情報管理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 14:00 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動情報管理(じょうほうかんり、英: Information management, IM)は、1つ以上の情報源からの情報を管理し、その情報を1つ以上の関係先に配布すること。この場合の管理とは、情報の構造/処理/配布に関する組織と制御を意味する。
1970年代には、情報管理と言えばファイルに限られていて、ファイル保守と紙ベースのファイルその他の記録媒体のライフサイクルマネジメントを意味していた。情報技術の進展と共に、情報管理には新たな役割が加わるようになり、データ管理の意味も含むようになった。情報管理は誰でも予備知識なしでできるものではなくなっていった。関連する技術とその背後にある理論に関する知識が必須となっていった。情報記録媒体が電子的なものに移行するにつれて、より複雑さを増していったのである。1990年代後半には、情報はコンピュータネットワークや他の電子的手段で広められるようになり、ネットワーク管理者がある種の情報管理者の役目を果たすようになった。ネットワーク管理者にはハードウェア/ソフトウェア両面に渡る複雑な仕事の負担が増えていった。様々なツールが開発され、情報管理は多くの組織にとって強力な手段になると同時に大きな出費も発生した。
情報管理の概念
カーネギーメロン大学、特に Barnard、リチャード・サイアート、ジェームズ・G・マーチ、ハーバート・サイモンらが生み出した管理の行動科学によれば、サービス組織における活動のほとんどは、意思決定と情報処理である。そして、情報と意思決定プロセスの分析における重要な要因は、個人の情報処理能力の限界とその限界の中での意思決定である。
マーチとサイモンによれば[1]、組織は高度な情報処理と様々なレベルでの意思決定の必要性の協調システムと見なさなければならない。また彼らは、古典的理論で言われているのは逆に、個人が厳密に合理的に振舞おうとするのを妨げる要因があると主張した。そして、意思決定者の合理性の制約によって、どのような意思決定も完全な最適解にはならないとした。
古典理論のように「経済人」のモデルを使う代わりに、彼らは合理性の認知限界の主張に基づいて「管理人」をモデルとすることを提案した。
カーネギーメロンで生まれた理論はこれまでの理論的ギャップを埋めることには貢献したが、マーチとサイモン[1]は意思決定者の認知限界と限定合理性への対処として適当と思われる一定の組織の形態を提案できなかった。標準の意思決定モデル(すなわち人々に選択方法を指示するモデル)に関する彼ら自身の議論の中で、彼らは理想的組織形態という考え方も捨てたのである。
マーチとサイモンが言及した要因に加えて、環境と組織の動的システム理論から生じた2つの考慮すべき観点がある。まず、適当な時間と労力で周囲のあらゆる情報を収集/評価し適切な判断をするのは不可能である[2]。言い換えれば、国家的経済の枠組みでは、情報処理に関する取引コストはあまりにも高い。次に、確立された組織の規則と手続きは最も適切な決定をすることを妨げる。すなわち、組織的階層構造や制度上の規則/ガイドライン/手続きに一致するような解が選ばれる[3] [4]。これは、官僚機構の原理について批判されている問題でもある[5]。
カーネギーメロンの学説によれば、情報管理(すなわち組織の情報処理能力)は、組織および経営の中核的能力である。結果として、組織設計の戦略は情報処理能力の強化を目的にしなければならない。ジェイ・ガルブレイス[6]は、以下のように5つの主要な組織設計戦略を2つのカテゴリで分類して示した。
- 情報処理の必要性を低減する。
- 環境管理
- スラック資源(slack resource)の作成
- 自己充足型タスクの作成
- 組織の情報処理能力を増強する。
- 側面的関係(lateral relation)の作成
- 垂直型情報システム
- 環境管理(Environmental management)
- 周囲の状況の変化に適応していくのではなく、組織が主体的に周囲の環境を変更していくことができる。垂直および水平の協調(すなわち、他の組織との協業や統合)は、不確定性を低減させる典型的手段である。不確定性を低減させる例として、流通経路の上流から下流に連なる企業間の連携がある。
- スラック資源の作成(Creation of slack resources)
- 例外事象の発生を低減させるには、性能レベルを低下させればよく、それによって組織の情報負荷を低減する。スラック資源を追加することで、階層構造での情報処理速度が低下するが、それによって余分なコストが発生するので、この手法は明らかに他の戦略によるコスト低減と組み合わせることになる。
- 自己充足型タスクの作成(Creation of self-contained tasks)
