2017-08-09(Wed)
独白
2005年9月にこのブログを始めてから 実に12年の年月が流れた。
もともと、黙っていると精神衛生上たいへんよろしくない、と自分の心の健康のために書き始めたブログだった。
2006年には耐震偽装事件があり、安倍晋三の私的後援会である安晋会が深く関わっている疑惑についてかなり色々書いて、アクセス数もどーんと増えた。
2007年には自民党が大敗する参院選があり、その直前には中越沖地震で柏崎刈羽原発が危機一髪になるということもあった。
そして、安倍晋三の突然の政権放棄。このあたりから、選挙についても関心が向かい出した。
2008年は橋下徹が政界に登場し、大阪が橋下色に染まっていった。彼の言動には、お坊ちゃま議員にはないファシストとしての資質を感じ、大いに危機感を募らせた。
そしてこの年の後半にリーマンショック。時代が大きく変わっていくのを実感した。
2009年冒頭に報じられた西松建設の裏金事件。ああ、これは平成のロッキード事件になると直感した。
案の定、対米自立と政権交代を目指す小沢一郎が狙い撃ちにされ、メディアの大バッシングが始まっていく。
小沢に関しては西松事件はそもそも存在しなかったこと、その後に騒がれた陸山会事件は不動産取引の日付がズレていただけだったこと、が証明されてもなお、メディアはもちろん、同じく政権交代を目指していたはずの革新野党も、さらには民主党内までもが小沢バッシングに猛り立った。
この小沢バッシングこそが、私がリアルに政治に関わろうと思ったキッカケだ。
バッシングの凄まじさが、そのまま政権交代のリアリティであり、小沢一郎の本気度として私の目には映ったからだ。
これほどの、ありとあらゆる勢力からの大弾圧がなく、粛々と政権交代がなされていれば、私もこれまでどおりに政治を論じるだけに留まっていたと思う。
9月の政権交代と、その後の官僚のサボタージュ。鳩山内閣の無策。政治主導が見る間に官僚に食い荒らされていく様。
刻々と進んでいく事態を、つぶさに観察していた。
2010年5月にはついに鳩山が白旗を揚げ、官僚主導の復権、パペット菅直人の消費増税と参院選大敗。
でも、このころはまだ、再政権交代が可能だと思っていたし、今ほど悲壮感は持っていなかった。
■
12年間ブログを書いてきたなかで、本当の衝撃ははやり 2011年の3.11だ。
津波と地震ももちろんだが、原発が3基も爆発したというあの衝撃は、それまでの私のスタンスをガタガタに揺さぶることになった。
自分の心の健康のために書いていたブログを、人のために役に立てることはできないか と考えてしまった。
あのとき以来、気軽に書く ということができなくなった。記事を更新する数も激減した。
単純に書きたいことを書くのではなく、今必要なこと、他の人が散々書いている以外のこと、ちゃんと資料もあたって、と考え始めると、キーボードに乗せた指が固まってしまった。
その代わり、書き始めると何時間もかけて書くものだから、なおさらのこと更新は減っていった。
脱原発のデモに出かけたり、集会を企画する側に入ったり、小沢グループの集まりに顔を出したり、リアルで動く機会は増えたけれども、書くという作業は苦しくなった。
2012年には 小沢グループの離党、未来の党としての総選挙での大敗北。
このとき、始めて選挙に足をツッコんだ。ウチの会社の近くにあった渡辺義彦さんの事務所に毎日通って、あれこれと手伝いをやった。街宣車の運転手で朝から晩までノロノロ運転というのも体験した。
また、政治市民プロジェクトと銘打って、脱原発などの市民運動に関わる人たちに、選挙に参加する手伝いもやった。
2013年は大敗北の痛手に、私の周囲はうめき続けていた。
夏には参院選があったけれども、ほぼ身動きがとれず、「国民の生活が第一」は一議席もとれなかった。
そんな状況下で、私は一つのミッションを考えていた。
保守と革新、選挙活動と市民運動、それらを近づけたい。
保守は選挙に強いけれども、現役の議員がいないと誰も動かない。
革新の市民運動はパワフルだけれども、選挙の結果に執着しない。
