上流市民
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「西欧の服飾 (14世紀)」の記事における「上流市民」の解説
裕福な商工業者たちは貴族たちの着るような高価な流行の服装を仕立てては、わざと自分たち流に着崩して身に着けていた。ひんぱんな贅沢禁止令は彼らブルジョアジーの度を越した贅沢に対する牽制でもあった。彼らが好んだのはペリソンというふくらはぎまである頭からかぶるタイプの衣装である。多くはケルメスなどで染めた豪華な毛織物でできており、貴族の衣装のように毛皮で縁を飾り、肩はパットで張り出していた。 腰を絞ったローブも好まれたが、ゆったりとした丈の長い衣装はどちらかと云えば法律家や文筆業の人間に好まれていた。コルセ・サングルという腰丈で袖を膨らませた、ジュペルを豪華にしたような衣装も流行している。
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上流市民
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「西欧の服飾 (16世紀)」の記事における「上流市民」の解説
刺繍を施したシュミーズにプールポアンとオー・ド・ショースとバ・ド・ショース、そして雌牛の唇とあだ名された水掻きのように先が平たく広がった革靴や飾りのついた短靴やスリップオン式の浅い靴を履いた。雌牛の唇型は16世紀後半には廃れ、鴨の嘴型という先が丸みを帯びているタイプが人気を博し、徐々に先端が尖ったオックスフォード型に近いタイプが人気が出てくる。上着としてスペイン風のカペと呼ばれる円く生地を断ったマントが人気があった。これは腰に届かないほど短いもので、日本にも宣教師からの贈り物として織田信長や小早川秀秋が身に着けていた同型の遺品が残っている。 裁判官・弁護士・医師・学者などの裕福な知識人の一群は上着として毛皮もしくは布の大きな襟がついた袖の短いか全くないガウンを着ていた。このガウンはフランスではセー、ドイツではシャウベと呼ばれていた。ルターの肖像に描かれた袖のないゆったりと垂れた上着がそれである。この上着は多くが高級な毛織物かビロードで仕立てられており、毛皮で裏が付けられるなど高価なものであった。牛一頭4グルデンの時代に、アントン・トゥーハーという人が購入したテンの毛皮の付いた中古の黒いシャウベは35グルデンした。医師のギルク・レームは兄からテンの毛皮の付いたシャウベをプレゼントされたが、これは75グルデンもした。 ただし、人々に尊敬されるような職業の人でも財力が許す限りなんでも身に着けられるというわけでもなかった。1557年にアンドリュー・ブロード博士とペーター・グリュツェ学監が、それぞれ緋色と綾という華美すぎるナイトキャップを身に着けた罪で処刑された。 スペインの暗色好みとは別に、オランダやドイツでは宗教改革によるまじめで質素な服装の勧めから、黒い衣服が人気があった。フランスでは派手な衣服が好みであったアンリ3世の宮廷から、白や澄んだ青、澄んだ緑など明るい色が流行した。イギリスでも褐色がかった赤や暗緑や濃青などはっきりとした色合いが人気があった。 多色つかいのミ・パルティは16世紀の初めはよく着られたが、徐々に田舎の小役人の衣装となった。代わりにサラセン風の模様などを取り入れた品のいい縞模様や市松模様が流行している。
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上流市民
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「西欧の服飾 (16世紀)」の記事における「上流市民」の解説
