寄席の登場
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天明(1781年-1789年)から寛政年間(1789年-1801年)にかけて、江戸では再び落語の流行がみられた(第2次落語ブーム)。大工職人を本業としながらも、「鑿釿言墨金(のみちょうなごんすみかね)」の狂名をもつ狂歌師でもあり、また戯作者としても活躍した烏亭焉馬(初代)は天明6年(1786年)4月12日、江戸向島の料亭・武蔵屋で新作落とし噺の会を主催して好評を博した。これは、焉馬らが狂歌の会の合間、気分転換のため互いに咄を披露しあっていたものを発展させたものであり、大田南畝や朱楽菅江も参加した。 その後、焉馬の噺の会は料理屋の2階などを会場として定期的に開かれるようになり、戯作者山東京伝や式亭三馬、浮世絵師の歌川豊国、歌舞伎役者の5代目市川團十郎といった錚々たる面々、また可楽、圓生、夢羅久、談笑など後に職業落語家となる人々も参加した。寛政4年(1792年)以降は「咄初め」と称して正月21日を定例開催日とし、会は年中行事の一部となった。また、焉馬宅で月例会も開かれるようになり、いっそう活況を呈した。焉馬の会は30年以上つづき、烏亭焉馬はこれにより江戸落語中興の祖と称される。 寛政に入ると、すでに大都市となった江戸では浄瑠璃や小唄・軍書読み(現在の講談)・説教などが流行し、聴衆を集めて席料をとるようになった。これは「寄せ場」「寄せ」と称され、現在の寄席の原型となった。寛政3年(1791年)に大坂出身の岡本万作が江戸神田に「寄席」の看板をかかげて江戸で初めてとなる寄席興行をおこない、寄席色物の嚆矢となった。万作はまた寛政10年(1798年)に神田豊島町(現在の千代田区東神田)の藁店(わらだな)という店で「頓作かる口はなし」を演じたといわれている。 落とし噺の分野では、寛政10年6月、江戸馬喰町の櫛職人だった山生亭花楽が下谷(現台東区)の下谷稲荷神社で寄席をひらいた。このときの興行は演目がすぐに尽きてしまい、わずか5日間で看板をおろしてしまったが、各地を巡業して修行を重ね、2年後「三笑亭可楽」に名を改め、再び寄席で落とし噺を披露した。花楽改め可楽は、話芸を本職とする江戸における噺家の第一号であった。従来の落とし噺の会は、素人衆が当日限りで料理屋や貸席を借りて催すものだったのが、一定の期間、特定の場所で代金を徴収して興行をおこなう落語寄席に進化していったのである。可楽の寄席興行では、「謎解き」(謎かけ)や、客が出した3つの言葉を噺の中にすべて登場させて一席にまとめる「三題噺」、さらに線香が1分(約3ミリメートル)燃え尽きるあいだに即興で短い落とし噺を演じる「一分線香即席噺」など趣向を凝らした名人芸で人気を得た。また、多数の優秀な門人を育成し、その一部は「可楽十哲」と称された。 寛政末年を境として、文人趣味の現れ、ないし限られた上流の人々を対象とする座敷咄の性格の濃かった江戸落語が庶民と直結した職業的な寄席咄に成長し、可楽は名実ともに江戸落語界の第一人者となった。
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