エゴイスト
2023年02月26日
LGBTQという性的マイノリティの人たちに関心が高まっても、理解が進むところまでは行っていないのが日本の現状。
先日も、首相の秘書官がLGBTQに対して「見るのも嫌だ」と言って首が飛んだ。
百歩譲って「嫌だ」と思うのは、それはそれでその人の“指向”であろうし体質であろうし人格であるだろうから、頭の中で思うだけなら好きにすればいい。
オフレコ・オンレコは関係ない。
よく子供が正直すぎるあまりに周りが凍りつくようなことをサラッと言ったりするが、大人の公人ともあろうものが、差別発言だと分かりそうなことを躊躇なく口から発する感覚が恐ろしい。
所詮は何ごとにも興味がないのだろう。
正直、こういう人やその手の発言には飽きた。 無理解な者たちにかまっているヒマはない。
LGBTQの人をもっと学びたい。
どんな性的指向であろうと、誰もが差別されずに普通に暮らせる社会のために、学ぶべきことはまだまだある。
そのために色々な映画を観てきた。
そしてまたひとつ。 人が人を愛するとは何なのかという問いを我々の脳髄に叩き込む傑作が生まれた。
凄い映画なのだ。 まだの方はぜひご覧頂きたい。
「見るのも嫌だ」という者もこの映画を観るべし!
ほとんどゲイの主人公の視点で描かれる本作は、偏見や差別などの問題を取り上げた話ではなく、むしろそういう要素を切り離した個人的世界の描写であり、一切の悪意も入り込む余地のない慈しみに満ちた愛の物語である。
「エゴイスト」という利己的でわがままな者の意を持つマイナスなイメージのタイトルの意味が映画を観たあとに分かる。
そのとき、純愛を極めるがゆえにほとばしる想いの切なさに、言葉では説明できぬ感動を覚えずにはいられない。
原作は「羽生結弦は助走しない」などで知られるエッセイストで、2020年に他界した高山真の自伝的小説。
監督は「トイレのピエタ」の松永大司。
【結末までのあらすじ】です
東京でファッション雑誌の編集者をしている斎藤浩輔(鈴木亮平)、32歳。
ゲイである彼は仕事終わりの夜に、ゲイの友人たちが集まっての酒席を囲んで自分を解放する毎日を送っている。
母は浩輔が14歳の時にガンで亡くなった。 実家には父(柄本明)が一人で暮らしているが、浩輔は母の命日には必ず帰省して仏壇に手を合わせる。
自分が人とは違うことはすでに思春期の頃から自覚しており、巧く隠せなかったことが要因で、周りから「オカマ」とバカにされ、鬱屈した十代を過ごしてきた。
「ババアが一人死んだくらいで大げさなんだよ」と、母の葬儀の香典返しのノートを破って紙飛行機にして遊んでいた“豚野郎”の顔は大人になっても忘れない。
上京して出版社に就職。 ハイグレードマンションに暮らし、ブランド品で身を包むほどの成功を収めた浩輔。
先日実家に寄ったとき、父から「おまえもそろそろいい歳なんだし。 誰かいい人は居ないのか?」と聞かれて、なんとなくはぐらかした。
何もかも手に入れた浩輔に無いものが、“いい人”だった。
いい人が居たとて・・・・・
最近体についてきだした贅肉が気になっていたとき、友人からパーソナルトレーナーを紹介された。
浩輔より8歳年下の中村龍太(宮沢氷魚)は美しい顔の青年だった。 彼もゲイである。
周りから冷やかされても、浩輔は龍太とどうにかなろうという気まではなかった。
元々体が弱くて、自分を鍛えるきっかけからトレーナーをするようになった龍太は、女手ひとつで自分を育ててくれた病気がちの母の妙子(阿川佐和子)の面倒を見ながら一緒に暮らしている。
浩輔はそんな龍太を応援したかった。
ジムから一緒に帰っていたとき、浩輔は高級寿司屋に立ち寄り、寿司の折り詰めを買い「お母さんに」と龍太に持たせてあげた。
歩道橋を上がる際、後ろから駆け上がった龍太が浩輔に口づけした。
「どういう意味? 寿司のお礼?」
「ちがいます。 斎藤さんは魅力的です」
こうして浩輔と龍太は「浩輔さん」、「龍太」と呼び合う恋人同士になった。
