ロシア‐えんせい〔‐ヱンセイ〕【ロシア遠征】
ロシア遠征(1812年ロシア戦役)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 13:41 UTC 版)
「ナポレオン戦争」の記事における「ロシア遠征(1812年ロシア戦役)」の解説
詳細は「1812年ロシア戦役」を参照 大陸封鎖令を出した事で、イギリスの物産を受け取れなくなったヨーロッパ大陸諸国は経済的に困窮した。1810年、ロシアは大陸封鎖令を破ってイギリスとの貿易を再開。ナポレオンはロシア攻撃を決意する。1812年6月23日、27万のフランス軍を主体とし同盟国の軍隊を含む70万の大陸軍が国境のネマン川を渡った。ロシア遠征の始まりであった。 ロシア軍の戦略は、退却によってフランス軍をロシア領の奥深く引きずり込み、焦土戦術によって食糧の補給を断つことであった。8月17日にはスモレンスクが陥落するが、町は焼失させられていた。9月7日、モスクワ西方のボロジノで、クトゥーゾフ率いるロシア軍はフランス軍との決戦を試みる。このボロジノの戦いはフランス軍の辛勝に終わり、結局ロシア軍は焦土戦術を強化した。 9月14日、ナポレオンはモスクワに入城した。市民の大部分は町を脱出した後であった。14日の夜からモスクワの大火が起き、モスクワの町は4日間にわたって燃え続け、4分の3が焼失した。これによって、フランス軍は住居も食糧も失ってしまう。ナポレオンはアレクサンドル1世との和平交渉を試みるが返事はなく、冬が近づいていた。10月19日、ナポレオンはモスクワからの撤退を決意した。 撤退するフランス軍に対して、ロシア軍のコサック騎兵や農民のゲリラが襲い掛かり、さらには11月に入ると冬将軍が到来し、飢えと寒さで死亡する者が続出した。10月23日にはパリでマレー(フランス語版)によるクーデター未遂事件が起きる始末であった。撤退の過程で、大陸軍では37万が死亡し、20万が捕虜となった。12月10日にネマン川を越えて帰還したのはわずか5,000であった。だがこの戦いでロシア軍も40万を失ったのだった。
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