全盛時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/07 23:10 UTC 版)
江戸時代になると河崎町あるいは山田河崎町と称するようになり、隣接する船江町と合わせて上中之郷として「山田十二郷」に加入した。これより山田奉行から公認を受けた自治組織・山田三方の施政下に置かれるようになる。 この頃の河崎は日本各地から集まる物資を売りさばく問屋が軒を連ね、山田最大の商業地区を形成していた。具体的な物資の内容について『五鈴遺響』は、米・柴(雑木)・薪・魚・塩・蔬菜であるとし、大変繁盛していると記している。1628年(寛永4年)春には、山田奉行所が御囲穀倉という非常用の米蔵を建てた。 諸国から物資が集まるだけでなく、志摩国の海産物や伊勢平野の農産物の積み出し港としても機能したという。更に河崎は、物資の集散地としての役割にとどまらず、三河国以東から伊勢湾を渡り勢田川を遡(さかのぼ)って訪れた参宮客の上陸地点でもあった。当時の賑わいは「勢田の流の入舟出舟、わけて賑ふ御蔭年」という謡われた。これらの水運を利用して伊勢参宮をすることは「川筋参宮」と呼ばれ、参宮船は太鼓を打ち鳴らしながら入港したため、「どんどこさん」と呼ばれていた。文人の頼山陽は、河崎から母と共に二見浦へ渡り、当地を詠んだ詩を残している。 当地の遊廓で作られた「河崎音頭」は、外宮と内宮(皇大神宮)の中間付近にある古市に伝播し“伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ”の歌詞で知られる伊勢音頭となった。伊勢音頭は参宮客が「荷物にならない伊勢土産」として故郷に伝えたため、日本各地に広まった。
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