| ホーム |
豊下楢彦『集団的自衛権とは何か』は、なぜ「集団的自衛権」以外に頁の大半を割くことになったか -あるAmazon評を読んで-
■はじめに■
今回踏み台(←失礼)となる文章はこれです。
■集団的自衛権と憲法とコスト■
要するに、集団的自衛権というのは、使ってもいいけど、別に絶対に使わなくてはならない権利ではないのです(注1)。
で、憲法との間に齟齬が出るなら、当然、使わないのは、その国家の自由です。わざわざ改憲や解釈改憲を行うよりも、かけるコストは安く済むし、そりゃあ、集団的自衛権を封じるのは、むしろ当たり前です。
要するに、憲法との間に齟齬が出るとめんどくさいので、集団的自衛権は行使しない、わけです。少なくとも、これが長らく引き継がれていた建前だったわけです。建前だったとしても、ちゃんと"縛り"としては機能していたのです。
■自国の判断でに敵味方を分けられないのは国家といえるのか■
■「対米追従のリスクを冒しても行使すべきだ」って何?■
「対米追従のリスクを冒しても行使すべきだ」と結論付ける論者は、例えば、北朝鮮問題とイラク問題を結び付けて論じてた人たちですね。(その過ちについては、河辺一郎『日本の外交は何を隠しているのか』が詳しいですがその件は、また別の機会に。)
なぜ、北朝鮮問題とイラク問題を結び付けて論じてはならないか。
それは、北朝鮮問題の担保は、在日米軍基地だからであり、この件にイラク戦争は関係ないからです。基地を交渉に使える限り、北朝鮮問題とイラク問題を交換する必要はなかったわけです。少なくとも、イラク戦争における、カナダの対処レベルまでなら、戦争を回避する努力は、本来的に可能だったと思われます。
実際、豊下自身、「北朝鮮問題を抱えているからイラク問題でアメリカのサポートをせざるを得ないんだ。しかし、よく考えてみますと、北朝鮮問題とのバーゲニングは実は日本の基地提供でございます。」と述べています(注2)。別に、イラク戦争に加わらないからと言って、別に基地撤退をあっちが迫るわけじゃありません。米国にとってそれほどに基地のメリットはあるわけです(詳細本書)。
日本にある在日米軍の存在だけでも十分対米貢献しているのだから、集団的自衛権の行使など、究極的にはいらないのです。在日米軍基地は、集団的自衛権とバーゲニングできるほどの素材です。
■俺のNATOがこんな対米追従なわけがない■
「NATOなどはなぜこうしたリスクを冒しても行使しているのかについては全く検証はない」書いておいでですが、良く意味が分かりません。①集団的自衛権のNATOと日本での意味合いが違う、②そもそも、NATOは対米追従とは限らない、この二点が重要です。
先に②の方だけ片付けておきます。そもそもNATO加盟国が対米従属なんて、イラク戦争でのフランス、ドイツ、カナダを見れば、当てはまりません。NATO加盟国は建前上対等です。少なくとも、「追従」では決してないのです。
■集団的自衛権の意味合いの違い■
NATOの場合、米欧相互が独自の軍隊をもち、軍事的な互助関係をもちます。相互に防衛上のメリットがあります。
で、米日の場合はどうか。在日米軍を置いてあげることによって、米国には日本に軍事的拠点が置けるメリットが、日本には軍備に伴う負担を軽減できる(米国に守ってもらう権利はあるが、自分たちは米国が攻撃されても、設定された領域外なら助ける義務はない)メリットがあるわけです。既に日米同盟にはこういった相互のメリットがあります。そして、米国はそれを新安保のときから、承認していたわけです。在日米軍という存在が、NATOの欧州諸国と日本の立場を分けているのです。
もちろん、NATO加盟の欧州国内にも(例えばドイツなど)、米軍が駐留しているケースはありますが、これはどう考えるか。
■ドイツの場合と日本の場合■
もともと、北大西洋条約の前身たるブリュッセル条約自体が、相互防衛条約でした。これに、翌年米国等が加わる形で、北大西洋条約が結ばれます。後年、これに新たに(西)ドイツが参加します(注3)。
