ピウス12世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:10 UTC 版)
「インカルチュレーション」の記事における「ピウス12世」の解説
1939年、教皇ピウス12世(在位: 1939年 - 1958年)は彼の着座式の週のうちに、250年の長きにわたるバチカンの方針を転換し (en:Pope Pius XII and China)、中国における先祖崇敬を許可した。1939年12月8日、布教聖省はピウス12世の指示により、中国の習慣はもはや迷信とは捉えず、祖先を尊重する名誉儀礼として、カトリック信徒に許可されるとの声明を発した。中国のカトリック教会は20の新しい大司教区、79の司教区、38の使徒座知牧区とともに再び繁栄を取り戻したが、それも束の間、1949年には共産主義革命が中国全土を呑み込んでしまった。 福音の導入[訳語疑問点]とはインカルチュレーションを意味し、地域文化の破壊ではない。ピウス12世は、すべてが理解しているわけではないように思えたので、この点を強調した。彼は回勅『スンミ・ポンティフィカトゥス(至高の教皇)』[訳語疑問点] (en:Summi Pontificatus) の中で、多様な文明の優れた資質についてより深く理解することは、キリストの福音を説くうえで欠かせないと書いている。 1944年、彼の教皇庁立宣教協会[訳語疑問点] (Pontifical Missionary Society) の役員に対する講話では次のように述べている。 福音を告げ知らせる者、キリストの使者は使徒であります。彼はヨーロッパ文明と文化を移植し、外国の土壌に根付かせ、繁茂させよとは命ぜられていません。彼の任務は、とても古く、高度に開発された自身の文化を誇りにもつ人々とのやりとりを通して、教え、組織し、彼らがキリスト教徒としての生活と道徳の「公理」を喜んで、実践的に受け入れる準備ができるようにすることです。付け加えたいのは「公理」はどのような文化にも適合し、それをすばらしく、健全にするものであり、人間の尊厳を守り、幸福を得るための大いなる力を与えるものです。 インカルチュレーションは1951年6月21日に発せられた回勅『エバンゲリ・プレコネス(福音の使者)』[訳語疑問点] (en:Evangelii Praecones)、および1957年4月21日に発せられた回勅『フィデイ・ドヌム(信仰の贈り物)』[訳語疑問点] (en:Fidei Donum) のなかでそれぞれ言及された。ピウス12世はカトリック・ミッションの地域における意思決定を拡大し、その多くが独立した教区へとなった。ピウス12世は、地域文化をヨーロッパ文化と完全に等価であると尊重するよう命じた。彼は前任者の路線を踏襲し、教会における地域管理の設立を支持した。1950年には西アフリカ、1951年には南アフリカ、1953年には英領東アフリカの教階制(ヒエラルキー)が独立。フィンランド、ビルマ、仏領アフリカは1955年に独立した教区となった。
※この「ピウス12世」の解説は、「インカルチュレーション」の解説の一部です。
「ピウス12世」を含む「インカルチュレーション」の記事については、「インカルチュレーション」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- ピウス12世のページへのリンク