この二つを融合できれば、焼け野原から立ち上がれるきっかけが作れるかもしれない。そう思った。
詳細は省くけれども、2013年から2016年夏くらいまでの私の活動は、そのミッションに沿って動いてきたつもりだ。
その中でも大きかったのは、関西の小沢グループを糾合した生活フォーラム関西の結成に関わったことだろう。
バラバラだった小沢グループの支持者のよりどころができたことと、市民運動の側から小沢グループに対して声をかけてもらうことができるようになった。
そして2016年の参院選では、全国的な野党共闘の動きに応じて大阪でも保革連携はかなり実現し、私のミッションはもう終了かな と感じた。
次のステップとして考えたのが、山本太郎さんを顔にして 改憲の国民投票に備える運動を作るべきじゃないか ということだった。
両院で2/3とられた以上は、改憲の発議は時間の問題。今から準備しなければ。野党共闘であるていど信頼関係を築いた保革の人たちが、共通して顔になれるのは太郎さんをおいていない。関西でのテストケースを進めてみよう。
そんな思いで、参院選終了直後から憲法フェスを準備したのだが・・・・
フェスのメインキャストになった三宅洋平氏と安倍昭恵の関係で、当初の私の目論見はぶっ飛んでしまった。
あれ以来、私は自分のミッションが見えない。
何をやるべきなのか、自分でできることはなんなのか、
方向性が見えず、ウロウロしている。
■
自由党で頑張ればいいじゃないか と思う人もいるかもしれない。
たしかに、それなりに自由党のお手伝いはしている。
しかし、はっきり言わせてもらえば、やる気の無い政党の手伝いは、激しく精神が消耗する。
党に所属している政治家個々人は錚々たる顔ぶれだ。にもかかわらず、党組織を作ったり、党の支持率を上げることについて、まったくやる気が感じられない。
たった6人の議員とはいえ、小沢一郎と山本太郎という両代表の知名度だけでも、他の党を圧倒するものがあるのに、自由党の政党支持率は限りなくゼロに近い。たぶん、支持率以前に党名の知名度がゼロに近いのだろう。
なぜこんなことになるのか。
簡単だ。
日常活動をしていないからだ。
日常どころか、選挙のときですら、党としてはほとんど何もしていないからだ。
政党の活動については、政党助成金というカネが税金から出ている。議員ひとりあたり約4000万円くらいだ。
いくら小さな自由党でも2億や3億の政党助成金は出ている。
ならば、その1割でも使って全国の日常活動を支えれば、各県に小さな事務所の一つも構え、毎日ボランディアが街宣車を回し、重要選挙区で全戸ポスティングをすることくらいはできるはずだ。
もちろん支援者のカンパは集めなければならない。
しかし、街宣車の用意からガソリン代まで、チラシの印刷から、選挙事務所の家賃まで、一円の支えもなくカンパでやれと言われたら、それは「やる気が無い」としか私には理解できない。
■
受け皿があれば政権交代はできる。小沢氏はそう言いつづけているし、都議選の結果はそれを裏付けているだろう。
しかし、現実は「受け皿は無い」のである。
「無い」ものをいつまでもクチをあけて待っていても、無いものは無い。
最近わたしは、野党共闘 という言葉を聞くと、ウツになる。
私もウツになるような野党共闘を、有権者におしつけて、本当に選択されるのか?
こんな候補嫌だなあ、と思いながら、でも自公よりはマシだから鼻をつまんで投票しよう というのが、今目の前にある野党共闘だ。
運が良ければ、投票したい候補がいる選挙区もあるだろうが、ほとんどはこういうことになる。
たしかに、理性で考えれば、それでも野党候補を一本化し、我慢してそれに投票するほうが、自公政権が続くよりはずっとマシだ。
それは十分に理解しているけれども、しかし、その気持ち悪い選択肢を選ばされるという現実こそが、投票率が激オチしている原因なんではないか。
こんな選択肢は 受け皿とは言わない。
むしろ、選ばされる有権者のほうが、候補者を受け入れてやる受け皿だ。
有権者に受け皿を強制する選挙で、本当に勝てるのか?