これまでの浩輔の人生の中で龍太は、自分が愛する人・自分を愛してくれる人が初めて調和した相手だった。
会うごとに二人は体を重ね合った。
愛する人がいる幸せを浩輔は噛みしめた。
だが、浩輔にとっていつまでも続いてほしい至福の日々は突然終わることになる。
ある日、龍太から「終わりにしたい」と言われた。
動揺する浩輔は何が嫌だったのかを問いただす。
龍太は「売り」をしているのだと告白した。 母を養うために。
浩輔との出会いによって、割り切って仕事が出来なくなったのだと胸の内を明かした。
以来、龍太とは連絡がつかなくなった。
このままでは納得できなかった。
龍太を苦しませたままで身を引くなんてことは有り得ない。
浩輔は毎日、「売り」のサイトをサーチした。
そしてやっと、サイトに載っている多数の男たちの、首から下の体の写真の中から、龍太に違いない体を発見した。
浩輔は客を装い、アポをとって龍太と再会する。
「僕が買ってあげる。専属の客になる。月10万。それでダメなら消える。龍太が決めて」
龍太は泣いていた。
「一緒に頑張ろう」
こうして、二人の新しい関係が始まった。
それまでよりも二人は激しく求め合い愛し合い、そのたびに浩輔は龍太にお金を渡す。
それに甘えてはいられない龍太はバイトをもうひとつ増やし、働きづめの日々を送った。
ハードだったが、「お袋に本当の仕事を言えるのが嬉しい」と龍太は明るく言っていた。
浩輔は龍太が母の妙子と暮らすアパートに招かれた。
妙子には二人の関係を明かすことは出来ないし、どんな感じでいればいいだろうかと浩輔は手探りな気持ちのまま緊張していた。
妙子は何のてらいもない素朴な人で、まるで浩輔を昔から知ってるかのような感覚で温かく接してくれた。
手料理の美味しさに、浩輔は亡き母のことを思い出す。
母の料理が嬉しくて美味しくて感謝したなんてことを実感した記憶はない。 そんな念に至るくらいに自分が成長するまでに母は逝ってしまった。
龍太と妙子。 いつまでも永く幸せであってほしい。 自分と母のようになってほしくない。
自分に何が出来るだろうか。 できる限りのことをしてあげたいと浩輔は決心した。
お金を払いながら逢瀬を重ねていたある日、妙子が倒れ、ヘルニアの手術をすることになる。
手術後の通院もこれから大変だろうと浩輔は軽自動車を購入することにした。
そんなことまでと遠慮する龍太を浩輔は説得する。
「お母さんのために二人でやれるところまでやってみよう」
自分はガンで苦しむ母に何もしてやれなかったという思いもある。
それを思い出したとき、龍太と妙子の親子にお金を渡したり車を買ったりと、果たしてこれは誰のためにやってあげてるのだろうかという小さな小さな疑問が浩輔の脳裏をかすめて通り過ぎていった。
・・・・・龍太とお母さんのために決まってるじゃないか。 浩輔はそんな疑問は忘れることにした。
車が納車された日に龍太とドライブする約束をしていた。 だが龍太は時間になってもやってこなかった。
龍太のケータイにかけてみると妙子が出た。
電話の向こうから聞こえてくる妙子の、か細い声が絞り出す一字一句が浩輔を打ちのめす。
「龍太、亡くなったの。 朝、布団の中で・・・ 龍太、亡くなっちゃいました」
気持ちの整理がなかなかつかなかった。
なぜそんなことになったのか。
龍太に、一緒にお母さんを支えようと言ったことが彼に無用なプレッシャーをかけてしまったのか。
バイトを増やすなどして元々弱い体にムチ打ってしまったことが龍太の死を招いたのか。
そんなつもりではなかったのに。
思えば最近の龍太は浩輔とひとときを過ごしてい時でも、すぐに疲れて眠ってしまうことが何度もあった。
おかしいとは感じていたのだ。 なのになぜそのまま見過ごしてしまったのか。
自分の母親も、龍太も。 なぜ愛する人を守れないのかと浩輔は自分を責め苛んだ。
葬儀の場で取り乱してしまったことを後で妙子に詫びた。
「あなたに謝られると龍太が悲しむ」と妙子は言った。
