「密航」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 08:15 UTC 版)
復員後、東京の鶴川村(現在の町田市能ヶ谷)の自宅へ戻る。中国情勢における国民党の敗北が決定的となり、1949年(昭和24年)1月に蔣介石が総統を辞任すると、蔣介石に対する恩義(4万人の在留邦人と35万将兵の帰還への便宜供与、国体護持)から、根本は私財を売却して渡航費用を工面しようとする。そこに、元上海の貿易商であった明石元長及び「東亜修好会」からの要請があり、密航を決意する。 同年6月26日、家族に「釣りに行ってくる」とだけ言い残し、通訳の吉村是二とともに宮崎県延岡市の沿岸から台湾へ密航。7月10日に基隆に到着するが、密航者として投獄される。しかし、根本投獄の報告がかつて交流のあった国府軍上層部(彭孟緝中将、鈕先銘中将)に伝わるや否や待遇が一変し、8月1日に台北へ移動する。北投温泉での静養を経て、8月中旬、湯恩伯の仲介で蔣介石と面会する。同時期8月5日にアメリカが国民党政府への軍事支援打ち切りを表明しており、孤立無援の状態にあった蔣介石は根本の協力を受け入れた。
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