2017-08-15(Tue)
革命
敗戦記念日である。
72年前の今日、「負けて悔しい」と涙した人、「やっと終わった」と歓喜した人、それぞれどのくらいの割合だったのか、知る術はない。
どちらも相当数がいただろうけれども、自分の頭で判断することを禁じられていたことを思えば、ただただ茫然自失していた人が一番多かったのかもしれない。
いずれにしても、はっきりしているのは、この日が「解放記念日」にはならなかったという歴史的な事実だ。
戦争を遂行した勢力の総入れ替えを、自力ですることができなかった。
天命を革めることが できなかった。
天皇も、731部隊も、米軍支配に都合の良いものは戦争責任を免れ、大日本帝国の支配層はほとんどそのまま支配層として残された。
そのころはロシア革命から28年、中国革命まで3年という時代だから、今に比べれば共産主義革命のリアリティは誰もが感じていた。しかし、何とか主義以前に、戦争遂行した勢力を一掃するということすら、できなかった。
そして、その限りでの「平和と民主主義」を謳歌し、日本は変わったと思い込んだ。
足下に、沖縄を踏みつけながら。
この欺瞞にみちた戦後民主主義が、私は嫌いだ。
■
革命という言葉は、天命を革(あらた)める、すなわち 天命によって支配する者が変わることを意味する。
必ずしも、支配されてきた側が、支配してきた側にとってかわることではなく、支配される側には関係なく、支配層だけが入れ替わる樋こともある。
レボリューション Revolution は、コペルニクス的転換のように、物事の本質がグルッと回転して新しいものに変わることであり、上層部が入れ替わる革命とは、かなり意味が違うようだ。 訳語としては不適切なのではないかという気もする。
ただ、革命という言葉も、もともとの易姓革命のような意味ではなく、本質的に異質で新しいものに転換するという意味に、現代では使われているので、ここではそういう意味に理解しておく。
支配され、酷い目にあってきた側が、支配してきた側を逆転すること。
それが、あたかも天命が革まるがごとく、機が熟してことがなされることが革命だとするならば、72年前に必要だったのは、日本革命だった。
その結果、どの勢力が主導権をとり、どんな政治を行ったかはわからない。
どの勢力がやろうとも、結果はあまり芳しいものにはならなかっただろう。それどころか、ソ連が指導する共産党が勝っていれば、かなり面倒なことになっただろう。
それでも、自らの力で革命を成し遂げ、そして挫折するという経験をワンセット、日本人は経ることができたはずだ。
振り返ると、私は政治に関心があると言うよりも、革命に関心があるのだと気が付いた。
日本というひとつの支配体制の中で、何百年も支配され続けているこの国の民が、自らの力で逆転劇を起こすことができるのか。
社会や政治を見るときに、私の最大の関心事は、常にそこにある。
私が小沢一郎という政治家に注目するのも、それ故である。
彼は、もっとも犠牲を少なく革命を成し遂げるにはどうしたらいいか、を考え抜き、二大政党による政権交代可能な政治を目指している。二大政党制の是非はともかく、革命を前提とした国家観をもつ政治家は、日本には小沢一郎しかいない、と私は思っている。
とは言え、現在の日本で二大政党制は、私は間違いだと考えている。
政党というのは、ある勢力の利害代表であり、労働者と資本家みたいな単純に分化した社会だったら二大政党でいいかもしれないが、今の日本はそんなに単純にぱかっと分かれていない。
戦前のいわゆる労農派の理論家である山川均の言葉を、松尾匡さんが「新しい左翼入門」のなかで引用しているので、孫引きさせていただく。
意見の相違が流派として現れることを認めないならば、政党は必ず分裂する。政策や意見の相違のために、たちまち除名騒ぎが起こるような官僚主義は一掃すべきだ。我々は、異なった意見や政策が内部で争っていながら、なおかつ結束を保っていけるような団体的な訓練を積まなければならない。(引用以上)
あれ、こんな政党ってあったなよなあ、と思われる方もいるだろう。
そう、かつての自民党は派閥というかたちで、かなり多様な意見を党内に抱え込んでいた。金のつながりであると同時に、意見や政策の多様性も担保していた面があった。
しかし、今や自民党も首相官邸独裁の党に変貌し、民進党も小沢一郎を座敷牢に閉じ込めた挙げ句に放逐したことをまったく反省していない以上、単純に二大政党制にしてしまえば、二つの意見しか存在できないことになってしまう。
こんな不自由な政治は、より一層投票率が下がり、機能しなくなってしまうだろう。
ただし、この現実を逆に考えれば、党内に公然と意見の違う派閥が存在するような、バクっとした政党ならば、二大政党でもいいということになる。米国の民主党も共和党も、もちろん投票を党議拘束などされないし、反対意見を述べても除名されない。