彼女は浩輔と龍太の関係を知っていた。
浩輔が家に招かれて帰ったあとで、妙子は息子に聞いたのだそうだ。
「あなたの大事な人なんでしょ?」
龍太は何度も謝ったという。
「相手が男だろうと女だろうと、龍太にとって本当に大事な人が出来たのなら良かった」
龍太にそう言ってくれただけで嬉しかった。
龍太は自分との出会いに救われたのだとも言っていたという。
「この世は地獄だけじゃなかった」と。
救われたのは自分も一緒だ。
言わないでと言われたのでこらえたが、浩輔は何度も心の中で「ごめんなさい」と言った。
母の命日ではないが、どうしても実家に帰って母の仏壇に向かいたかった。
何事かと最初は驚いていた父はおもむろに母のことを語り出す。
病気になったとき、別れてくれと言われたという。
「おまえが俺を嫌いになったって言うんならしょうがないが、迷惑をかけたくないってだけなら一緒に頑張るしかないだろ」
人生を犠牲にする夫を拒もうとした母と、人生を捧げてでも妻と歩もうとした父。
犠牲か奉仕か。 人を想うということはなぜこうも危ういものなのだろうか。
龍太は犠牲になったのか。 自分がそうさせたのか。 誰のためにこの母子の人生に奉仕したかったのだろうかと浩輔は自分の胸に問い続けるのだが・・・
その答えが分かるまでは浩輔は龍太が頑張ってきたことをを無にはできなかった。
浩輔が毎回お金を渡していたことを初めて聞いた妙子に対し、浩輔は今まで通り、お金を受け取って欲しいと妙子に懇願する。
受け取るわけにはいかないと妙子が頑なになるのも当然だが、「僕のわがままなんです」と浩輔も引き下がることはできなかった。
浩輔はたびたび妙子の住まいを訪れ、身のまわりの世話をしたり、一緒に食事したり、まるで親子のような時を共に過ごした。
妙子が時折、なぜそこまでという表情を見せるが浩輔は見ない振りをする。
自分でもどこでケリがつくのだろうかと思う。
ともかく自分の気が済まないのだ。 自分の気が。 ・・・自分のことだけか? では妙子の気持ちは?
とにかく浩輔は、今の気持ちに正直になることだけを考えた。
ある日、いつものように妙子のアパートを訪ねると彼女はいなかった。
隣室の住人から妙子が入院したと聞かされた。
なぜ言ってくれなかったのかという思いを抱えながら浩輔は慌てて病院へ向かった。
病室の同部屋の女性患者が「あら、息子さん?」と言う。 「ちがいますよ」
ステージ4の膵臓ガンなのだと妙子は言った。
どうしてこんなことになるのか。
自分の母と同じように、またしてもガンが大切な人を奪う。
自分の母にも何も出来ず、龍太の異変にも気づいてやれず、妙子の病気にも気づけなかった。
「ごめんなさい」
「何も悪いことしてないでしょ。 私もあなたのこと、大好きよ。 愛してくれてありがとう」
愛なのか? 自分がやってきたことは愛なのか? 龍太や妙子との日々は果たしてそうだと言えるのか?
思えば龍太と妙子の母子を自分と母に重ね合わせていた。
龍太への愛は真実だ。
だが、病気の母を支えながら頑張っている龍太に、悔いが残る自分の過去の赦しを求めたのではないかと自己に問うと、それはないとは否定できないのだった。
ガンで苦しむ母に何もしてやれなかった。 「オカマの母親」と陰で言われて悲しい思いをさせたことも自分は何ら償ってはいない。
龍太は自分なのだった。 龍太を愛していてもそれは自分を愛しているにすぎなかったのだろう。
龍太に無理をさせてしまっているのに、自分が頑張ったように自己満足していたのだ。
龍太が亡くなった後に、妙子からすべてを知っていたことを聞かされ、なおさら自分のエゴが止められなかった。
龍太の代わりになろう、なってあげようというおこがましい気持ち。 妙子に自分がついていなければ、ついてあげるんだという押しつけ。
すべて自分が母に出来なかったことのやり直しではないのか? 愛はなかったのか? いや、愛はあったのだ。 龍太は本当に大切な存在だった。
しかし、その愛は誰のためだったのだ?
