暦法の研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 21:22 UTC 版)
文政8年(1825年)来府当初から暦学にも興味を持ち、増上寺僧円通に入門し、陰陽道を伝授された。文政10年(1827年)上京し、現行の寛政暦を秘伝する陰陽頭土御門晴親に入門した。 文政12年(1829年)一旦江戸に戻り、和田寧より和田流算術の皆伝を受けた、算術4流を修めたことで名声が広まり、鳥取藩に仕官の誘いを受けたが、これを徳島藩に諮ったところ、天保元年(1830年)9月在外指留を命じられた。 天保5年(1834年)再び上京し、土御門家に寛政暦の暦法を伝授され、天保7年(1836年)『丁酉元暦』を土御門家に献上し、7月5日師範代に列せられた。 寛政暦は、清の暦書『暦象考成』に基づき、麻田剛立が提唱した消長法を取り入れたものだった。自身の観測結果と照合した結果、消長法は「麻田氏の偽作盲言」と結論付け、また『暦象考成』についても五星暦の記述に関して疑念を抱いた。 天保6年(1835年)5月江戸に戻り、中西金吾を介して江戸幕府天文方渋川景佑に入門した。消長法や五星暦に関する疑問をぶつけたところ、高橋至時の『新修五星法』等の著作を紹介され、また天文方において解読の努力が続けられていた蘭書『ラランデ暦書』の存在を知った。 天保10年(1839年)8月の日帯食、天保11年(1840年)1月の日食、2月の月食の観測結果を通じて寛政暦の誤りを確認し、冊子にまとめて幕府に献上したところ、水野忠邦の目に留まり、書物方受持奥小姓支配となった。 天保12年(1841年)2月16日鍛冶橋藩邸で行われた公開検証において月食の時刻を的中させ、4月徳島に帰った。
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