平家の大将
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治承4年(1180年)5月26日、以仁王の挙兵では大将軍として叔父・平重衡と共に反乱軍を追討すべく宇治に派遣される。同行した維盛の乳母父で侍大将の伊藤忠清ら平氏家人の奮戦により、乱は鎮圧される。この際、忠清は兵を南都(奈良)へ進めようとする重衡・維盛の勇み足を「若い人は兵法を知らない」と諫めて制止している。 同年9月5日、源頼朝ら源氏の挙兵に際して維盛は東国追討軍の総大将となる(富士川の戦い)。出発しようとする維盛と日が悪いので忌むべきだという侍大将の忠清で内輪もめとなり、結局出発は月末まで遅れた。出陣する大将維盛の武者姿は、絵にも描けぬ美しさだったという。 東海道を下る追討軍は、出発が伸びている間に各地の源氏が次々と兵を挙げ、進軍している情報が広まっていたために兵員が思うように集まらず、夏の凶作で糧食の調達もままならなかった。何とか兵員を増やしながら駿河国に到着、追討軍の到着を待って甲斐源氏(武田軍)討伐に向かった平氏側の駿河国目代は、富士川の麓で武田軍と合戦となり惨敗する(鉢田の戦い)。10月17日、当時の戦闘の作法として武田軍が維盛の陣に送ってきた書状の「かねてよりお目にかかりたいと思っていましたが、幸い宣旨の使者として来られたので、こちらから参上したいのですが路が遠く険しいのでここはお互い浮島ヶ原で待ち合わせましょう」という不敵な内容に伊藤忠清が激怒し、使者2人の首を斬った(『山槐記』『玉葉』『吉記』)。10月18日、富士川を挟んで武田軍と向き合う平氏軍は『平家物語』では7万の大軍となっているが、実際には4千騎程度で、逃亡や休息中に敵軍へ投降するなどで、残兵は1千から2千騎ほどになっていた。鎌倉の頼朝も大軍を率いて向かっており、もはや平氏軍に勝ち目はなかった。 維盛は引き退くつもりはなかったが、伊藤忠清は再三撤退を主張、もはや士気を失っている兵達もそれに賛同しており、維盛は撤退を余儀なくされる。富士川の陣から撤収の命が出た夜、富士沼に集まっていた数万羽の水鳥がいっせいに飛び立ち、その羽音を敵の夜襲と勘違いした平氏の軍勢はあわてふためき総崩れとなって敗走する。 11月、維盛はわずか10騎程度の兵で命からがら京へ逃げ帰った(『山槐記』『玉葉』など)。清盛は維盛の醜態に激怒し、「何故敵に骸を晒してでも戦わなかったのか、おめおめと逃げ帰ってきたのは家の恥である」として維盛が京に入ることを禁じた。 養和元年(1181年)閏2月、清盛が病没する。3月、墨俣川の戦いで叔父の重衡らと共に大将軍となり、勝利を収める。6月10日、右中将・蔵人頭となり小松中将と呼ばれる。維盛はこの年の12月に従三位に叙され公卿となったが、この前年には宗盛の長男・清宗が11歳で従三位に叙されている。
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