「僕は、愛がなんなのかよく分からないです」
泣きむせびながら、そう吐露する浩輔に妙子はそっとささやく。
「自分で分からなくても、受け取った私たちが愛だと感じているから、それでいいんじゃない」
後日、再び浩輔は妙子を見舞った。
同室のあのときの患者さんがまた同じことを言う。
「あら、息子さん?」
違いますよと言いかけた浩輔に先んじて妙子は言った。
「そうなの。 自慢の息子なの」
「まだ帰らないでね」と言った妙子の手に浩輔はそっと自分の手を添えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人を愛するとはなんだろうか。
愛に定義はないし、第一そんなに構えることじゃないと分かっていても、この映画を観ると、少なくとも斎藤浩輔という主人公がはまり込んだ、愛情を注ぐ行為のカオスについて考えずにはいられない。
この映画は同性愛者だの異性愛者だのでくくった題材ではなく、誰にでも共通する愛の中に潜む利己心を紐解く話でもある。
最初にお互いが好きになった感情というスピリチュアルな領域まではともかくも、関係を築いたその先にある、相手に求める、あるいは与える形にエゴが生まれるのかもしれない。
それは相手のためなのか自分のためなのか。
身勝手であっても、「愛」そのものは否定できない。
ピュアで健気なエゴイズム。 それもまた人の絆を永遠のものにするバイタリティ。
自分は何様のつもりで妙子の息子の代わりになろうとしているのかと、浩輔が愛について見失ったとき、「そうなの。 自慢の息子なの」と妙子が同室の患者に答えたシーンに「エゴイスト」という言葉を輝かせる魔法を我々は目撃する。
特筆すべきは鈴木亮平である。
彼は何なのだ? モンスターか? 演技モンスターか?
憑依型俳優と鈴木亮平は例えられるが、まさに憑依とはこれであるのをまざまざと見せつける鈴木亮平の凄さにはひれ伏すしかない。
一挙手一投足にリアルが宿る表現力。 これまでの鈴木亮平のパフォーマンスの中では一番ではなかろうか。
もちろん、宮沢氷魚や阿川佐和子も素晴らしい。
控えめでありながら自信に満ちた、芯の通ったキャラクターである宮沢氷魚の魅力は何とも不思議だ。
阿川佐和子もサプライズだった。 演技も多少されているが、情報番組やバラエティでの印象が強いだけにあの名演は度肝を抜かれた。
もちろんこの映画の抜きん出たリアリティは監督の演出の賜物でもある。
最初はアッサリした脚本だけを役者に渡し、現場でのリハで台詞を足したり、人物の肉付けをしていくライブ感覚の演出をするのだそうだ。
浩輔が龍太のアパートに招かれるシーンで妙子が「龍太、味噌買ってきて」という台詞は事前に監督が阿川佐和子だけにこっそり指示したもので、突然即興の場に放り込まれた「鈴木亮平・浩輔」の妙子と二人っきりになった気まずさが如実に現れ、揺さぶられる人物の心理が伝わる。
このように、後から追加したというシーンは山のようにあるらしく、それほどにこの映画には繊細な心理の一瞬一瞬がうまくすくい取られている。 そこが見事である。
浩輔が冷蔵庫に入れておいた惣菜のタッパーを出して、一人で黙々と食べるところを背中から撮ったシーンが一番好きだ。 あれはいい。
お金が入った封筒を浩輔が差し出し、妙子が突き返したりするあのテーブル上のやり取りのシーン、浩輔がちあきなおみの「夜へ急ぐ人」を歌うシーン、病院のトイレで眉毛を書くシーンなどなど、ハッとするショットの連発がたまらない。
手持ちのカメラが人物にまとわりつく映像は、観ていて目が回る方がおられるかもしれないが、なんとか我慢していただきたい。
このドキュメンタリータッチのアプローチが肝であると言っても過言ではない。
LGBTQの映画ではあるが、もうそろそろジャンル付けする感覚から脱却する時代になってもいいのではないか。
「LGBTQ」というカテゴリは残ったままになるとしても、ゲイの人が身近に居て、不思議でも何でもなくて、そんな当たり前の人を映画のネタにしてもしょうがないんじゃないの?っていうくらい、映画界もそうなっていかないとな。
「賢人のお言葉」
「愛することは、この世に自分の分身を持つことである」
吉行淳之介
先日も、首相の秘書官がLGBTQに対して「見るのも嫌だ」と言って首が飛んだ。
百歩譲って「嫌だ」と思うのは、それはそれでその人の“指向”であろうし体質であろうし人格であるだろうから、頭の中で思うだけなら好きにすればいい。
オフレコ・オンレコは関係ない。
よく子供が正直すぎるあまりに周りが凍りつくようなことをサラッと言ったりするが、大人の公人ともあろうものが、差別発言だと分かりそうなことを躊躇なく口から発する感覚が恐ろしい。
所詮は何ごとにも興味がないのだろう。
正直、こういう人やその手の発言には飽きた。 無理解な者たちにかまっているヒマはない。
LGBTQの人をもっと学びたい。
どんな性的指向であろうと、誰もが差別されずに普通に暮らせる社会のために、学ぶべきことはまだまだある。
そのために色々な映画を観てきた。
そしてまたひとつ。 人が人を愛するとは何なのかという問いを我々の脳髄に叩き込む傑作が生まれた。
凄い映画なのだ。 まだの方はぜひご覧頂きたい。
「見るのも嫌だ」という者もこの映画を観るべし!
