宅の全壊120棟、半壊195棟の被害があった[8]。道路は土砂崩れにより各所で寸断され、特に鹿児島郡西武田村大字田上(現:鹿児島市田上)の天神ヶ瀬戸では、県道が高さ約3.6m、長さ約54mにわたって崩壊し、谷山村山田(現:鹿児島市山田町)に向け避難中であった20名以上が下敷きとなり、10名が死亡した[2]。
その他にも谷山村の清見橋の上部が崩壊し交通が途絶えたり、潮見橋の高欄の一部が落下するなどし、交通に影響を与えた[9]。
また、鹿児島市、伊敷村(現:鹿児島市の一部)、伊集院町、日置村(後に日吉町の一部、現:日置市)では石垣が崩壊し、7名が死亡している[9]。
鉄道は落石や路盤崩壊などにより、鹿児島本線(当時)の鹿児島駅 - 重富駅間及び、川内本線(当時)の武駅(現在の鹿児島中央駅) - 伊集院駅間が不通となった。伊集院駅方面は1月13日午後、重富駅方面は1月14日未明に復旧している[10]。
小規模津波の発生
また、地震の揺れにより、鹿児島測候所(後の鹿児島地方気象台)の地震計が破損した。この地震により小規模な津波(波高2m前後)が発生しており、当時、鹿児島湾沿岸にあった塩田や江戸期の埋立地などでは地盤沈下を含めて大きな被害を受けた[11]。
鹿児島市内の混乱
地震発生が桜島の大正大噴火の最中であったことから鹿児島市内では住民の不安が加速され、大津波発生などの流言が飛び交い市外へ避難しようとする人々が続出し混乱した[12]。
脚注
- ^ a b 横山泉、荒牧重雄、中村一明編 『岩波講座 地球科学7 火山』 岩波書店、1982年。
- ^ a b c 鹿児島県総務部消防防災課編 『桜島火山対策ハンドブック 改訂版』 鹿児島県、1989年。
- ^ a b 2.日本で起こる地震 (PDF) p.17(地震の発生メカニズムを探る) - 地震調査研究推進本部 2012年1月20日閲覧。
- ^ a b 阿部勝征「桜島地震の震源とマグニチュード」『北海道大学地球物理学研究報告』第39巻、北海道大学理学部地球物理学教室、1981年1月、57-62頁、doi:10.14943/gbhu.39.57、ISSN 04393503、NAID 120000962787。
- ^ a b c 山科健一郎、「資料からみた1914年桜島大正噴火の開始と噴火に先立つ過程」『火山』 1998年 43巻 5号 p.385-401, doi:10.18940/kazan.43.5_385
- ^ 林豊、「大正三年桜島噴火に先立って発生した地震の規模の推定 (PDF) 」『歴史地震』第19号 2003年, p.101-107, 2012年9月6日閲覧。
- ^ 深見聡「1914年桜島地震の被害と鹿児島市の地盤」『鹿児島県地学会誌』第81巻、鹿児島県地学会、2000年6月、25-38頁、ISSN 1341-7223、NAID 120006987275。
- ^ 桜島の大規模噴火発生開始時の火山情報 (PDF) p.34 - 京都大学防災研究所 2012年1月20日閲覧。
- ^ a b 第二章 大正噴火の経過と災害 p.78 - 内閣府 2012年9月6日閲覧。
- ^ 九州鉄道管理局編 『大正三年桜島噴火記事』 1914年。
- ^ おわりに-桜島大正噴火の教訓(災害教訓の継承に関する専門調査会報告書)p.158 - 内閣府 2012年1月19日閲覧。
- ^ おわりに-桜島大正噴火の教訓(災害教訓の継承に関する専門調査会報告書)p.154 - 内閣府 2012年1月19日閲覧。
関連項目
桜島地震
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 14:37 UTC 版)
詳細は「桜島地震」を参照 大正大噴火が始まった1月12日の18時28分頃、大きな地震が起きた。この地震の震源は研究者によって多少の違いはあるが、おおむね桜島西方ないし南方の錦江湾内とされている。また規模については記録に残されている震度分布と近隣で発生した地震の記録との比較から、マグニチュード7程度と考えられている。マグニチュード7程度というのは、これまで鹿児島県の本土地域で観測された地震の中で最大規模であり、また火山噴火に伴って発生した地震としても観測史上最大規模である。桜島地震後、鹿児島市沿岸では小規模な津波を観測している。 なお歴史時代の他の大噴火では、764年に噴火開始した天平宝字噴火の際に群発地震が発生したとの記録がある。 桜島地震では鹿児島市内の被害が大きかった。市街地東部の埋め立て地では震度6、埋め立て地の西側にあたる旧海岸線付近の砂州や砂が堆積した地域、そして市街地北東部の谷底にあたる地域では震度5強を記録したと考えられる。死者は29名であった。 噴火開始直後は対岸の火事視していた鹿児島市民であったが、噴火の規模が大規模になっていくにつれて様々な流言飛語が飛び交うようになり、多くの市民は不安感を抱くようになっていた。そのような状況下で桜島地震が発生したため鹿児島市内はパニック状態に陥り、人々は我先と鹿児島市内から避難を始め、鹿児島市内は一時ほとんど人影もまばらな状態となった。鹿児島市近郊の伊敷村に駐屯していた大日本帝国陸軍歩兵第45連隊はこの混乱を見て照国神社に衛戍司令部を置き、鹿児島市内の火災防止及び治安維持にあたった。
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