本土防空戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/12/09 01:06 UTC 版)
- 第二次世界大戦時のイギリスにおけるもの:バトル・オブ・ブリテン参照。
- 第二次世界大戦時の日本におけるもの:日本本土空襲参照。
- ほかに第二次世界大戦時のドイツにおけるものなどがある。
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本土防空戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:02 UTC 版)
8月10日夜、B-29計24機が長崎を目標に飛来し、遠藤は僚機1機とともに緊急発進したが、濃霧にさえぎられて会敵はかなわなかった。10日後の8月20日には、B-29計61機が昼夜の2度にわたって八幡を空襲。これに対して日本側は海軍が第三〇二海軍航空隊派遣隊の3機を含む「月光」4機と零戦35機、日本陸軍は二式複座戦闘機「屠龍」に加えて、三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」合計82機が迎撃し、激しい空戦が繰り広げられた。 遠藤は斜銃における戦闘の基本通り、まずは佐世保上空で1機のB-29の下方に占位すると、冷静沈着に照準を合わせて斜銃を掃射して、B-29の主翼が炎上するのを確認し離脱、そして別のB-29に向かい同様の機動を繰り返したが、遠藤の月光もB-29の反撃で12.7㎜機銃9発をエンジンなどに被弾していたので済州島に不時着した。遠藤自身の戦果確認基準は、敵機の墜落までを遠藤自身が確認しないと「撃墜」とはしていなかったので、第三五二海軍航空隊に対して行った戦果報告は「敵大型機ニ対シ中破3機、小破2機」という控えめなものであった。 一方、陸軍も海軍「月光」の活躍に触発されて「屠龍」に斜銃(陸軍では上向き銃と呼称)を搭載していたが、陸軍の「B-29撃墜王」樫出勇大尉がその「屠龍」を駆って活躍、この日陸軍は野辺重夫軍曹機の体当たりなどで「撃墜確実12機、不確実11機」と多大な戦果を記録した。 陸軍の戦果報告を受けて、海軍の第三五二海軍航空隊司令部において戦果の検証が行われて「撃墜確実2、概ネ確実1、中破2」と遠藤のB-29初撃墜が記録された。海軍全機では零戦による戦果も含めて「撃墜確実3、不確実2、中破2」の戦果が報告された。海軍の戦果が遠藤の報告よりも上方修正されたのは、日本海軍が初のB-29迎撃で戦果判定に不慣れであったことや、大戦果を報じた陸軍に対して海軍が張り合った可能性も指摘されている。一方、アメリカ軍側の記録でも、この日はB-29出撃61機中14機損失、うち対空火器で1機、戦闘機で4機(空対空爆弾1機、体当たり2機)原因不明及び他の原因で9機を報告している。61機の出撃に対しての損失率は15.9%となり、第二次世界大戦中のB-29の出撃のなかでは最悪の損失率となった。遠藤はこの日の活躍で、佐世保鎮守府司令長官侯爵小松輝久中将から10月29日付で感状を、西部軍司令官下村定陸軍中将からも10月11日付で賞詞と軍刀を授与された。 10月25日には、長崎県大村の新鋭艦上攻撃機流星を製造していた航空機工場や、大村市街地を爆撃のため5回に渡って来襲したB-29合計56機を、大村海軍航空隊の零戦や雷電延べ73機と協力して全力で迎撃、海軍航空隊による九州での最大級のB-29迎撃戦となった。この日迎撃した「月光」は6機ないし4機であったが、8,000mの高高度で侵入してきたB-29に対して、零戦や雷電では満足に迎撃ができず、5機がベーパーロック現象で離脱し、27機が機銃の凍結で戦闘ができなかった。その中で遠藤が率いる「月光」隊は、大村海軍航空隊の飛行長神崎国雄大尉とよく連携のうえで主力となって戦い、この日、海軍はB-29を1機撃墜し18機撃破の戦果を記録した。