ほとんどゲイの主人公の視点で描かれる本作は、偏見や差別などの問題を取り上げた話ではなく、むしろそういう要素を切り離した個人的世界の描写であり、一切の悪意も入り込む余地のない慈しみに満ちた愛の物語である。
「エゴイスト」という利己的でわがままな者の意を持つマイナスなイメージのタイトルの意味が映画を観たあとに分かる。
そのとき、純愛を極めるがゆえにほとばしる想いの切なさに、言葉では説明できぬ感動を覚えずにはいられない。
原作は「羽生結弦は助走しない」などで知られるエッセイストで、2020年に他界した高山真の自伝的小説。
監督は「トイレのピエタ」の松永大司。
【結末までのあらすじ】です
東京でファッション雑誌の編集者をしている斎藤浩輔(鈴木亮平)、32歳。
ゲイである彼は仕事終わりの夜に、ゲイの友人たちが集まっての酒席を囲んで自分を解放する毎日を送っている。
母は浩輔が14歳の時にガンで亡くなった。 実家には父(柄本明)が一人で暮らしているが、浩輔は母の命日には必ず帰省して仏壇に手を合わせる。
自分が人とは違うことはすでに思春期の頃から自覚しており、巧く隠せなかったことが要因で、周りから「オカマ」とバカにされ、鬱屈した十代を過ごしてきた。
「ババアが一人死んだくらいで大げさなんだよ」と、母の葬儀の香典返しのノートを破って紙飛行機にして遊んでいた“豚野郎”の顔は大人になっても忘れない。
上京して出版社に就職。 ハイグレードマンションに暮らし、ブランド品で身を包むほどの成功を収めた浩輔。
先日実家に寄ったとき、父から「おまえもそろそろいい歳なんだし。 誰かいい人は居ないのか?」と聞かれて、なんとなくはぐらかした。
何もかも手に入れた浩輔に無いものが、“いい人”だった。
いい人が居たとて・・・・・
最近体についてきだした贅肉が気になっていたとき、友人からパーソナルトレーナーを紹介された。
浩輔より8歳年下の中村龍太(宮沢氷魚)は美しい顔の青年だった。 彼もゲイである。
周りから冷やかされても、浩輔は龍太とどうにかなろうという気まではなかった。
元々体が弱くて、自分を鍛えるきっかけからトレーナーをするようになった龍太は、女手ひとつで自分を育ててくれた病気がちの母の妙子(阿川佐和子)の面倒を見ながら一緒に暮らしている。
浩輔はそんな龍太を応援したかった。
ジムから一緒に帰っていたとき、浩輔は高級寿司屋に立ち寄り、寿司の折り詰めを買い「お母さんに」と龍太に持たせてあげた。
歩道橋を上がる際、後ろから駆け上がった龍太が浩輔に口づけした。
「どういう意味? 寿司のお礼?」
「ちがいます。 斎藤さんは魅力的です」
こうして浩輔と龍太は「浩輔さん」、「龍太」と呼び合う恋人同士になった。
これまでの浩輔の人生の中で龍太は、自分が愛する人・自分を愛してくれる人が初めて調和した相手だった。
会うごとに二人は体を重ね合った。
愛する人がいる幸せを浩輔は噛みしめた。
だが、浩輔にとっていつまでも続いてほしい至福の日々は突然終わることになる。
ある日、龍太から「終わりにしたい」と言われた。
動揺する浩輔は何が嫌だったのかを問いただす。
龍太は「売り」をしているのだと告白した。 母を養うために。
浩輔との出会いによって、割り切って仕事が出来なくなったのだと胸の内を明かした。
以来、龍太とは連絡がつかなくなった。
このままでは納得できなかった。
龍太を苦しませたままで身を引くなんてことは有り得ない。
浩輔は毎日、「売り」のサイトをサーチした。
そしてやっと、サイトに載っている多数の男たちの、首から下の体の写真の中から、龍太に違いない体を発見した。
