2006年09月09日 22:40
「知力、体力、時の運」を合言葉に、広大なアメリカ大陸を横断しながら1000問以上に及ぶクイズに挑戦した。昨今、様々なクイズ番組の優勝者を"クイズ王"と呼ぶことがあるが、開催規模・参加人数・番組の量、質・視聴率等のいずれを以てしても当番組での優勝は他のそれを圧倒しており、「ウルトラクイズのクイズ王こそ真のクイズ王」という声も大きかった。
参加者 視聴率 司会者
第1回大会(1977年) 404名 約25% 福留功男
第2回大会(1978年) 700名 23.9% ↓
第3回大会(1979年) 1362名 23.9%
第4回大会(1980年) 2707名 29.9%
第5回大会(1981年) 6473名 27.2%
第6回大会(1982年) 7332名 27.2%
第7回大会(1983年) 10203名 34.5%
第8回大会(1984年) 11048名 23.1%
第9回大会(1985年) 11751名 22.2%
第10回大会(1986年) 17162名 26.8%
第11回大会(1987年) 18017名 20.4%
第12回大会(1988年) 20774名 17.9%
第13回大会(1989年) 24115名 16.6%
第14回大会(1990年) 26735名 15.0%
第15回大会(1991年) 28523名 18.1% 福澤朗
第16回大会(1992年) 26121名 14.6% ↓
1992年での番組終了の原因は視聴率低迷だと思うが、終盤の時期も打ち切りになるほど悪い数字だったとは思えない。やはり何人も引き連れて長期間アメリカを横断するという予算は想像を絶する額だったと思われます。バブルが弾けると同時に終了した感じですね。
(追記)バブル期だったからこそ、NYに行くありがたみが薄れてきたとのご意見頂きました。全くその通りだと思いました。番組スタートは1977年ですから、海外旅行に対する認識も徐々に変わっていたっと思われます。
それにしても皮肉なのが福澤さんに変わってからたった2回で終了した事だ。1991年の放送は途中交代だったので実質一回しかやっていない事となる。福澤さんも名物である敗者復活を廃止し、サバイバル色を高めるなど独自色に奮闘したが、ウルトラクイズ=福留というイメージは壊せなかったみたいだ。
さてさて、16年の放送で私の中で忘れられない大会があります。
それは第13回の長戸勇人さんが優勝した回です。
この決勝はアメリカ横断ウルトラクイズの歴史の中で「史上最強の決勝」と言われています。彼の決勝の対戦相手の永田良彰さんは「FNS1億2000万人のクイズ王」 で第2回、第4回の優勝に輝いている屈指のクイズ王です。
その永田さん相手に当時まだ大学生だった長戸さんは圧倒的なスコアの差をつけ優勝します。この他を寄せ付けぬ強さと彼の人間味あふれる姿に視聴者は釘付けになったと思います。
クイズ界では長戸さんは有名人ですが、一般人にはどうもピンときません。
長戸さんがどれだけすごいかというと他の番組でも実証されているみたいです。
ワールド☆レコーズ
http://www.ntv.co.jp/wrs/renewal/kettei/20050116-1/main.html
そしてこの回の放送が記憶に残る事となるもうひとつの理由は優勝賞品にあったと思います。毎回優勝商品は直前まで教えられず、とても豪華な賞品なのですがオチが待っているという事が多かった様に思います。
(例)
小型飛行機 →自分で組み立てないとダメ
カナダ東部に浮かぶ"島 → 満潮時には畳一畳分を残して水没する
そしてこの年の優勝商品は冷凍人間保存の会員権だったのです。うらやましいのか・・そうでもないのか・・
ともかくこの当時としては人間を冷凍保存なんて夢の様な話でしたので記憶に残っています。
現在でも全国高等学校クイズ選手権は継続されていますが、たかだか2時間では出場者に全然感情移入できません。アメリカ横断は飛行機搭乗の前にじゃんけんが組み込まれており、前回のチャンピオンがじゃんけんで負けるといった不条理さがまたおもしろかったりしました。
毎週出場者のさまざまな人間模様を観ていると、自然と肩入れする人も出てきたりして、このクイズ番組の形式は画期的だったと思っています。バブル期ならではの番組だったのでしょうか?またこの番組が観れる様な時代が来れば良いのですが・・
コメント
H-CM | URL | v/WT1rFw
ウルトラクイズガ終わった原因ですが
視聴率低迷やバブルによる海外旅行の価値が変わったことに加え、年々スケールがでかくなり次回への期待が高まり、それに耐えられなくなったこと、