他国軍が駐留するにしても、最初から、集団的自衛権ありきだったのが、ドイツでの事例です。ドイツの場合、地理的な理由も含め、集団的自衛権を主張しない権利などなかったのです。
一方日本の場合、旧安保だと、日本に米軍基地を置くのに、日本防衛の義務はないという片務状況でした。当然、集団的自衛権などありはしなかったのです。その後、新安保で、集団的自衛権を日本は持たないままになりましたが、これは米軍が在日米軍基地を重視した結果だと本書に記載があります。日本側は、俺らちゃんと再軍備して相互防衛おkなんで基地返して、と言ったのですが、米軍は、いや俺基地残すから、と返答します(本書内の、当時の重光葵外相とダレス国務長官との交渉を参照)。基地を優先した米国の事情によって、集団的自衛権は棚上げとなったわけです(注4)。
■基地と集団的自衛権■
集団的自衛権を新たに認める場合、日本側には、メリットはなくなります。個別的自衛権で処理できる地域の外で米国が攻撃を受けた場合、米国を助ける義務を負ってしまうことになります。基地を置いてあげている代わりに双務的義務を免れているのが現状なのに、こんな国益を損なう真似は、止めとくべきでしょう。
ちなみに、コスタリカの事例が本書では引かれております。コスタリカの場合、必要な時には再軍備を行うことが憲法に書きこまれており、米州機構に加盟してて、過去に米国の戦いに参加していること、しかし自国外には"軍隊"を出さないこと、が本書に書かれています(注5)。ちゃんと自国の国益を考えてます。
集団的自衛権を行使しようとか言う人たちは、日本が米国を助ける義務が増えるする以上、当然、在日米軍駐留に伴う負担の軽減を要求するのが筋でしょう(基地自体の負担、費用の負担を視野に)。こちらにデメリットが出ることを容認するなら、当然こちらもメリットを要求すべし。これがリアル・ポリティックスでしょう(在日米軍基地の負担が減った分、自国の軍を強化すべきかどうか、その程度も含めて重要な論点ですが、これはまた今度。)
■まとめ■
要は、わざわざ「対米追従のリスクを冒しても行使すべき」なメリットなんて、何にもないのですね。逆に聞きたいんだけど、その時得られるメリットって何でしょう。そんなことも答えられない人々が跋扈していたのが、あのときの内閣時代だったのかなあ、としみじみ。
まあ結論は、「対米追従のリスクを冒しても行使すべきだ」という論者を論難するために、本書の大部は費やされた、です。
(終)
(注1) 詳細な経緯は本書を参照。「第五十一条 この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」(「自衛権 - Wikipedia」より)。「害するものではない」わけです。あくまで。
(注2)「第159回国会 参議院憲法調査会 第2号」(『参議院憲法調査会』)
(注3)「ブリュッセル条約 - Wikipedia」を参照。曰く、「ブリュッセル条約…北大西洋条約機構 (NATO) の前身…ヨーロッパの相互防衛を定めた…NATOと大きく異なっているのは、ヨーロッパの相互防衛の規定として仮想敵国としているのがドイツとしていること…である」。ブリュッセル条約の場合、仮想敵国はソ連ではなく、何とドイツでした。これじゃあ、集団的自衛権放棄したーい、なんて口が裂けてもいえません。
(注4)もっと詳しい内容については、「豊下楢彦という国際政治学者」(『天木直人のブログ』)を参照。
(注5)「コスタリカ - Wikipedia」参照。対外的に派遣しているのは、軍隊ではなく、カテゴリー的にはあくまでも"準軍隊"のようです。この準軍隊の中身については、足立力也『丸腰国家 軍隊を放棄したコスタリカの平和戦略』を参照。
(追記) 自民党が集団的自衛権について騒ぎ出しましたが、別に狙ってこの記事を書いたわけではありませんでした。
