ぜん‐せい【全盛】
全盛
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二元的な冊封体制は、589年に中国を統一した隋によって一元的なものへ纏められた。 高句麗・百済は隋成立の581年すぐに隋の冊封を受けたが、新羅はすぐには冊封を受けず、594年になって初めて隋の冊封を受ける。一方、高句麗は585年からは隋と対立する陳に対して朝貢するようになり、隋が陳を滅ぼした後も隋に対する朝貢を怠り、さらには隋領内に侵入する事件まで起きる。 これに激怒した文帝は高句麗に対する遠征軍を起こす。この軍は苦戦し、撤退を余儀なくされるが、高句麗が謝罪したことで高句麗の罪を赦した。しかし高句麗はなお朝貢を怠り、文帝に代わって煬帝が立った後の607年には突厥と結んで、隋に対抗する姿勢を見せた。煬帝はこれに対して二百万と号する大遠征軍(隋の高句麗遠征)を起こすが、三度とも失敗に終わり、隋滅亡の主要因となった。 他方、中国王朝との接触を行っていなかった倭国は、隋に対して遣隋使を送るようになる。この際煬帝に対して「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(『隋書』卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國)で始まる国書を送ったことが知られているが、これは、当時台頭し始めた俀國なりの大国意識に基づく、冊封体制への忌避感の表明と見られている。また、唐使の高表仁が倭国王(中国の史書のうち『旧唐書』は舒明天皇5年1月26日(633年)「與王子爭禮 不宣朝命而還」とし王子とする)と礼を争い帰国するなどした。ただしこの時期の倭国もまた東アジア世界の一員であり、「冊封体制の外部」にあったとしても、主に政治制度の確立という点で中国王朝からの影響は大きかった。 隋が滅び、唐が成立すると、624年に朝鮮三国は唐の冊封を受けた。しかし高句麗で淵蓋蘇文による権力奪取が起きるとこれを理由として2代太宗は高句麗遠征(唐の高句麗出兵)を開始するが、この遠征は再び失敗に終わる。 その過程で唐と新羅との関係が密になり(唐・新羅の同盟)、660年、唐は百済と戦争中の新羅からの救援要請に応じて兵を送り、百済を滅ぼした。その後も連合は維持され、668年には高句麗を滅ぼした。更に百済遺民の要請を受けて出兵した倭との白村江の戦いにも勝利する。 しかし新羅は二国の旧領が唐の郡県支配に置かれることを不快に思い、これに攻撃(唐・新羅戦争)を仕掛けて朝鮮半島を統一するに至った。唐は当然これに怒り、新羅の王号を剥奪し討伐軍を送るが失敗に終わり、最終的に新羅が謝罪して入朝するという形式をとることで和解し、拡大した支配領域を維持したまま再び新羅は冊封を受ける。以後、新羅と唐は冊封体制の中でも最も強固な関係となる。 一方、高句麗の遺民たちは北に逃れ、震国を建国した。唐は初めこれに対して討伐軍を送ったものの713年には王の大祚栄を渤海郡王に冊封する。震国はこれにより渤海と呼ばれるようになり、唐の冊封体制に入った。 また白村江の戦いに敗れた倭国では、大宝2年(702年)第8次以降の遣唐使により唐との関係修復を試み、これを朝貢の形式で行っているが冊封を受けることはなかった。 唐の隆盛とともに冊封体制も安定期を迎え、冊封体制を通じて各国に唐文化が伝えられた。各国では唐の制度を模した律令制が採り入れられた。
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「全盛」の例文・使い方・用例・文例
- 全盛期で
- 彼は全盛期にこの小説を書いた
- ルネッサンス時代、ベニスの芸術は全盛期を迎えていました。
- 彼女にも全盛時代があった。
- 彼は全盛期には典型的な人気スポーツ選手だった。
- 当時その宗教は全盛だった。
- 当時、芸術は全盛でした。
- 誰にも一度は全盛期がある。
- 全盛期の中頃まで日本が封建国家であったことは、よくしられている。
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- ニューイングランド全盛期 《19 世紀前半》.
- 全盛時代に.
- ローマはオーガスタスの時代に全盛を極めた.
- 彼の全盛時代は過ぎた.
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