ふたばやま‐さだじ【双葉山定次】
双葉山定次 ふたばやま さだじ
大分生まれ。力士。昭和2年(1927)立浪部屋入門。11年(1936)前頭三枚目から連勝を続け、12年(1937)1月、第35代横綱に昇進。右四つからの上手投げは無類の強さを誇り、14年(1939)初場所まで前人未到の69連勝を記録した。幕内276勝68敗1分33休。20年(1945)11月引退、年寄時津風を襲名。32年(1957)には日本相撲協会理事長に就任し、戦後の角界の復興、改革に尽力した。
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双葉山定次
双葉山定次
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 04:34 UTC 版)
1939年1月15日、春場所4日目に双葉山定次が安藝ノ海節男に敗れて69連勝がストップした時の実況担当は和田信賢だったが、実況席の控えに山本もいた。双葉山が負けるという番狂わせに和田も目を疑い、「双葉山は確かに負けましたね?」と問いかけられた山本は「うむ」と唇をかみしめ悲痛な表情でうなずくのが精いっぱいだった。 この連勝ストップの大一番は、安藝ノ海が双葉山の右足に外掛けをとばしてから双葉山が右に大きく振ったので、安藝ノ海の掛けた足が外れたが、それから右足を軸にしてこらえた安藝ノ海が体を浴びせて双葉山を倒すという展開だった。ところが動転していた和田が決まり手を判断できず、とっさに山本へ実況交代を頼んだ。場内のどよめきの中で山本は、もともと双葉山は左足が弱いという印象から、「安藝ノ海の右外掛け」と判断して放送した。自席の前にいた彦山光三も「照さんやっぱり(双葉山の)左だな」と言うので見解が一致していた。そのため号外もラジオも新聞もそろって「双葉山の左足に外掛け」と報じたが、後日ニュース映画を見ると右足に掛かっていたことが判明する。山本が「一世一代の間違いが生じた」と後に振り返ったのに対し、彦山は山本からの電話でこの事実を聞いても「レンズと言えども正確とは言えんよ」として自説を曲げなかったという。 双葉山が引退し年寄・時津風を襲名してからは、山本とも懇意であり対談もすれば酒を飲む機会もあった。山本が熊本放送局放送部長だった1948年に時津風が熊本を訪れた際、「私の相撲で最も良かったのは?」と問われた山本が「13年(1938年)夏の玉錦戦」と答えた。これに対し「実はあの時の玉関はずいぶん弱っており、立ち上がった私がドンと押すと、玉関は土俵を飛び出しそうになったので、慌てて引き戻した」と時津風が答えたことに唖然とし、この熱戦を演じた双葉山の凄みを改めて感じたという。
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