それにしても自民党は、せっかく与党に返り咲くチャンスをみすみす逃しているようです。自分たちに好意的で居てくれそうな、党の潜在的な左系支持派を逃すというのは、これから政権を執らんとする政党のすることではありません。とりわけ、自身の政党を目立たせるためとしか思えない、このタイミングでの発表は、実に現与党並みの下劣さといえるでしょう。
((更に追記)
こちらの意図が分かりにくかったのかもしれませんので、より簡潔に。
要するに、日本の保守系の人々が、「憲法改正や集団的自衛権の行使を「対等性」とか「双務性」といったタームで位置づけているのに対し、米国は「目上のパートナー」として日本をそのコントロール下におきつつ、その「軍事貢献」を最大限に活用しようとしているのである」ということです。すれ違っているのです、相互の意図が。
現野党の自民党様は「軍事的に米国と対等になろうと躍起だが、肝心の米国はそんなことは全く思っていない。むしろ対等になってもらっては困るのであり、完全に空気を読み違えている日本の姿がここにある」わけです。「米国にとっての理想の日本像とは忠実な下僕として米国の言いなりに素直に従ってくれる日本」なのです(以上、「BOOK REVIEW 144 豊下楢彦『集団的自衛権とは何か』」『ケイジスタ』様)。そんなものです。
'
// 著作権表示部分を消す場合は上の一行と、この行を削除
document.getElementById('kanrendesu').innerHTML = k_k_k
}
get_fc2_cate_rss('http://webrog.blog68.fc2.com/?xml&category=19')
// -->
今回踏み台(←失礼)となる文章はこれです。
■集団的自衛権と憲法とコスト■
本書をよく読みましょう。憲法上、齟齬が出るからだと思われます。現在の「集団的自衛権を行使しない」と解釈してきたことを説明するものの、なぜ保有すれども行使せずと解釈してきたかについては全く説明されない。
要するに、集団的自衛権というのは、使ってもいいけど、別に絶対に使わなくてはならない権利ではないのです(注1)。
で、憲法との間に齟齬が出るなら、当然、使わないのは、その国家の自由です。わざわざ改憲や解釈改憲を行うよりも、かけるコストは安く済むし、そりゃあ、集団的自衛権を封じるのは、むしろ当たり前です。
要するに、憲法との間に齟齬が出るとめんどくさいので、集団的自衛権は行使しない、わけです。少なくとも、これが長らく引き継がれていた建前だったわけです。建前だったとしても、ちゃんと"縛り"としては機能していたのです。
■自国の判断でに敵味方を分けられないのは国家といえるのか■
「対米追従のリスクを冒しても行使すべきだ」という論者を論難するために、本書の大部は費やされてるんですけどね。わかっておられるでしょうか。自国の判断でに敵味方を分けられないのは国家といえるのか、という旨の本書冒頭のカール・シュミットの言葉、ちゃんとお読みでしょうか。筆者の主張は「行使すべきではない」ということであり、特に「対米追従」になるから、という説明を多くの紙幅を割いて説明している。これは政策論でありそれなりの理屈がある。が、逆説的にいうならば「対米追従のリスクを冒しても行使すべきだ」と結論付ける論者に対する反論にはなり得ない。NATOなどはなぜこうしたリスクを冒しても行使しているのかについては全く検証はない。
■「対米追従のリスクを冒しても行使すべきだ」って何?■
「対米追従のリスクを冒しても行使すべきだ」と結論付ける論者は、例えば、北朝鮮問題とイラク問題を結び付けて論じてた人たちですね。(その過ちについては、河辺一郎『日本の外交は何を隠しているのか』が詳しいですがその件は、また別の機会に。)
なぜ、北朝鮮問題とイラク問題を結び付けて論じてはならないか。
