戦地へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 05:17 UTC 版)
水嶋と木下は『若葉レフト・ライト』として売り出し中の若手漫才コンビ。しかし、太平洋戦争が始まり、軍部から英語は敵性語として『若葉ひだり・みぎ』に改名させられ、さらに漫才の内容に検閲が入り、オチは必ず「打倒アメリカ」、「最後まで聖戦を戦い抜こう」、「大日本帝国万歳」、「天皇陛下万歳」という国威発揚のものに改変させられた。英語の芸名こそ斬新さがあり、オチの解る漫才など誰が見ると考えていた水嶋は漫才に情熱を無くし、寄席に姿を現さず、急遽若葉みぎの漫談に変更するも駄々スベりで客を怒らせてしまう。 その頃、看護婦をしていた木下の妹、さくらが過労で死亡した。実は兄に内緒で水嶋と付き合っていた事が発覚し、死に目にも立ち会わなかった水嶋に木下は「妹は散々水嶋にたぶらかされて死んでいった」と水嶋を深く恨み、以後も水嶋は劇場に現れずコンビは自然解散した。 そんな中、召集令状が届き木下は中国に赴く事になる。木下は部隊長になるが、全員大阪出身で年寄りに病弱、帰国ばかり考えている駄目兵士部隊で再訓練を指示されていた。兵役満了間近のある日、木下が演習中に負傷、野戦病院に担ぎ込まれる。そこには兵士達から「爆笑王」と呼ばれる人気者の兵士がいた。それこそ負傷兵士達に冗談話を話し笑いを取っていた水嶋だった・・・
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戦地へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 14:24 UTC 版)
半年の試用期間をもってUPIを不採用になったため、フリーランスの戦争カメラマンとして活動を開始。米軍キャンプPXの写真屋で1年間働き資金を貯め、インド・パキスタン戦争へ向かう。1972年3月、ベトナム戦争が飛び火し、戦いが激化するカンボジアに入国。以後ベトナム戦争、カンボジア内戦を取材、『アサヒグラフ』や『ワシントン・ポスト』などのマスコミで活動し、「安全へのダイブ」でUPIニュース写真月間最優秀賞を受賞した。 カンボジア入国以後、クメール・ルージュの支配下に有ったアンコール・ワットへの単独での一番乗りを目指しており、1973年11月、「旨く撮れたら、東京まで持って行きます。もし、うまく地雷を踏んだら“サヨウナラ”!(ロバート・キャパの最期を捩ったもの)」と友人宛に手紙を残し、単身アンコール・ワットへ潜入、以後消息を絶った。
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