- 概念的にタスクを分離することで情報処理を低減することができる。この場合、タスク実行単位(部門)はそのタスクの処理に必要なあらゆる資源を持つ。この方法は部門間の統合/分離や相互作用に関係している。
- 側面的関係の作成(Creation of lateral relations)
- この場合、複数部門を横断する側面的意思決定プロセスを確立する。これは、プロセスから階層構造に情報を吸い上げて意思決定するのではなく、プロセス側に意思決定能力を移行させることを目的としている。
- 垂直型情報システムへの投資(Investment in vertical information systems)
- 既存の階層構造を通して情報を処理する代わりに垂直情報システムを確立する。この場合、特定のタスクの情報の流れは対応するビジネスロジックによって変化し、必ずしも組織の本来の階層構造とは一致しない。
側面的関係の概念に関連して、単純な階層構造以外の組織形態を採用することも考えられる。マトリクス組織は、機能別と製品別などの複数の軸で組織を行列のような構造にし、垂直方向と水平方向の間で情報処理と意思決定のバランスを取る。マトリクス組織の考え方が生まれたのは、環境の変化への持続的な適応を検討した結果と考えられる。
情報管理学科
米国
情報管理で学位を授与する大学が増えつつあり、ワシントン大学、カリフォルニア大学バークレー校、シラキューズ大学、アリゾナ州立大学、メリーランド大学などがある。カリキュラムには、情報技術/システム、マンマシンインタフェース、組織行動学、経営学、経済学などが含まれる。
日本
経営学、経済学、情報技術/システムがカリキュラムとして含まれる。
- 滋賀大学経済学部 - 1972年4月設置の管理科学科を1990年4月に情報管理学科へ改組するも、2017年4月にデータサイエンス学部(データサイエンス学科)へ改組
- 専修大学経営学部 - 1972年4月に情報管理学科を設置するも、2001年4月にネットワーク情報学部(ネットワーク情報学科)へ改組。なお、同大学大学院の経営学研究科では、情報管理学の修士学位および博士学位が取得可能
- 南山大学経営学部 - 1986年に情報管理学科を設置するも、2000年4月に数理情報学部(情報通信学科、数理科学科)へ改組
- 朝日大学経営学部 - 1991年4月に情報管理学科を設置するも、2012年4月に経営情報学科に改組された。なお、同大学大学院の経営学研究科では、情報管理学の修士学位が取得可能[注釈 1]
脚注
注釈
- ^ 2014年4月までは博士学位も取得できたが、2014年4月より課程が博士前期課程・博士後期課程から修士課程に改められた
出典
- ^ a b March, James G. and Simon, Herbert A. (1958), Organizations, John Wiley & Sons
- ^ Hedberg, Bo (1981), "How organizations learn and unlearn", in: Nyström, P.C. & Starbuck, W.H., Handbook of Organizational Design, Oxford University Press
- ^ Mackenzie K.D. (1978), Organizational Structures, AHM Publishing Corporation
- ^ Mullins, L.J (1993), Management and Organizational Behaviours, 3rd ed., Pitman Publishing
- ^ Wigand, Rolf T., Picot, Arnold and Reichwald, Ralf (1997), Information, Organization and Management: Expanding Markets and Corporate Boundaries, Wiley & Sons
- ^ Galbraith, Jay R. p. 49 ff. (1977), Organization Design, Addison-Wesley
関連項目
外部リンク
情報管理
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ノモンハン事件当時の日本陸軍の情報統制は厳しく、ノモンハン事件の情報についても管理されていた。憲兵隊が新聞などのマスコミ報道や、手紙・電報などの私書について検閲を実施し、それを毎月データ化して関東憲兵隊に報告し、関東憲兵隊はそれを取りまとめて『検閲月報』という極秘資料を作成していた。1938年は年間の総頁は550頁であったが、これがノモンハン事件が始まると1939年には1200頁に倍増した。太平洋戦争開戦後の1942年には4900頁まで激増したが、戦局が悪化すると検閲の余力も無くなったのか1944年には1300頁、1945年にはたった130頁にまで減少している。 