せめて、その程度の政党が作れるならば、二大政党制の可能性を全否定するものではない。
■
小沢氏の描く二大政党制による穏やかな革命には、もうひとつ疑問がつきまとう。
代議制で本当に革命になり得るのか ということだ。
それなりの人脈と経験と資金をもった人が候補者になり、その他のほとんどの人は投票するだけ、という代議制で政権交代したところで、「自らの力で天命を革めた」という経験になるのか。そのような実感を持つことができるのか。
現に、2009年の政権交代でも、そこまでの感慨を味わった人はごく少数のはずだ。
ほとんどの人は、自民党が下野したことには驚いただろうし、子ども手当や高速道路の無料化など実現すればウレシイナとは思っただろうが、それ以上でも以下でもない。
私自身、選挙結果にはかなり興奮したけれども、革命だとは思わなかった。
アメリカだって、数年おきに民主党と共和党が入れ替わっているが、それで劇的に何かが変わっているわけではない。
まして、植民地支配を戦後民主主義というオブラートで包んだぬるま湯に漬けられてきたこの日本で、代議制がひとり一人の意思表示として機能するのだろうか。
小選挙区といえども人口40万人に代議士が一人。自分たちの代表と言うには漠然としすぎている。
かといって、市議会なみに1万人くらいの母体になると、地域ボスや暇人の世話焼きがすべてを牛耳ることになる。暇人はヒマでも生きていける金持ちがおおくなり、結果として自民党と公明党がより強くなる。
完全比例にすれば、少数意見はある程度反映される一方で、支配体制は盤石である。
どのように選挙制度をいじろうとも、多少の変化はあったとしても、それ自体が革命になるようなことは起きないように思われる。
■
やはり日本で革命は不可能なのだろうか。
何が欠けているのだろうか。
私は、足りないのは圧倒的多数を占める「普通の人」の党だろうと思う。
江戸時代には5割の年貢米をとられた農民。楽ではないけれど、運悪く飢饉にならなければ、生きていくにはさほど困らず、寺子屋に子どもを通わすくらいのことはできた人たち。
四民平等と言われてからも、選挙権を与えられなかった農民と労働者。
明治から昭和の戦争に次々と動員された人たち。
戦後の高度成長でサラリーマンという名の賃金労働者になっていった人たち。
そして今、食うには困らないけれども、ジワジワと生活が圧迫されている中間層。
実は大金持ちに圧倒的に搾取されながら、とりあえずそれなりの生活ができているこれらの人たちを代表する党が、日本にはない。
55年体制のなかで、自民党が金持ちに寄りかかりすぎ、社会党が総評に頼りすぎた結果、金持ちでも労組の活動家でもない、圧倒的多数の人たちの利害を代表する党は、日本には作られなかった。
2009年の民主党がそこを指向していたのは間違いないが、そういう党として確立する前に、内実が崩壊した。崩壊した残り滓のような党は存在しているが、彼らは「大金持ちに逆らわずにおこぼれを頂戴する」中間層の代表であり、大金持ちに楯突くそぶりを見せれば組織を上げて潰しに来るということは、小沢弾圧で実証されている。
今必要なのは、ジワジワ没落していく中間層の党を作り、大きく旗を立て、大金持ちの一人勝ちを許さず中間層に富を分配する政策を打ち出し、それを目指すための組織をひとり一人増やしていくことなのではないか。
その組織は、いずれ選挙のために二大政党に吸収されたとしても、そのなかで強固な派閥として影響力を行使することになる。
■
革命 なんていう標題をつけたわりに、地味な結論になってしまったが、シンプルに考えたら、やはりこのような結論になる。
資本主義が良いのか悪いのか、それに替わるものがあるのかないのか。私にはわからない。
ただ少なくとも、とりあえず資本主義のシステムの枠の中でも、まだまだやれること、やらなければならないことは山ほどある。
世界的に見ても異常な金持ち優遇と、植民地的な経済外の強制力をそのままにして、資本主義はもうダメだとか言ってしまうことは、むしろ現在の支配層を喜ばすことになる。
まずは日本の歪みを正し、皆が安心して食っていける経済や財政の政策を、夢物語ではない数字の裏付けのあるストーリーを描き、実現することだ。
資本主義の余命については、その後に考えるべきことだろうと思う。
だから当面目指すべきは○○主義革命ではなく、何百年も労働力として社会を支えながら、政治的にはついに主役になったことのない多数派が、まずは自分たちの選択を自分たちの力で成し遂げる、という経験をすることだ。
それでもきっとまた失敗するだろう。
官僚と大資本と米国の壮絶な妨害もあるだろう。
革命をなしとげて挫折するという経験を何セットも繰り返すことで、多くの国は歴史を進めてきた。
日本も、自分の足でその歴史を刻まなければ、圧倒的多数の国民がぬるま湯の中で溺れ死ぬ日は遠くない。
