新党結成(しんとうけっせい)
政党の結成は任意だが、政治資金規正法や政党助成法などの規定に従わなければならない。また、国会において質問などの活動をするには、国会法に定められた会派として届け出る必要がある。
毎年1月1日の時点における議員数など政党の規模に応じて、政党助成法に基づく交付金の配分額が決まる。仮に、1月2日以降に新党を結成したとしても、その年の政党交付金を受けることはできず、翌年まで待たなければならない。
そのため、年の瀬には新党結成の話題が政界で持ち上がることが多い。新進党の一部の議員が太陽党を旗揚げした1996年のケースや、新進党の解党に伴う政界再編のあった1997年~1998年のケースは、いずれも年末の出来事だった。
(2002.12.18更新)
新党結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 18:36 UTC 版)
1989年5月に「新労働党」を結成。伝統的な左派労働党の政策理念・精神を掲げる。ロジャーノミクスに批判的な立場をとる支持者が集まるも現職の議員はアンダートンのみであった。1990年の総選挙では労働党の政策に批判的な票を取り込むもアンダートン以外の候補者の当選は果たせず総得票率は5.15%に終わる。 1991年に新労働党、民主党、マナ・モツハケ、緑の党の4つの政治グループが加わり「連合党」を結成。アンダートンは連合党党首に就任。1994年に家庭の事情で党首を辞任するも1995年に復帰する。1996年の総選挙で連合党は13議席(小選挙区1議席、比例名簿12議席)を獲得。1999年の総選挙でヘレン・クラーク率いる労働党が政権を奪還し連立政権への参加を打診される。アンダートンは連立参加を表明し副首相に就任。また、新設された経済開発担当大臣を兼務。 アメリカ合衆国ほか連合軍によるアフガニスタン侵攻を巡り、アンダートンと3名の連合党所属議員は連合党を離党し「革新党」を設立。2002年の総選挙で議席を保持するも革新党の獲得票は1.7%に急落する。連立政権へ引き続き参加するも副首相を辞任。後任の副首相にはマイケル・カレンが就任する。2005年の総選挙で議席を保持するも革新党の獲得票は1.2%と低迷し、副党首であったマット・ロブソンも落選する。2005年以降は農業・漁業・林業大臣、バイオセキュリティー大臣を歴任。連立政権ではクラーク、カレンに続く第3位の地位を得る。2007年4月に来日している。2008年の総選挙で自らの議席は保持するも、革新党は0.91%の獲得比率に終わる。2008年の総選後は野党に転じるも労働党との野党連合に参加。
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「新党結成」の例文・使い方・用例・文例
- 小(お)沢(ざわ)一郎氏が新党結成
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