平時範とは? わかりやすく解説

平時範

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 01:41 UTC 版)

 
平時範
時代 平安時代後期
生誕 天喜2年(1054年
死没 天仁2年2月10日1109年3月13日
改名 時範→定慧/貞慧(法名)
官位 正四位下右大弁
主君 堀河天皇
藤原師通
氏族 桓武平氏高棟流
父母 父:平定家、母:藤原家任娘
実親
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平 時範(たいら の ときのり)は、平安時代後期の貴族桓武平氏高棟流尾張守平定家の子。官位正四位下右大弁

経歴

文章生から加賀掾を経て、白河朝の初めに六位蔵人左衛門尉を務める。兵部少輔に遷った後、越中守として白河朝の後期には地方官も務めた。

白河院政期に入り、勘解由次官として京官に復したのち、寛治4年(1090年五位蔵人、寛治8年(1094年)右少弁と右衛門権佐(検非違使佐)を兼帯し、承徳2年(1098年)に蔵人衛門佐を離れるまで三事兼帯となる。その後も、承徳2年(1098年)左少弁、康和元年(1099年)右中弁、康和2年(1100年従四位上、康和4年(1102年正四位下・権左中弁、嘉承元年(1106年)右大弁と堀河朝中期から後期にかけて弁官を務めながら昇進を重ねた。また、摂関家藤原師通の家司も務めている。

鳥羽朝天仁元年(1108年)10月に右大弁を辞し、出家して法名を定恵(または貞恵)と称す。翌天仁2年(1109年)2月10日卒去享年56。

人物

仏画をよくしたといい、また文筆にも優れていた。三事兼帯経験がある実務家であった。康和元年(1099年)に因幡守として任地へ赴いたときの記録が日記『時範記』に残っており、当時の受領の行動や、因幡の状況を知ることができる貴重な史料となっている。

官歴

系譜

  • 父:平定家
  • 母:藤原家任娘
  • 妻:不詳
    • 男子:平実親

脚注

  1. ^ 『兵範記』仁平4年3月25日条
  2. ^ 『除目申文之抄』
  3. ^ 『玉葉』安元元年12月29日条
  4. ^ 『御産部類記』
  5. ^ 『大記』
  6. ^ 『大府記抜書』
  7. ^ 『中右記部類紙背漢詩集』
  8. ^ 『職事補任』
  9. ^ a b c d e f g h i j 『中右記』
  10. ^ 『後二条師通記』
  11. ^ 『師通記』
  12. ^ 『中右記』永長2年正月30日条
  13. ^ a b c d e f g h 『弁官補任』
  14. ^ 『本朝世紀』
  15. ^ 『中右記』嘉承元年6月22日条
  16. ^ 『殿暦』
  17. ^ 『拾遺往生伝』

参考文献

  • 木本好信「『時範記』と平時範」(『平安朝日記と逸文の研究』、おうふう、1987年
  • 宮崎康充「平時範に関する覚書」(『書陵部紀要』41号、1989年
  • 宮崎康充編『検非違使補任 別巻』続群書類従完成会、2006年




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