この撃墜の1機は、損傷したB-29を遠藤が長躯追撃して止めを刺したものであった。アメリカ軍の記録では損失2機(うち1機は離陸中の事故)損傷12機で、日本軍側の戦果報告とほぼ一致する。しかし、爆撃により流星の工場は壊滅的な損害を受けて生産計画を大きく狂わせることとなり、大村市民に300名の犠牲者を出した。10月末には遠藤は、撃墜確実6機、不確実分を含めると10機の戦果を数えて、「B-29撃墜王」として盛んに喧伝されることとなった。11月1日には大尉に昇進したが、海軍兵学校卒の士官並みのスピードであり、遠藤の栄光のときは続いた。 その後に厚木の本隊に帰還した遠藤は第二飛行隊「月光」隊分隊長となり、大尉に昇進後11月3日に八丈島派遣隊隊長として3機の「月光」とともに八丈島に進出。この時から、遠藤機の担当偵察員は西尾治上飛曹となった。マリアナ諸島から東京を目指すB-29を、陸軍の電探を生かして東京の手前で迎撃するという目的で派遣された八丈島派遣隊は、東京のみならず名古屋目指して飛来するB-29編隊をも迎えうち、12月18日には乗機に多数被弾しながらも「1機撃墜、2機撃破」を報じた。アメリカ軍の記録では、この日の名古屋空襲では4機のB-29を損失、12月27日にも熱海上空で単機進入のB-29を迎撃して1機の撃墜を報告している。八丈島派遣隊は1945年(昭和20年)1月8日付で復帰命令が出され、1月9日に厚木に戻ってきた。 遠藤によれば、B-29の弱点は主翼の付け根であり、そこに4連射分の20㎜機銃を打ち込み離脱すれば、B-29からの反撃を避けられた。遠藤はその攻撃法が慣習と言えるほどに身についていたが、遠藤は教官歴が長かったこともあってか、このようなB-29の攻撃法について、同じ第三〇二海軍航空隊の「月光」搭乗員らにも熱心に指導をしていた。他にも多彩なB-29攻撃法を編み出していた遠藤は、同じ第三〇二海軍航空隊の他にも、大村の第三五二海軍航空隊など多くの月光搭乗員にその戦法を惜しげもなく伝授し、月光隊の戦力強化に大いに貢献している。第三〇二海軍航空隊には月光の他に零戦、雷電、彗星夜間戦闘機型などの他機種の分隊もあったが、出撃するたびに撃墜マークを増やしていく遠藤の活躍は、他機種の分隊の搭乗員からも称賛と羨望の的であった。一方で若い搭乗員からは、遠藤は報道による喧伝もあって「国民を鼓舞する英雄」となっており、雲の上の存在で気安く話をできる存在ではなかった。また、B-17やB-24には善戦した「月光」も、B-29に対しては速度が大きく劣後するなどまともに戦える性能ではなく、その「月光」で戦果を積み重ねる遠藤は、若い搭乗員らからは神がかって見えたという。 B-29の戦略爆撃によって絶望的な焦燥感にかられていた国民にとっても、新聞で派手に報道される遠藤の活躍は数少ない救いとなっており、全国の老若男女から遠藤宛のファンレターが厚木基地に殺到した。遠藤はその律儀な性格から届いたファンレターすべてに目を通し必ず返事を出していたが、数が増える一方で最後はとても返信できる量ではなくなってしまったので、ある日、届いた小学生の手紙を読んで「坊や、ゆるしておくれね。おじさんは忙しくって、とても返事を書くひまがない。返事は出せないが、B公を墜とすことが、おじさんの返事と思ってください」と詫びている。生来照れ屋で純真な遠藤は、このように持て囃されることに困惑しており、予科練時代の恩師であった浮田に「われわれ搭乗員が敵機と戦うは任務であり、撃墜するのは当然のことであります。しかるに新聞雑誌上において、戦果云々をおおげさに報ずる点、まったく迷惑いたしております。」という手紙を送っている。
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