新工場の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 01:10 UTC 版)
1953年(昭和28年)、塩田の大半を地主に返還して塩田に頼ることができない現状においてどのように製塩を続けていけばよいか再検討を迫られた。従来の塩田は天候気象条件等、自然に左右され需要と供給のバランスがとれず需要期とそうでない時期では価格に著しい変動があって夏季の平均価格が1kgあたり5円が時期によっては10円、15円と高くなることもある状況であった。計画的な生産によって年中平均的な価格を維持し、更に効率的な生産、合理化等も検討し日本本土の進んだ県に学び新しい工場を建設することを決定、総工費2,000万円(B円)の機械化工場に着手した。 1955年(昭和30年)2月新工場が落成し、操業を開始した。原料となる鹹水(かんすい)は塩田から供給される分ではとうてい間に合わないので、日本商社を通して台湾から原料塩を購入しこれを海水に溶かして精製する方式である。新しい工場の完成を期待していた従業員は意欲十分で、フルに活動し生産に励んだ。その結果生産もあがりその成果はみるべきものがあった。だがそこに思わず伏兵が待ち構えていた。製品は始め沖縄食糧会社が一括引受けてくれる筈であったが生産に対する販売が思わしくなく、一定量だけしか引受けてもらえず残りは会社自体で販売もしなければならなくなった。販売の開拓もままならず、おまけに機械での製品は質が悪いのとあらぬ風評もたてられて、生産より販売に苦しめられ1960年(昭和35年)頃までは、赤字経営を強いられた。会社経営の悩みは、運営資金の不足であった。その対策として外部の資本家に資金協力を依頼したが断られ、自力で活路を開くしか無かった。役員会の決議と役員の協力による株の増資によって、資金力を強化し運営資金不足は漸く解決することができた。
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