それは、北朝鮮問題の担保は、在日米軍基地だからであり、この件にイラク戦争は関係ないからです。基地を交渉に使える限り、北朝鮮問題とイラク問題を交換する必要はなかったわけです。少なくとも、イラク戦争における、カナダの対処レベルまでなら、戦争を回避する努力は、本来的に可能だったと思われます。
実際、豊下自身、「北朝鮮問題を抱えているからイラク問題でアメリカのサポートをせざるを得ないんだ。しかし、よく考えてみますと、北朝鮮問題とのバーゲニングは実は日本の基地提供でございます。」と述べています(注2)。別に、イラク戦争に加わらないからと言って、別に基地撤退をあっちが迫るわけじゃありません。米国にとってそれほどに基地のメリットはあるわけです(詳細本書)。
日本にある在日米軍の存在だけでも十分対米貢献しているのだから、集団的自衛権の行使など、究極的にはいらないのです。在日米軍基地は、集団的自衛権とバーゲニングできるほどの素材です。
■俺のNATOがこんな対米追従なわけがない■
「NATOなどはなぜこうしたリスクを冒しても行使しているのかについては全く検証はない」書いておいでですが、良く意味が分かりません。①集団的自衛権のNATOと日本での意味合いが違う、②そもそも、NATOは対米追従とは限らない、この二点が重要です。
先に②の方だけ片付けておきます。そもそもNATO加盟国が対米従属なんて、イラク戦争でのフランス、ドイツ、カナダを見れば、当てはまりません。NATO加盟国は建前上対等です。少なくとも、「追従」では決してないのです。
■集団的自衛権の意味合いの違い■
NATOの場合、米欧相互が独自の軍隊をもち、軍事的な互助関係をもちます。相互に防衛上のメリットがあります。
で、米日の場合はどうか。在日米軍を置いてあげることによって、米国には日本に軍事的拠点が置けるメリットが、日本には軍備に伴う負担を軽減できる(米国に守ってもらう権利はあるが、自分たちは米国が攻撃されても、設定された領域外なら助ける義務はない)メリットがあるわけです。既に日米同盟にはこういった相互のメリットがあります。そして、米国はそれを新安保のときから、承認していたわけです。在日米軍という存在が、NATOの欧州諸国と日本の立場を分けているのです。
もちろん、NATO加盟の欧州国内にも(例えばドイツなど)、米軍が駐留しているケースはありますが、これはどう考えるか。
■ドイツの場合と日本の場合■
もともと、北大西洋条約の前身たるブリュッセル条約自体が、相互防衛条約でした。これに、翌年米国等が加わる形で、北大西洋条約が結ばれます。後年、これに新たに(西)ドイツが参加します(注3)。
他国軍が駐留するにしても、最初から、集団的自衛権ありきだったのが、ドイツでの事例です。ドイツの場合、地理的な理由も含め、集団的自衛権を主張しない権利などなかったのです。
一方日本の場合、旧安保だと、日本に米軍基地を置くのに、日本防衛の義務はないという片務状況でした。当然、集団的自衛権などありはしなかったのです。その後、新安保で、集団的自衛権を日本は持たないままになりましたが、これは米軍が在日米軍基地を重視した結果だと本書に記載があります。日本側は、俺らちゃんと再軍備して相互防衛おkなんで基地返して、と言ったのですが、米軍は、いや俺基地残すから、と返答します(本書内の、当時の重光葵外相とダレス国務長官との交渉を参照)。基地を優先した米国の事情によって、集団的自衛権は棚上げとなったわけです(注4)。
■基地と集団的自衛権■
集団的自衛権を新たに認める場合、日本側には、メリットはなくなります。個別的自衛権で処理できる地域の外で米国が攻撃を受けた場合、米国を助ける義務を負ってしまうことになります。基地を置いてあげている代わりに双務的義務を免れているのが現状なのに、こんな国益を損なう真似は、止めとくべきでしょう。
