八多村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 09:19 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動はたむら 八多村 | |
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廃止日 | 1951年7月1日 |
廃止理由 | 編入合併 神戸市、道場村、八多村、大沢村 → 神戸市(兵庫区) |
現在の自治体 | 神戸市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 近畿地方 |
都道府県 | 兵庫県 |
郡 | 有馬郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 | 3,144人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 神戸市、有馬郡道場村、長尾村、大沢村、美嚢郡上淡河村 |
八多村役場 | |
所在地 | 兵庫県有馬郡八多村大字吉尾 |
座標 | 北緯34度49分35秒 東経135度11分56秒 / 北緯34.82628度 東経135.19894度座標: 北緯34度49分35秒 東経135度11分56秒 / 北緯34.82628度 東経135.19894度 |
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八多村(はたむら)は、兵庫県有馬郡にあった村。現在の神戸市北区八多町各町および内包する各町にあたる。
地理
- 山岳:梶岡山、大蔵山、金毘羅山、東鹿見山、古倉山、ナダレ尾山
- 河川:八多川、屏風川
歴史
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、柳谷村・吉尾村・上小名田村・下小名田村・中村・附物村・屏風村・深谷村・西畑村の区域をもって発足。
- 1951年(昭和26年)7月1日 - 神戸市(兵庫区)に編入。同日八多村廃止。
- 1973年(昭和48年)8月1日 - 分割により、旧村域が北区の一部となる。
交通
道路
現在は旧村域に山陽自動車道の神戸北インターチェンジが所在するが、当時は未開通。
参考文献
- 角川日本地名大辞典 28 兵庫県
関連項目
八多村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 15:23 UTC 版)
江戸時代から1889年(明治22年)までは徳島藩領・勝浦郡八多村が存在した。寛保神社帳によれば、神社は八幡宮2と五王権現が見え、その別当に金竜寺・長楽寺が見える(『続徴古雑抄1』)。 農作物は米麦を中心にミカン・柿・梅・ビワなども栽培された。また地内の過半を山間部が占めることから、薪・炭も大量に生産された。副業に養蚕も行われていた。1873年(明治6年)の養蚕戸数は23戸で、生糸842匁を製造したという(平岡治之助伝)。万延年間(1860年から1861年)前後に友兼庄之助が、元治年間(1864年から1865年)から明治初年(1868年頃)にかけて長田喜三太が寺子屋を開いており、寺子100名内外を教えた(『勝浦郡志』)。 人形芝居を演じる農村舞台が五王神社(旧五王権現)境内にある。現在の建物に1873年(明治6年)の権礼が残ることから、江戸期に建てられたと考えられる。これが犬飼農村舞台で、現在も演じられている。また犬飼には藩主お狩場があり、その休息には大久保家を使用した。 1871年(明治4年)に徳島県、同年に名東県、1876年(明治9年)に高知県を経て、1880年(明治13年)に再び徳島県に所属。同年に金竜寺に八多小学校が創立。1886年(明治19年)に宮井小学校に合併された。1889年(明治22年)に多家良村の大字となる。
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