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72年前の今日、「負けて悔しい」と涙した人、「やっと終わった」と歓喜した人、それぞれどのくらいの割合だったのか、知る術はない。
どちらも相当数がいただろうけれども、自分の頭で判断することを禁じられていたことを思えば、ただただ茫然自失していた人が一番多かったのかもしれない。
いずれにしても、はっきりしているのは、この日が「解放記念日」にはならなかったという歴史的な事実だ。
戦争を遂行した勢力の総入れ替えを、自力ですることができなかった。
天命を革めることが できなかった。
天皇も、731部隊も、米軍支配に都合の良いものは戦争責任を免れ、大日本帝国の支配層はほとんどそのまま支配層として残された。
そのころはロシア革命から28年、中国革命まで3年という時代だから、今に比べれば共産主義革命のリアリティは誰もが感じていた。しかし、何とか主義以前に、戦争遂行した勢力を一掃するということすら、できなかった。
そして、その限りでの「平和と民主主義」を謳歌し、日本は変わったと思い込んだ。
足下に、沖縄を踏みつけながら。
この欺瞞にみちた戦後民主主義が、私は嫌いだ。
■
革命という言葉は、天命を革(あらた)める、すなわち 天命によって支配する者が変わることを意味する。
必ずしも、支配されてきた側が、支配してきた側にとってかわることではなく、支配される側には関係なく、支配層だけが入れ替わる樋こともある。
レボリューション Revolution は、コペルニクス的転換のように、物事の本質がグルッと回転して新しいものに変わることであり、上層部が入れ替わる革命とは、かなり意味が違うようだ。 訳語としては不適切なのではないかという気もする。
ただ、革命という言葉も、もともとの易姓革命のような意味ではなく、本質的に異質で新しいものに転換するという意味に、現代では使われているので、ここではそういう意味に理解しておく。
支配され、酷い目にあってきた側が、支配してきた側を逆転すること。
それが、あたかも天命が革まるがごとく、機が熟してことがなされることが革命だとするならば、72年前に必要だったのは、日本革命だった。
その結果、どの勢力が主導権をとり、どんな政治を行ったかはわからない。
どの勢力がやろうとも、結果はあまり芳しいものにはならなかっただろう。それどころか、ソ連が指導する共産党が勝っていれば、かなり面倒なことになっただろう。
それでも、自らの力で革命を成し遂げ、そして挫折するという経験をワンセット、日本人は経ることができたはずだ。
振り返ると、私は政治に関心があると言うよりも、革命に関心があるのだと気が付いた。
日本というひとつの支配体制の中で、何百年も支配され続けているこの国の民が、自らの力で逆転劇を起こすことができるのか。
社会や政治を見るときに、私の最大の関心事は、常にそこにある。
私が小沢一郎という政治家に注目するのも、それ故である。
彼は、もっとも犠牲を少なく革命を成し遂げるにはどうしたらいいか、を考え抜き、二大政党による政権交代可能な政治を目指している。二大政党制の是非はともかく、革命を前提とした国家観をもつ政治家は、日本には小沢一郎しかいない、と私は思っている。
とは言え、現在の日本で二大政党制は、私は間違いだと考えている。
政党というのは、ある勢力の利害代表であり、労働者と資本家みたいな単純に分化した社会だったら二大政党でいいかもしれないが、今の日本はそんなに単純にぱかっと分かれていない。
戦前のいわゆる労農派の理論家である山川均の言葉を、松尾匡さんが「新しい左翼入門」のなかで引用しているので、孫引きさせていただく。
意見の相違が流派として現れることを認めないならば、政党は必ず分裂する。政策や意見の相違のために、たちまち除名騒ぎが起こるような官僚主義は一掃すべきだ。我々は、異なった意見や政策が内部で争っていながら、なおかつ結束を保っていけるような団体的な訓練を積まなければならない。(引用以上)
あれ、こんな政党ってあったなよなあ、と思われる方もいるだろう。
そう、かつての自民党は派閥というかたちで、かなり多様な意見を党内に抱え込んでいた。金のつながりであると同時に、意見や政策の多様性も担保していた面があった。
しかし、今や自民党も首相官邸独裁の党に変貌し、民進党も小沢一郎を座敷牢に閉じ込めた挙げ句に放逐したことをまったく反省していない以上、単純に二大政党制にしてしまえば、二つの意見しか存在できないことになってしまう。
こんな不自由な政治は、より一層投票率が下がり、機能しなくなってしまうだろう。
ただし、この現実を逆に考えれば、党内に公然と意見の違う派閥が存在するような、バクっとした政党ならば、二大政党でもいいということになる。米国の民主党も共和党も、もちろん投票を党議拘束などされないし、反対意見を述べても除名されない。
せめて、その程度の政党が作れるならば、二大政党制の可能性を全否定するものではない。
