日露戦争時
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日露戦争開戦直前の明治37年(1904年)1月、野戦砲兵監であった伊地知は突然本職を免じられ韓国公使館付武官となる。日露開戦にあたりロシア帝国の機先を制するため、参謀本部は有為の人物を韓国に派遣して情報任務や特別任務に従事させたが、この一員であった。開戦初頭の大陸進出を容易に行うため、韓国臨時派遣隊(木越旅団)の宿舎の準備などが行われた。また臨時派遣隊の到着を翌日に控えた2月8日に晩餐会を開くといった欺瞞行為を実行した。翌日9日の仁川沖海戦の後、臨時派遣隊は無事上陸を果たした。開戦後に生じた、ロシア公使及び公使館付護衛部隊の処理という問題の解決についても、伊地知の尽力が大きかった。伊地知はフランス語が堪能であり、西洋の風俗習慣に精通していたことから、外国人間において特に信任を得ていたという。また、当時日韓両国間での難問であった日韓議定書締結問題についても関与しており、2月頃に韓国内の反対派(李容翊)を排除することに成功している。伊地知の公使館付武官としての任期は二か月のみで、同年3月には帰国し、再度、野戦砲兵監に任じられる。 その後、旅順要塞攻撃のために編成された第3軍 (総司令官・乃木希典大将)の参謀長に就任した(旅順攻略戦の推移と状況は旅順攻囲戦の項を参照のこと)。 第3軍は、大連から遼東半島を西進してゆく過程でロシア軍の防禦陣地との戦闘を幾度も経験し、ロシア軍の防御が堅固であることを十分に認識していた。為に伊地知は慎重な態度を取るようになった。 第3軍は7月30日にはロシア軍を要塞内へ追いやり包囲を完成させた。包囲後まもなくの8月4日、満州軍総司令部参謀・井口省吾少将が第3軍司令部を訪問をする。「旅順攻撃ノ時日を短縮スベキコト」を要請する参謀総長・山縣有朋からの書簡を手渡すためであった。大本営は出来るだけ早く旅順艦隊を処理し監視に拘束されている日本艦隊を自由にしたい、また第3軍を早期に北方戦線に加入させたいという思惑があり、また旅順要塞の攻略を楽観視していたため、「急襲速攻を主張」した。しかし、遼東半島各地での戦闘でロシア軍の堅固な防御を実戦で経験し慎重な態度をとるようになっていた伊地知ら第3軍側は、「急進突撃一挙これを陥るる如きは必敗を免れざる」と頑として拒否した。「井口対伊地知両少将の旅順要塞攻撃意見は絶対に相違したるために、談論逐次激越に陥り、遂には腕力沙汰にも及びかねまじき勢いであったという」と伝えられる。この談論は、計画の時日より三日だけ早めるということで決着した。 包囲後、軍司令部は柳樹房なる場所に置かれた。ここもしばしば敵弾に見舞われる場所であったが、第一回総攻撃にあたっては戦闘司令所は激戦地となった東鶏冠山北堡塁から3kmという場所(団山子東北方高地)にまで進められ、主にここで指揮が取られた。総攻撃の攻撃方法は「強襲法」が選択された。この選択にあたっては、当時、「フォン・ザウエルの強襲戦法」なるものが兵学界を風靡していた事が影響していると思われる。旅順要塞は各保塁をコンクリート(当時は仏語のベトンと呼ばれていた)で囲い、堡塁間には塹壕を掘って鉄条網を敷いた防御線を3重に渡って施設した近代要塞で、機関銃、大砲、地雷をもって防禦されており、第一回総攻撃は大損害を被り東西盤龍山堡塁の確保という戦果に留まり失敗に終わった。 総攻撃中止後、柳樹房にて以後の攻撃方法が議論された。軍司令部側は強襲法を取りやめ、兵站参謀・井上幾太郎工兵少佐の提案する正攻法に切りかえる案を提案したが、実戦部隊である各師団代表は強襲法の継続を主張した。議論の決を採るべき立場の伊地知は採決を取ることができず、最終的に乃木の決断によって正攻法の採用で決着した。 内地では大口径砲を旅順戦に用いることが決定され、二十八糎榴弾砲6門が配属されることになった。これは9月上旬に到着し、10月初頭には試射が行われている。更に6門が増加配属され、中旬に更に6門が増加配属となり、合計18門が旅順攻囲戦に使用されることになった。 攻囲戦の途中、攻略が遅いことを理由に満洲軍総司令部や大本営から第3軍司令部の人事刷新の意見が出されたこともあったが、明治天皇や大山巌の反対により却下され、攻略戦の終結まで第3軍参謀長として任務を全うした。攻略戦後は旅順要塞司令官に任命され軍参謀長としての職務を終えた。日露戦争終結後の国内凱旋は、北方より帰還する第3軍司令部に同道した。
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