上流市民の女性の衣服は貴婦人のものにほぼ準じる。スカートが膨らんだローブを着て、夏場はマルロット、ベルヌというやや簡素な物を着た(ローブと大きな違いはない)。タブリエというエプロンのようなものが流行し、スカートの前にくくりつけて下げた。これは汚れよけの前掛けではあったが、刺繍を施したりダマスク織で仕立てられるなどしており、装飾的な意味合いが強かった。 16世紀半ばスペインからはフレーズと言う襟、コルセットとヴェルチュガダンというスカートを広げる枠が持ち込まれた。ローブは袖が別仕立てで、共布だけでなくローブと色違いであったり素材違いの袖を後から縫いつけて縫い目をエポーレットで覆った。16世紀末には腰の上下の部分がボディスとスカートとして独立し、胸元が開いていった。フランスの外交官ド・メッスはエリザベス1世がへそのあたりまで開いたドレスを持っていると書き残している。胸元が開いたことで見えるようになったコルセットを隠すためにピエース・デストマという装飾を施した三角形の胸当てをローブの内側からホックで取り付けるようになった。一番上のスカートはボディスの裾の垂れ部分に沿ってホックなどで取り付けた。 コルセットははじめ王侯の婦人が鉄製の鎧のようなものを持ちこんだ。これは蝶番で着用する逆三角形に近い形をしており、透かし彫りが施されていた。より広く使われたのはキャンバスのような厚い麻布を何枚か重ねて裏からステッチを施し、葦の茎を通して芯にしたもので、キルティングしたものという意味でコール・ピケと呼ばれた。鯨骨を火で焙りながら曲げて型にしたものを入れるのはより高級なもので、紐で締めあげて着用した。 ベルチュガダンはスカートを釣鐘型に広げるための特殊なペチコートといった様子のもので、籐製の輪を小さいものから大きいものの順に丈夫な木綿や毛織の布に縫い込んで着用した。フランスではオース・キュという浮き輪のような形のパッド、イギリスではフィール・ファージンゲールという枝を使ったドラム缶型のベルチュガダンを腰に巻いて、腰から床と平行にスカートが横に広がるスタイルが流行した。ペチコートの下にはカルソンというズボンのようなものを履いた。会計録や財産名簿には散見されるもののあまり表だって名前が出ることは少ないが、カトリーヌ・メディシスは黒いタフタで仕立てたカルソンを所有していたと記録されている。イタリア製のリネンでできたカルソンが当時の貴婦人の遺品として残されているが、これはドロワーズの原型とされている。 1548年にイタリアの修道士が著した『女性の美に関する対話』という本の中で、ルネッサンス的な理想の美女について詳しい著述がある。第一に、色白であること。第二に豊かに波打つ金髪であることが挙げられている。ここでは「黄金の色、蜜の色、太陽の色」が良いといわれているので、明るいはっきりした色のブロンドがもてはやされたようだ。額は広く高く、眉は緩やかに上に湾曲して眉尻が落ちた形、丸くて大きい栗色の目、細い鼻梁で鼻の頭はやや上向きがよく、小さな口、長くほっそりとした首、やや豊かなあごが美人の証だった。 化粧品として鉛白のお白粉があったが、風刺詩には「ヴェニスの白亜」などで肌を塗る様子がうたわれているため、経済状況や部位によって使い分けていたのかもしれない。頬紅が好まれた様子はエリザベス朝の小説『不平家』に「静脈を描き、目を生き生きと見せ、髪を染め、肌をすべすべにし、頬を赤く染め、胸をふくらませ、歯を真っ白にする達人」が登場することからもわかる。 エリザベス朝では、髪はフィレンツォーラの黄金の色、蜜の色、太陽の色というより「燃える髪」と表現されるような赤っぽい色が人気があった。これは、エリザベス1世がかなり赤っぽい色の金髪で、その髪を誇りにしていた影響もある。スコットランドの外交官は、エリザベス女王が毎日豪華な衣装を着替えては、スコットランドのメアリー女王と自分のどちらが美しいかと問い詰め、自分の髪を賛美させたと自国に書き送っている。 最初は、ボネ・シャプロンやボネ・ド・ヴーヴという固いカチューシャで髪を抑える頭巾が被られた。これは中世のものよりは小型になっており、やがて髪が現れた。髪を現すのが普通になると、男性と同様の羽毛や宝石を飾ったビレッタやトーク帽(小さな筒型の帽子)を好んで被るようになった。こうした被り物も、イタリア風やフランス風やドイツ風と違いがあり、ラブレーはフランス女性は季節ごとに被り物を使い分けたと書いている。 靴は男性のものとほとんど変わらず、雌牛の唇型からオックスフォード型に緩やかに変化していった。
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