事件当時の新聞などの報道では、日本軍の苦戦や損害に対する記事は検閲される一方で戦果と武勇伝が強調され、新聞紙面上からは日本軍が苦戦している状況は微塵も感じられなかった。私書についても同様で、日本軍が苦戦していることが判るような表現や、日本軍や兵器の問題点を指摘した記述は削除されていった。 しかし、膨大な私書全てを検閲し削除や差し押さえできることは困難で、例えば1939年8月には667,502通の電報と682,309通の郵便に検閲を実施したが、何らかの処置を行った数は電報で1,345通、手紙で793通に過ぎず、それぞれ処置率は電報0.2%、手紙0.11%とごくわずかな数に過ぎなかった。この中で最も多かったのが『防諜上要注意通信』で、検閲処置がなされた郵便793通の内の295通がそれに該当し37%の構成率であったが、その中でも、軍の作戦行動や移駐に関するものや、部隊の固有名を記述したものなど、通常の軍事機密に関する検閲が多数を占めた。 また、満州で事業を展開していた日本の建設業などの事業者には情報が筒抜けだったようであり、ハルハ河渡河戦に失敗後、司令部に戦況を報告するためハイラルに立ち寄った関東軍参謀の辻は、兵站宿舎で休憩していたところ、隣室で建設業者らが酒で酩酊しながら「軍人の馬鹿どもが儲かりもしないのに、生命を捨てておる、阿呆な奴じゃ」と大声で騒いでいるのを聞くや激高し、その部屋に乗り込むと、建設業者ら数名を殴り倒している。 情報を全て遮断することは困難であったため、ノモンハンは負け戦だったという噂が兵士のみならず一般国民にも広がりつつあった。さらに、多くの参戦者やジャーナリストからの見聞記が多数出版され、中には中隊長であった草葉栄の著作『ノロ高地』のように100万部以上のベストセラーも生まれるに至って、陸軍は部外からの問い合わせに備えるための質疑応答集である「ノモンハン事件質疑応答資料」を作成した。その中に「民間に相当広くデマの流布せられたる現在、何故、詳細なる発表を行わざるや」という想定質問があったのを見ても判る通り、国民の間にかなりノモンハンの敗戦や苦戦の情報が広まっていた。 その後、1939年10月3日になって日本陸軍は当時としては異例の自軍の損害の公表に踏み切った。まずは地方官会議で発表され、翌日に各新聞で報道された。その報道では日本軍の死傷者は18,000名とされていた。当時、陸軍は自軍の死傷者を正確に発表することはなかったが、この18,000名という死傷者数は戦後に日ソの多くの資料によりほぼ正確な数字と判明しており、陸軍が敢えて日露戦争の旅順攻囲戦並みの衝撃を与える覚悟で正確な損害の公表に踏み切った理由は、このまま負け戦という噂が広まるより、我が方も損害は大きかったが、敵にも大損害を与えた“痛み分け”だったという情報を開示して、国民の士気を引き締めようという計算があったのではと推測されている。さらに『朝日新聞』は「軍当局がノモンハン事件から今後の軍事訓練を改善すべき必要があるとの教訓を学び、十分考察した。軍は最大限機械化部隊で満たす必要がある」とする自戒と教訓についても述べるという異例ぶりであった。 この記事の反響は大きかったようで、師団長の小松原には多くの批判の投書が寄せられている。小松原がその内の「愛児を失った父親」からの投書を自分の日記に引用しているが「ノモンハンの大事件は、国民一般、実に悲痛の思いにて、真相を知り其の責任者(平野で、ソ軍の大部隊の集結を気付かず、陛下の赤子を、多数失いたる実相)の男らしき弁明を、ほめ居候」との記述で、小松原らがソ連軍の総攻撃を事前に察知できなかったことについて認識している。また、小松原が満州から帰京する前日に熱海に一泊したことも知れ渡っており「戦塵を、熱海に悠々洗う、実に馬鹿馬鹿しき悪習慣に…戦塵洗いを、止めて下さい(有りもせぬ塵、兵隊さんは一体どうするのですか)」などと強い批判も書かれている。 その他にも、苦戦や敗戦を十分に連想できる吉丸、大内、森田の3大佐に東中佐の4名の指揮官級の佐官の戦死も新聞紙面で報道された。その記事では後年、硫黄島の戦いで戦死する栗林忠道大佐が、陸士第26期の同期であった4名への追悼の言葉を送っており、陸軍が主導してこの記事が掲載されたことが窺える。 既にこの時点では、翌1940年2月28日の帝国議会の決算委員会において福田関次郎議員が畑俊六陸軍大臣に「ノモンハンにおいては、色々と総合して見てますと、どうも日本の、軍装備に、欠陥があったのではないか、斯う云う風に見られるのであります」と質問したことでも判る通り、ノモンハンの敗戦や日本軍の問題点についてはかなり広く認識されていた。 ノモンハンの戦いについては、その敗戦を陸軍は国民にひた隠しにしたという主張が目立つが、逆に、情報が広まったことによる後追い的な情報開示とはいえ、当時の日本としてはむしろ意図を持って積極的に情報を開示した戦闘であった。
※この「情報管理」の解説は、「ノモンハン事件」の解説の一部です。
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