従軍と復員後
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1937年に日中戦争に出征した。1941年の太平洋戦争開戦後はビルマ戦線に少尉として従軍するが、翌年に所属部隊が全滅し、自身も銃撃を受け死線を彷徨った。 復員後の1950年に日本国際連合協会の評議員・理事となる。この年、戦争中の金属供出で梵鐘を失っていた宇和島市の泰平寺に、世界26か国の硬貨と自身の軍刀を鋳込んで製造した鐘を奉納する。翌年、パリで開催された第6回国際連合総会にオブザーバーとして出席し、国連本部に「平和の鐘」を贈呈することを申し出る。日本国際連合協会は、1954年に「平和の鐘」を国連本部に寄贈したが、中川自身は贈呈式には出席できなかった。 1959年に宇和島市長に当選し、2期務めたあと1967年の選挙で元衆議院議員の山本友一に敗れるも、1971年の市長選で山本を破って返り咲いた。しかし、翌1972年に肝臓癌のため死去。 この間、1963年には全国市長会理事に就任している。1971年には市制50周年を記念して「世界絶対平和都市宣言」を発表した。 一方、平和運動の面では、1961年にスイスのジュネーブで開かれた「国連協会世界連盟」総会に日本代表として出席するとともに、ニューヨークの国連本部における「平和の鐘」記念式典に参列した。式典は、事務総長のダグ・ハマーショルドが事故で急逝したことを受け、入魂式のみとなった。また、同年には米ソの首脳(ジョン・F・ケネディ、ニキータ・フルシチョフ)に対して、「少しの思いやりと笑顔で世界の平和が保たれる」とのメッセージを添えた「平和の鐘」の姉妹鐘を大使館を通して贈呈した。 1970年の日本万国博覧会に「平和の鐘」を展示させるべく、前年に国連事務総長ウ・タントに申し入れをおこない、了承を得た。万博での展示中に代理となる「留守番鐘」を鋳造して国連本部に展示し、博覧会終了後はこの「留守番鐘」が万博記念公園に展示されている。また、ウ・タントと世界152か国の首脳に、重さ1kgのレプリカを寄贈した。
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