浩輔は客を装い、アポをとって龍太と再会する。
「僕が買ってあげる。専属の客になる。月10万。それでダメなら消える。龍太が決めて」
龍太は泣いていた。
「一緒に頑張ろう」
こうして、二人の新しい関係が始まった。
それまでよりも二人は激しく求め合い愛し合い、そのたびに浩輔は龍太にお金を渡す。
それに甘えてはいられない龍太はバイトをもうひとつ増やし、働きづめの日々を送った。
ハードだったが、「お袋に本当の仕事を言えるのが嬉しい」と龍太は明るく言っていた。
浩輔は龍太が母の妙子と暮らすアパートに招かれた。
妙子には二人の関係を明かすことは出来ないし、どんな感じでいればいいだろうかと浩輔は手探りな気持ちのまま緊張していた。
妙子は何のてらいもない素朴な人で、まるで浩輔を昔から知ってるかのような感覚で温かく接してくれた。
手料理の美味しさに、浩輔は亡き母のことを思い出す。
母の料理が嬉しくて美味しくて感謝したなんてことを実感した記憶はない。 そんな念に至るくらいに自分が成長するまでに母は逝ってしまった。
龍太と妙子。 いつまでも永く幸せであってほしい。 自分と母のようになってほしくない。
自分に何が出来るだろうか。 できる限りのことをしてあげたいと浩輔は決心した。
お金を払いながら逢瀬を重ねていたある日、妙子が倒れ、ヘルニアの手術をすることになる。
手術後の通院もこれから大変だろうと浩輔は軽自動車を購入することにした。
そんなことまでと遠慮する龍太を浩輔は説得する。
「お母さんのために二人でやれるところまでやってみよう」
自分はガンで苦しむ母に何もしてやれなかったという思いもある。
それを思い出したとき、龍太と妙子の親子にお金を渡したり車を買ったりと、果たしてこれは誰のためにやってあげてるのだろうかという小さな小さな疑問が浩輔の脳裏をかすめて通り過ぎていった。
・・・・・龍太とお母さんのために決まってるじゃないか。 浩輔はそんな疑問は忘れることにした。
車が納車された日に龍太とドライブする約束をしていた。 だが龍太は時間になってもやってこなかった。
龍太のケータイにかけてみると妙子が出た。
電話の向こうから聞こえてくる妙子の、か細い声が絞り出す一字一句が浩輔を打ちのめす。
「龍太、亡くなったの。 朝、布団の中で・・・ 龍太、亡くなっちゃいました」
気持ちの整理がなかなかつかなかった。
なぜそんなことになったのか。
龍太に、一緒にお母さんを支えようと言ったことが彼に無用なプレッシャーをかけてしまったのか。
バイトを増やすなどして元々弱い体にムチ打ってしまったことが龍太の死を招いたのか。
そんなつもりではなかったのに。
思えば最近の龍太は浩輔とひとときを過ごしてい時でも、すぐに疲れて眠ってしまうことが何度もあった。
おかしいとは感じていたのだ。 なのになぜそのまま見過ごしてしまったのか。
自分の母親も、龍太も。 なぜ愛する人を守れないのかと浩輔は自分を責め苛んだ。
葬儀の場で取り乱してしまったことを後で妙子に詫びた。
「あなたに謝られると龍太が悲しむ」と妙子は言った。
彼女は浩輔と龍太の関係を知っていた。
浩輔が家に招かれて帰ったあとで、妙子は息子に聞いたのだそうだ。
「あなたの大事な人なんでしょ?」
龍太は何度も謝ったという。
「相手が男だろうと女だろうと、龍太にとって本当に大事な人が出来たのなら良かった」
龍太にそう言ってくれただけで嬉しかった。
龍太は自分との出会いに救われたのだとも言っていたという。