■
小沢氏の描く二大政党制による穏やかな革命には、もうひとつ疑問がつきまとう。
代議制で本当に革命になり得るのか ということだ。
それなりの人脈と経験と資金をもった人が候補者になり、その他のほとんどの人は投票するだけ、という代議制で政権交代したところで、「自らの力で天命を革めた」という経験になるのか。そのような実感を持つことができるのか。
現に、2009年の政権交代でも、そこまでの感慨を味わった人はごく少数のはずだ。
ほとんどの人は、自民党が下野したことには驚いただろうし、子ども手当や高速道路の無料化など実現すればウレシイナとは思っただろうが、それ以上でも以下でもない。
私自身、選挙結果にはかなり興奮したけれども、革命だとは思わなかった。
アメリカだって、数年おきに民主党と共和党が入れ替わっているが、それで劇的に何かが変わっているわけではない。
まして、植民地支配を戦後民主主義というオブラートで包んだぬるま湯に漬けられてきたこの日本で、代議制がひとり一人の意思表示として機能するのだろうか。
小選挙区といえども人口40万人に代議士が一人。自分たちの代表と言うには漠然としすぎている。
かといって、市議会なみに1万人くらいの母体になると、地域ボスや暇人の世話焼きがすべてを牛耳ることになる。暇人はヒマでも生きていける金持ちがおおくなり、結果として自民党と公明党がより強くなる。
完全比例にすれば、少数意見はある程度反映される一方で、支配体制は盤石である。
どのように選挙制度をいじろうとも、多少の変化はあったとしても、それ自体が革命になるようなことは起きないように思われる。
■
やはり日本で革命は不可能なのだろうか。
何が欠けているのだろうか。
私は、足りないのは圧倒的多数を占める「普通の人」の党だろうと思う。
江戸時代には5割の年貢米をとられた農民。楽ではないけれど、運悪く飢饉にならなければ、生きていくにはさほど困らず、寺子屋に子どもを通わすくらいのことはできた人たち。
四民平等と言われてからも、選挙権を与えられなかった農民と労働者。
明治から昭和の戦争に次々と動員された人たち。
戦後の高度成長でサラリーマンという名の賃金労働者になっていった人たち。
そして今、食うには困らないけれども、ジワジワと生活が圧迫されている中間層。
実は大金持ちに圧倒的に搾取されながら、とりあえずそれなりの生活ができているこれらの人たちを代表する党が、日本にはない。
55年体制のなかで、自民党が金持ちに寄りかかりすぎ、社会党が総評に頼りすぎた結果、金持ちでも労組の活動家でもない、圧倒的多数の人たちの利害を代表する党は、日本には作られなかった。
2009年の民主党がそこを指向していたのは間違いないが、そういう党として確立する前に、内実が崩壊した。崩壊した残り滓のような党は存在しているが、彼らは「大金持ちに逆らわずにおこぼれを頂戴する」中間層の代表であり、大金持ちに楯突くそぶりを見せれば組織を上げて潰しに来るということは、小沢弾圧で実証されている。
今必要なのは、ジワジワ没落していく中間層の党を作り、大きく旗を立て、大金持ちの一人勝ちを許さず中間層に富を分配する政策を打ち出し、それを目指すための組織をひとり一人増やしていくことなのではないか。
その組織は、いずれ選挙のために二大政党に吸収されたとしても、そのなかで強固な派閥として影響力を行使することになる。
■
革命 なんていう標題をつけたわりに、地味な結論になってしまったが、シンプルに考えたら、やはりこのような結論になる。
資本主義が良いのか悪いのか、それに替わるものがあるのかないのか。私にはわからない。
ただ少なくとも、とりあえず資本主義のシステムの枠の中でも、まだまだやれること、やらなければならないことは山ほどある。
世界的に見ても異常な金持ち優遇と、植民地的な経済外の強制力をそのままにして、資本主義はもうダメだとか言ってしまうことは、むしろ現在の支配層を喜ばすことになる。
まずは日本の歪みを正し、皆が安心して食っていける経済や財政の政策を、夢物語ではない数字の裏付けのあるストーリーを描き、実現することだ。
資本主義の余命については、その後に考えるべきことだろうと思う。
だから当面目指すべきは○○主義革命ではなく、何百年も労働力として社会を支えながら、政治的にはついに主役になったことのない多数派が、まずは自分たちの選択を自分たちの力で成し遂げる、という経験をすることだ。
それでもきっとまた失敗するだろう。
官僚と大資本と米国の壮絶な妨害もあるだろう。
革命をなしとげて挫折するという経験を何セットも繰り返すことで、多くの国は歴史を進めてきた。
日本も、自分の足でその歴史を刻まなければ、圧倒的多数の国民がぬるま湯の中で溺れ死ぬ日は遠くない。
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