さらに大学のクイズ研究会が組織的に対策を練ったことで勝ち残りが増え、相対的に一般人が減った事による没個性がウルトラクイズの演出方針である人間ドキュメンタリーのマイナス要因になってしまったこと等があるようです
大学クイズ研究会の対策とは
そもそもクイズに勝ち残ったとしても海外にいけない為、辞退せざるをえない人を一緒に参加させる。
問題の答えが確実にわかっている場合に、確実に答えがわかっている素振りをした当人を間違いのほうに走らせて、迷っているほかの参加者を道連れにする
または、そろそろ勝ち残るかどうかの時に答えがわからなかった時に、自分たちのグループを半分ずつ両方に振り分け、必ず自分たちのグループの人間が勝ち残るようにする。
さらに最終問題などで勝ち残ったメンバーのうち先ほどの辞退せざるを得ないメンバーに辞退させ、敗退した参加可能なメンバーが勝ち残れる枠を作る
このようなことがあったそうです
球場での○×クイズの時、司会者が「自分で決めろ!」とか、「人についていかない!」とか
言っていたのはそのことへの警告の意味もあったようですよ
( 2009年09月24日 17:28 [Edit] )
きくりん | URL | -
yCPR2 さん
13回大会は見終わった後に、他の大会に無いなんともいえない充実感というか・・ボルティモアの戦いは下手な格闘技よりも記憶に残ってます。
それにしても未だに全録画を持っておられるとは貴重すぎる資料ですね。
コメントありがとうございます。^^
こちらこそ今後ともよろしくお願いしますー
( 2006年11月06日 22:42 )
菊リン | URL | -
>初音さん
トリビアにも出ていたのですねー。私がショックだったのはこれほど基礎能力の高い長戸さんが、大人になってクイズ関連の仕事をしていた事です。NASAなんかで働いていればかっこよかったのになーとか勝手な事を思ったりしました。クイズの知識って世にいかせないのですかね・・
( 2006年09月12日 23:31 )
初音 | URL | -
ウルトラクイズ、司会の福留さんが出場者にあだなをつけて呼んでいたこと、成田空港のじゃんけんで敗者に思いっきりピコピコハンマーで叩かれて辛そうな徳光さんの顔を覚えています。以前、「トリビアの泉」でクイズ王の永田さんが出ていましたね。
( 2006年09月12日 20:00 )
菊リン | URL | -
>トロピカルさん
そう、クイズといえば立命館でしたね!コメント読ませてもらうといつも皆さんの方がよくご存知で、逆に情報頂いてます!(笑)いつもありがとうございます
>koma-changさん
おもわず笑ってしまいました。私もこの記事書くのに「長・・」までは思い出せたのですが、出てきませんでした。 京都リスペクト協会員じゃない私も長門さんは別格でしたね。そうそうたしか決勝を圧勝だったのですが、準決勝がすごい事になったんですよね。思い出してきました(笑)
>fuさん
いやいや・・御見それしました。なんでこの番組が視聴率低迷したのかが理解できなかったのですが、逆転の発想ですね。バブルだったからこそ、「ニューヨークに行きたいか?」が魅力的な言葉じゃなくなっていったんですね。妙に納得してしまいました。的外れな私の推測が恥ずかしくなってきました・・・。的確なご指摘ありがとうございます^^
( 2006年09月10日 23:58 )
fu | URL | -
視聴率が低迷したひとつの理由として
「ニューヨークには誰でも行ける時代」
になってしまってたという事ですね。
バブルで終わったというよりバブルの始まりの時期に
すでに飽きられていたのかも。
( 2006年09月10日 09:01 )
koma-chang | URL | -
私も一番印象に残ってるのが
「長戸さん」ですね~。
京都リスペクト協会の私は、立命クイズ研究会の長戸さんを
勝手に”京都代表”に指名し、グアムあたりから応援していただけに
優勝時の感激は今も忘れられません。
入浴中の父にわざわざ
「長門さん優勝したっ!!」と伝え「誰やねん!」とつっこまれたのも
今ではいい思い出ですな
( 2006年09月10日 01:50 )
トロピカル | URL | -
あー、これまた懐かしいですねー。
僕は小学6年生の頃に早押し用の機械(6人分の
ボタンがあり、早押しした人のランプが点灯する
もの)も持ってましたよー。
ウルトラクイズと言えば、立命館大学クイズ研究
会が有名でしたよねー。
( 2006年09月10日 01:22 )
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