「この世は地獄だけじゃなかった」と。
救われたのは自分も一緒だ。
言わないでと言われたのでこらえたが、浩輔は何度も心の中で「ごめんなさい」と言った。
母の命日ではないが、どうしても実家に帰って母の仏壇に向かいたかった。
何事かと最初は驚いていた父はおもむろに母のことを語り出す。
病気になったとき、別れてくれと言われたという。
「おまえが俺を嫌いになったって言うんならしょうがないが、迷惑をかけたくないってだけなら一緒に頑張るしかないだろ」
人生を犠牲にする夫を拒もうとした母と、人生を捧げてでも妻と歩もうとした父。
犠牲か奉仕か。 人を想うということはなぜこうも危ういものなのだろうか。
龍太は犠牲になったのか。 自分がそうさせたのか。 誰のためにこの母子の人生に奉仕したかったのだろうかと浩輔は自分の胸に問い続けるのだが・・・
その答えが分かるまでは浩輔は龍太が頑張ってきたことをを無にはできなかった。
浩輔が毎回お金を渡していたことを初めて聞いた妙子に対し、浩輔は今まで通り、お金を受け取って欲しいと妙子に懇願する。
受け取るわけにはいかないと妙子が頑なになるのも当然だが、「僕のわがままなんです」と浩輔も引き下がることはできなかった。
浩輔はたびたび妙子の住まいを訪れ、身のまわりの世話をしたり、一緒に食事したり、まるで親子のような時を共に過ごした。
妙子が時折、なぜそこまでという表情を見せるが浩輔は見ない振りをする。
自分でもどこでケリがつくのだろうかと思う。
ともかく自分の気が済まないのだ。 自分の気が。 ・・・自分のことだけか? では妙子の気持ちは?
とにかく浩輔は、今の気持ちに正直になることだけを考えた。
ある日、いつものように妙子のアパートを訪ねると彼女はいなかった。
隣室の住人から妙子が入院したと聞かされた。
なぜ言ってくれなかったのかという思いを抱えながら浩輔は慌てて病院へ向かった。
病室の同部屋の女性患者が「あら、息子さん?」と言う。 「ちがいますよ」
ステージ4の膵臓ガンなのだと妙子は言った。
どうしてこんなことになるのか。
自分の母と同じように、またしてもガンが大切な人を奪う。
自分の母にも何も出来ず、龍太の異変にも気づいてやれず、妙子の病気にも気づけなかった。
「ごめんなさい」
「何も悪いことしてないでしょ。 私もあなたのこと、大好きよ。 愛してくれてありがとう」
愛なのか? 自分がやってきたことは愛なのか? 龍太や妙子との日々は果たしてそうだと言えるのか?
思えば龍太と妙子の母子を自分と母に重ね合わせていた。
龍太への愛は真実だ。
だが、病気の母を支えながら頑張っている龍太に、悔いが残る自分の過去の赦しを求めたのではないかと自己に問うと、それはないとは否定できないのだった。
ガンで苦しむ母に何もしてやれなかった。 「オカマの母親」と陰で言われて悲しい思いをさせたことも自分は何ら償ってはいない。
龍太は自分なのだった。 龍太を愛していてもそれは自分を愛しているにすぎなかったのだろう。
龍太に無理をさせてしまっているのに、自分が頑張ったように自己満足していたのだ。
龍太が亡くなった後に、妙子からすべてを知っていたことを聞かされ、なおさら自分のエゴが止められなかった。
龍太の代わりになろう、なってあげようというおこがましい気持ち。 妙子に自分がついていなければ、ついてあげるんだという押しつけ。
すべて自分が母に出来なかったことのやり直しではないのか? 愛はなかったのか? いや、愛はあったのだ。 龍太は本当に大切な存在だった。
しかし、その愛は誰のためだったのだ?
