「富嶽」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 00:50 UTC 版)
詳細は「富嶽」を参照 初のアメリカ本土空襲が行われた1942年に、中島飛行機の創業者の中島知久平が、アメリカ本土を空襲後にそのままヨーロッパまで飛行しドイツまたはその占領地に着陸することが可能な大型長距離爆撃機による空襲を計画した。 その後1943年には、日本陸海軍共同の計画委員会によって計画が承認され、中島飛行機はただちに日本とアメリカ本土の間の往復飛行が可能な6発エンジンを持つ大型長距離爆撃機「富嶽」の開発をはじめた。また同年中には専用の大出力エンジンの開発や、与圧キャビンなどの開発が開始されるとともに、東京都三鷹市に新工場の建設がはじめられた。 しかし1944年7月に、この計画の推進者の1人であった東條英機首相がサイパン島陥落の責任を取って辞任し、同時に本土防衛のための新型戦闘機の開発に資源を集中させるために、計画そのものが中止された。
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