ちなみに、コスタリカの事例が本書では引かれております。コスタリカの場合、必要な時には再軍備を行うことが憲法に書きこまれており、米州機構に加盟してて、過去に米国の戦いに参加していること、しかし自国外には"軍隊"を出さないこと、が本書に書かれています(注5)。ちゃんと自国の国益を考えてます。
集団的自衛権を行使しようとか言う人たちは、日本が米国を助ける義務が増えるする以上、当然、在日米軍駐留に伴う負担の軽減を要求するのが筋でしょう(基地自体の負担、費用の負担を視野に)。こちらにデメリットが出ることを容認するなら、当然こちらもメリットを要求すべし。これがリアル・ポリティックスでしょう(在日米軍基地の負担が減った分、自国の軍を強化すべきかどうか、その程度も含めて重要な論点ですが、これはまた今度。)
■まとめ■
要は、わざわざ「対米追従のリスクを冒しても行使すべき」なメリットなんて、何にもないのですね。逆に聞きたいんだけど、その時得られるメリットって何でしょう。そんなことも答えられない人々が跋扈していたのが、あのときの内閣時代だったのかなあ、としみじみ。
まあ結論は、「対米追従のリスクを冒しても行使すべきだ」という論者を論難するために、本書の大部は費やされた、です。
(終)
(注1) 詳細な経緯は本書を参照。「第五十一条 この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」(「自衛権 - Wikipedia」より)。「害するものではない」わけです。あくまで。
(注2)「第159回国会 参議院憲法調査会 第2号」(『参議院憲法調査会』)
(注3)「ブリュッセル条約 - Wikipedia」を参照。曰く、「ブリュッセル条約…北大西洋条約機構 (NATO) の前身…ヨーロッパの相互防衛を定めた…NATOと大きく異なっているのは、ヨーロッパの相互防衛の規定として仮想敵国としているのがドイツとしていること…である」。ブリュッセル条約の場合、仮想敵国はソ連ではなく、何とドイツでした。これじゃあ、集団的自衛権放棄したーい、なんて口が裂けてもいえません。
(注4)もっと詳しい内容については、「豊下楢彦という国際政治学者」(『天木直人のブログ』)を参照。
(注5)「コスタリカ - Wikipedia」参照。対外的に派遣しているのは、軍隊ではなく、カテゴリー的にはあくまでも"準軍隊"のようです。この準軍隊の中身については、足立力也『丸腰国家 軍隊を放棄したコスタリカの平和戦略』を参照。
(追記) 自民党が集団的自衛権について騒ぎ出しましたが、別に狙ってこの記事を書いたわけではありませんでした。
それにしても自民党は、せっかく与党に返り咲くチャンスをみすみす逃しているようです。自分たちに好意的で居てくれそうな、党の潜在的な左系支持派を逃すというのは、これから政権を執らんとする政党のすることではありません。とりわけ、自身の政党を目立たせるためとしか思えない、このタイミングでの発表は、実に現与党並みの下劣さといえるでしょう。
((更に追記)
こちらの意図が分かりにくかったのかもしれませんので、より簡潔に。
要するに、日本の保守系の人々が、「憲法改正や集団的自衛権の行使を「対等性」とか「双務性」といったタームで位置づけているのに対し、米国は「目上のパートナー」として日本をそのコントロール下におきつつ、その「軍事貢献」を最大限に活用しようとしているのである」ということです。すれ違っているのです、相互の意図が。
現野党の自民党様は「軍事的に米国と対等になろうと躍起だが、肝心の米国はそんなことは全く思っていない。むしろ対等になってもらっては困るのであり、完全に空気を読み違えている日本の姿がここにある」わけです。「米国にとっての理想の日本像とは忠実な下僕として米国の言いなりに素直に従ってくれる日本」なのです(以上、「BOOK REVIEW 144 豊下楢彦『集団的自衛権とは何か』」『ケイジスタ』様)。そんなものです。