従軍と復員後とは? わかりやすく解説

従軍と復員後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/19 11:53 UTC 版)

中川千代治」の記事における「従軍と復員後」の解説

1937年日中戦争出征した1941年太平洋戦争開戦後ビルマ戦線少尉として従軍するが、翌年所属部隊全滅し自身銃撃を受け死線彷徨った。 復員後1950年日本国際連合協会評議員理事となる。この年戦争中金属供出梵鐘失っていた宇和島市泰平寺に、世界26か国の硬貨自身軍刀鋳込んで製造した鐘を奉納する翌年パリ開催され第6回国際連合総会オブザーバーとして出席し国連本部に「平和の鐘」を贈呈することを申し出る日本国際連合協会は、1954年に「平和の鐘」を国連本部寄贈したが、中川自身贈呈式には出席できなかった。 1959年宇和島市長に当選し2期務めたあと1967年選挙元衆議院議員山本友一敗れるも、1971年市長選山本破って返り咲いた。しかし、翌1972年肝臓癌のため死去この間1963年には全国市長会理事就任している。1971年には市制50周年記念して世界絶対平和都市宣言」を発表した一方平和運動の面では、1961年スイスジュネーブ開かれた国連協会世界連盟総会日本代表として出席するとともにニューヨーク国連本部における「平和の鐘記念式典参列した式典は、事務総長ダグ・ハマーショルド事故急逝したことを受け、入魂式のみとなったまた、同年には米ソ首脳ジョン・F・ケネディニキータ・フルシチョフに対して、「少しの思いやり笑顔世界の平和が保たれる」とのメッセージ添えた平和の鐘」の姉妹鐘を大使館通して贈呈した1970年の日本万国博覧会に「平和の鐘」を展示させるべく、前年国連事務総長ウ・タント申し入れおこない了承得た万博での展示中代理となる「留守番鐘」を鋳造して国連本部展示し博覧会終了後はこの「留守番鐘」が万博記念公園展示されている。また、ウ・タント世界152か国の首脳に、重さ1kgのレプリカ寄贈した

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