文化・文政期(大御所時代)
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「江戸時代」の記事における「文化・文政期(大御所時代)」の解説
「大御所時代」も参照 松平定信の辞任後、文化・文政時代から天保年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍徳川家斉が握った。家斉は将軍職を子の家慶に譲ったあとも実権を握り続けたため、この政治は「大御所政治」と呼ばれている。家斉の治世は、当初は質素倹約の政策が引き継がれたが、貨幣悪鋳による出目の収益で幕府財政がいったん潤うと、大奥での華美な生活に流れ、幕政は放漫経営に陥った。上述の異国船打払令も家斉時代に発布されたものである。一方で、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化(化政文化)が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。1805年(文化2年)には関東取締出役が置かれた。水野忠邦はこれまでの世の中になかった変化の兆しを感じていた。各地の農民や町人による一揆、打ちこわし、強訴は例年起こっていた。文政6年(1823年)には摂津・河内・和泉1,307か村による国訴は、綿の自由売りさばき、菜種の自由売りさばきを要求して、空前の規模の訴えとなり、これまでの経済の有り様を変えるものであった。 発展し続ける経済活動と土地資本体制の行政官である武士を過剰に抱える各政府(各藩)との構造的な軋轢を内包しつつも、「泰平の世」を謳歌していた江戸時代も19世紀を迎えると、急速に制度疲労による硬直化が目立ち始める。また、このころより昭和の前半までは国内が小氷河期に入り、1822年(文政5年)には隅田川が凍結している。 それに加えて、18世紀後半の産業革命によって欧米諸国は急速に近代化しており、それぞれの政治経済的事情から大航海時代の単なる「冒険」ではなく、自らの産業のために資源と市場を求めて世界各地に植民地獲得のための進出を始めた。極東地域、日本近海にも欧米の船が出没する回数が多くなった。たとえば、明和8年(1771年)にペニュフスキー、泡・奄美大島に漂流、安永7年(1778年)ロシア船、蝦夷地厚岸に来航して松前藩に通商を求める、寛政4年(1792年)ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂流民大黒屋光太夫等を護送して根室に来航し、通商を求めるが、幕府は日本との外交ルートを模索する外国使節や外国船の接触に対し、1825年(文政8年)には異国船打払令を実行するなど、鎖国政策の継続を行った。文政2年(1819年)、幕府は、浦賀奉行を2名に増員した。
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文化文政期
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家元派の人々に支えられた二代目小文字太夫は、文化4年に市村座でタテ語りとして初舞台を勤めた。文化5年に元服し七代目市川團十郎の弟分となるが、病気等による休演が多かった。文政2年に三代目文字太夫を襲名するが、同年12月には病気の為に夭折する。源太(文化5年)、三つ人形(文政元年)などを初演した。この時、江戸歌舞伎の繁栄はいよいよ頂点に達し、舞踊においても「変化舞踊」と呼ばれる新たな分野が登場した。常磐津はこの動きに敏感に反応し、「景清」「角兵衛」などの佳品を生むと同時に、長唄や富本節などとも積極的に掛合を行うようになり、芸質の高まりを見せることになる。江戸歌舞伎の繁栄は弟子・稽古人・愛好者などの増加にも影響し、多くの女流(女性演奏家)が活躍し隆盛を極めた。現在でも江戸時代を題材にした時代劇などで「常磐津の女師匠」が頻繁に登場するのもこのためである。
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