内閣参議
内閣参議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 07:59 UTC 版)
右翼的傾向があり、国家主義者でもあった末次は、連合艦隊司令長官の頃から政治的野心を持ち始めたといわれ、平沼騏一郎・松岡洋右・近衛文麿と交流を持ち次第に政治力を強めていった。 陸軍では当初、荒木貞夫、真崎甚三郎ら皇道派とつながりがあったが、のちに林銑十郎と親密な関係にあった。国家革新を必要とする考えを持っていた近衛が新党結成を目指した際、末次はその相談役となった。近衛新党結成運動はのち大政翼賛会に結実する。末次は大政翼賛会中央協力会議議長、東亜建設国民連盟会長、スメラ学塾長を務めた。 1937年(昭和12年)2月の林内閣成立時、末次は林銑十郎から海軍大臣就任の要請を受け了承したが、海軍人事に影響力があった伏見宮博恭王の信頼を失っており、海軍大臣・永野修身は海軍次官・山本五十六が推した米内光政を後任に選ぶ。 同年6月、近衛文麿は初の組閣に際し、末次の内閣参議就任を要望する。この時、末次は「軍令部総長になれるなら、内閣参議は断る」と海軍省人事局長・清水光美を通じて米内に伝言していたが、現職の軍令部総長は皇族の伏見宮であり、伏見宮は末次に後を譲る気はなかった。また海軍の政治に関わるのは海軍大臣のみとする伝統から、10月15日に米内は末次を予備役に編入する。なお両人の個人的関係は険悪であった。後に末次は米内内閣成立時に内閣参議を辞任している。
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