元吉原
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 09:06 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動元吉原(もとよしわら)
- 静岡県富士市の地域名。旧富士郡元吉原村。現在の富士市今井付近。かつて吉原宿が置かれていたが、津波によって被害を受けた後中吉原(現在の富士市依田原付近。この中吉原も津波の被害を受けたため後に更に内陸の吉原本町付近に移設されている)に移転したため中吉原・吉原宿に対して元吉原と呼ばれた。
- 江戸・日本橋に置かれた遊廓。焼失して浅草・新吉原に移設されたため、新吉原に対して元吉原と呼ばれる。吉原遊廓#元吉原参照。
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元吉原
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 01:48 UTC 版)
徳川家康が天正18年8月1日(1590年8月30日)に江戸に入府し、その後、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開くと、江戸は俄かに活気付き、鎌倉以来の関東の武士の都となった。家康は東海地方から多数の家臣団を率いて江戸に入ったため、江戸の都市機能の整備は急ピッチで進められた。そのために関東一円から人足を集めたこと、また、戦乱の時代が終わって職にあぶれた浪人が仕事を求めて江戸に集まったことから、江戸の人口の男女比は圧倒的に男性が多かったと考えられる(江戸初期の記録は確かなものはないが、江戸中期において人口の3分の2が男性という記録がある)。そのような時代背景の中で、江戸市中に遊女屋が点在して営業を始めるようになった。 江戸幕府は江戸城の大普請を進める一方で、武家屋敷の整備など周辺の都市機能を全国を支配する都市として高める必要があった。そのために、庶民は移転などを強制されることが多くあり、なかでも遊女屋などはたびたび移転を求められた。そのあまりの多さに困った遊女屋は、遊廓の設置を陳情し始めた。当初、幕府は相手にもしなかったが、数度の陳情の後、慶長17年(1612年)、元誓願寺前で遊女屋を営む庄司甚右衛門(元は駿府の娼家の主人)を代表として、陳情した際に、 客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない。 偽られて売られてきた娘は、調査して親元に返す。 犯罪者などは届け出る。 という3つの条件で陳情した結果、受理された。受理されたものの、豊臣氏の処理に追われていた当時の幕府は遊廓どころではなく、陳情から5年後の元和3年(1617年)に、甚右衛門を惣名主として江戸初の遊郭、「葭原」の設置を許可した。その際、幕府は甚右衛門の陳情の際に申し出た条件に加え、江戸市中には一切遊女屋を置かないこと、また遊女の市中への派遣もしないこと、遊女屋の建物や遊女の着るものは華美でないものとすることを申し渡した。しかし、寛永の頃までは、遊女が評定所に出向いてお茶を出す係を務めていた。結局、遊廓を公許にすることでそこから冥加金(上納金)を受け取れ、市中の遊女屋をまとめて管理する治安上の利点、風紀の取り締まりなどを求める幕府と、市場の独占を求める一部の遊女屋の利害が一致した形で、吉原遊廓は始まった。ただし、その後の吉原遊廓の歴史は、江戸市中で幕府の許可なく営業する違法な遊女屋(それらが集まったところを岡場所と呼んだ)との競争を繰り返した歴史でもある。 このとき幕府が甚右衛門らに提供した土地は、日本橋葺屋町続きの2丁(約220メートル)四方の区画で、海岸に近くヨシが茂り、当時の江戸全体からすれば僻地であった。「吉原」の名はここから来ている。吉原移転後、跡地には難波町、住吉町、高砂町、新和泉町が出来た。現在の日本橋人形町2、3丁目と日本橋富沢町に跨がるあたりである。 寛永17年(1640年)、幕府は遊郭に対して夜間の営業を禁止した。このことで市中に風呂屋者(湯女)が多く現れるようになり、その勢いは吉原内にも風呂屋が進出するほどだった。
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