おおごしょ‐じだい〔おほゴシヨ‐〕【大御所時代】
大御所時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/24 01:49 UTC 版)
大御所時代(おおごしょじだい)は、江戸時代後期、寛政の改革と天保の改革の間の期間(1793年~1841年)で、第11代将軍徳川家斉の治世。家斉は1837年(天保8年)に隠居して大御所となってからも政治の実権を握っていたため、後の人が「大御所時代」と呼ぶようになった。
- ^ a b 徳川黎明会徳川林政史研究所『江戸時代の古文書を読む―文化・文政の世』東京堂出版、2007年6月1日。
- ^ 藤田覚『幕末から維新へ』岩波新書、2015年5月21日。
- ^ 三訂版,世界大百科事典内言及, ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,旺文社日本史事典. “大御所時代とは”. コトバンク. 2022年4月10日閲覧。
- ^ 日本国語大辞典,367日誕生日大事典,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,朝日日本歴史人物事典,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,精選版. “水野忠成とは”. コトバンク. 2022年4月10日閲覧。
- ^ “在位50年、子どもは50人以上! 泰平の世のはまり役“遊王 徳川家斉” 『遊王 徳川家斉』(岡崎 守恭) | | インタビュー・対談”. 本の話. 2022年4月12日閲覧。
- 1 大御所時代とは
- 2 大御所時代の概要
- 3 社会・文化
- 4 参考文献
大御所時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:17 UTC 版)
詳細は「大御所時代」を参照 文化14年(1817年)に松平信明は病死した。他の寛政の遺老たちからも、老齢などの理由で辞職を申し出る者が出てきた。このため文政元年(1818年)から、家斉は側用人の水野忠成を勝手掛・老中首座に任命し、牧野忠精ら残る寛政の遺老たちを幕政の中枢部から遠ざけた。忠成は定信や信明が禁止した贈賄を自ら公認して収賄を奨励した。さらに家斉自身も、宿老たちがいなくなったのをいいことに奢侈な生活を送るようになり、さらに異国船打払令を発するなどたび重なる外国船対策として海防費支出が増大したため、幕府財政の破綻・幕政の腐敗・綱紀の乱れなどが横行した。忠成は財政再建のために文政期から天保期にかけて8回に及ぶ貨幣改鋳・大量発行を行なっているが、これがかえって物価の騰貴などを招くことになった。 天保5年(1834年)に忠成が死去すると、寺社奉行・京都所司代から西丸老中となった水野忠邦がその後任となる。しかし実際の幕政は家斉の側近である林忠英らが主導し、家斉による側近政治はなおも続いた。この腐敗政治のため、地方では次第に幕府に対する不満が上がるようになり、天保8年(1837年)2月には大坂で大塩平八郎の乱が起こり、さらにそれに呼応するように生田万の乱をはじめとする反乱が相次いで、次第に幕藩体制に崩壊の兆しが見えるようになる。また同時期にモリソン号事件が起こるなど、海防への不安も一気に高まった。
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