「僕は、愛がなんなのかよく分からないです」
泣きむせびながら、そう吐露する浩輔に妙子はそっとささやく。
「自分で分からなくても、受け取った私たちが愛だと感じているから、それでいいんじゃない」
後日、再び浩輔は妙子を見舞った。
同室のあのときの患者さんがまた同じことを言う。
「あら、息子さん?」
違いますよと言いかけた浩輔に先んじて妙子は言った。
「そうなの。 自慢の息子なの」
「まだ帰らないでね」と言った妙子の手に浩輔はそっと自分の手を添えた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人を愛するとはなんだろうか。
愛に定義はないし、第一そんなに構えることじゃないと分かっていても、この映画を観ると、少なくとも斎藤浩輔という主人公がはまり込んだ、愛情を注ぐ行為のカオスについて考えずにはいられない。
この映画は同性愛者だの異性愛者だのでくくった題材ではなく、誰にでも共通する愛の中に潜む利己心を紐解く話でもある。
最初にお互いが好きになった感情というスピリチュアルな領域まではともかくも、関係を築いたその先にある、相手に求める、あるいは与える形にエゴが生まれるのかもしれない。
それは相手のためなのか自分のためなのか。
身勝手であっても、「愛」そのものは否定できない。
ピュアで健気なエゴイズム。 それもまた人の絆を永遠のものにするバイタリティ。
自分は何様のつもりで妙子の息子の代わりになろうとしているのかと、浩輔が愛について見失ったとき、「そうなの。 自慢の息子なの」と妙子が同室の患者に答えたシーンに「エゴイスト」という言葉を輝かせる魔法を我々は目撃する。
特筆すべきは鈴木亮平である。
彼は何なのだ? モンスターか? 演技モンスターか?
憑依型俳優と鈴木亮平は例えられるが、まさに憑依とはこれであるのをまざまざと見せつける鈴木亮平の凄さにはひれ伏すしかない。
一挙手一投足にリアルが宿る表現力。 これまでの鈴木亮平のパフォーマンスの中では一番ではなかろうか。
もちろん、宮沢氷魚や阿川佐和子も素晴らしい。
控えめでありながら自信に満ちた、芯の通ったキャラクターである宮沢氷魚の魅力は何とも不思議だ。
阿川佐和子もサプライズだった。 演技も多少されているが、情報番組やバラエティでの印象が強いだけにあの名演は度肝を抜かれた。
もちろんこの映画の抜きん出たリアリティは監督の演出の賜物でもある。
最初はアッサリした脚本だけを役者に渡し、現場でのリハで台詞を足したり、人物の肉付けをしていくライブ感覚の演出をするのだそうだ。
浩輔が龍太のアパートに招かれるシーンで妙子が「龍太、味噌買ってきて」という台詞は事前に監督が阿川佐和子だけにこっそり指示したもので、突然即興の場に放り込まれた「鈴木亮平・浩輔」の妙子と二人っきりになった気まずさが如実に現れ、揺さぶられる人物の心理が伝わる。
このように、後から追加したというシーンは山のようにあるらしく、それほどにこの映画には繊細な心理の一瞬一瞬がうまくすくい取られている。 そこが見事である。
浩輔が冷蔵庫に入れておいた惣菜のタッパーを出して、一人で黙々と食べるところを背中から撮ったシーンが一番好きだ。 あれはいい。
お金が入った封筒を浩輔が差し出し、妙子が突き返したりするあのテーブル上のやり取りのシーン、浩輔がちあきなおみの「夜へ急ぐ人」を歌うシーン、病院のトイレで眉毛を書くシーンなどなど、ハッとするショットの連発がたまらない。
手持ちのカメラが人物にまとわりつく映像は、観ていて目が回る方がおられるかもしれないが、なんとか我慢していただきたい。
このドキュメンタリータッチのアプローチが肝であると言っても過言ではない。
LGBTQの映画ではあるが、もうそろそろジャンル付けする感覚から脱却する時代になってもいいのではないか。
「LGBTQ」というカテゴリは残ったままになるとしても、ゲイの人が身近に居て、不思議でも何でもなくて、そんな当たり前の人を映画のネタにしてもしょうがないんじゃないの?っていうくらい、映画界もそうなっていかないとな。
「賢人のお言葉」
「愛することは、この世に自分の分身を持つことである」
吉行淳之介