■
このブログは、私の勝手な心の落書きだ。
なんの責任もないし、誰を動かすわけでもない。
自由党に文句を言ったり、野党共闘に反対したりするのは自粛してきたけれども、考えてみたら私ごときが自粛する意味なんてない。思ったことは書く。役に立とうが立つまいが、それはどうでもいい。
そうは言いながらも、これからも必要に応じて手伝いはしていくだろうけれども、自分の心を無くしてまでやることはない。
自分が面白そうだ、やりたい と思えばやるし、思わなければやらない。
だいたい、思い起こせば我が50数年の人生で、理が勝って判断したことで成功したためしなんてないじゃないか。
理性なんてクソ食らえ だ。
リセットしよう。
もともと、黙っていると精神衛生上たいへんよろしくない、と自分の心の健康のために書き始めたブログだった。
2006年には耐震偽装事件があり、安倍晋三の私的後援会である安晋会が深く関わっている疑惑についてかなり色々書いて、アクセス数もどーんと増えた。
2007年には自民党が大敗する参院選があり、その直前には中越沖地震で柏崎刈羽原発が危機一髪になるということもあった。
そして、安倍晋三の突然の政権放棄。このあたりから、選挙についても関心が向かい出した。
2008年は橋下徹が政界に登場し、大阪が橋下色に染まっていった。彼の言動には、お坊ちゃま議員にはないファシストとしての資質を感じ、大いに危機感を募らせた。
そしてこの年の後半にリーマンショック。時代が大きく変わっていくのを実感した。
2009年冒頭に報じられた西松建設の裏金事件。ああ、これは平成のロッキード事件になると直感した。
案の定、対米自立と政権交代を目指す小沢一郎が狙い撃ちにされ、メディアの大バッシングが始まっていく。
小沢に関しては西松事件はそもそも存在しなかったこと、その後に騒がれた陸山会事件は不動産取引の日付がズレていただけだったこと、が証明されてもなお、メディアはもちろん、同じく政権交代を目指していたはずの革新野党も、さらには民主党内までもが小沢バッシングに猛り立った。
この小沢バッシングこそが、私がリアルに政治に関わろうと思ったキッカケだ。
バッシングの凄まじさが、そのまま政権交代のリアリティであり、小沢一郎の本気度として私の目には映ったからだ。
これほどの、ありとあらゆる勢力からの大弾圧がなく、粛々と政権交代がなされていれば、私もこれまでどおりに政治を論じるだけに留まっていたと思う。
9月の政権交代と、その後の官僚のサボタージュ。鳩山内閣の無策。政治主導が見る間に官僚に食い荒らされていく様。
刻々と進んでいく事態を、つぶさに観察していた。
2010年5月にはついに鳩山が白旗を揚げ、官僚主導の復権、パペット菅直人の消費増税と参院選大敗。
でも、このころはまだ、再政権交代が可能だと思っていたし、今ほど悲壮感は持っていなかった。
■
12年間ブログを書いてきたなかで、本当の衝撃ははやり 2011年の3.11だ。
津波と地震ももちろんだが、原発が3基も爆発したというあの衝撃は、それまでの私のスタンスをガタガタに揺さぶることになった。
自分の心の健康のために書いていたブログを、人のために役に立てることはできないか と考えてしまった。
あのとき以来、気軽に書く ということができなくなった。記事を更新する数も激減した。
単純に書きたいことを書くのではなく、今必要なこと、他の人が散々書いている以外のこと、ちゃんと資料もあたって、と考え始めると、キーボードに乗せた指が固まってしまった。
その代わり、書き始めると何時間もかけて書くものだから、なおさらのこと更新は減っていった。
脱原発のデモに出かけたり、集会を企画する側に入ったり、小沢グループの集まりに顔を出したり、リアルで動く機会は増えたけれども、書くという作業は苦しくなった。
2012年には 小沢グループの離党、未来の党としての総選挙での大敗北。
このとき、始めて選挙に足をツッコんだ。ウチの会社の近くにあった渡辺義彦さんの事務所に毎日通って、あれこれと手伝いをやった。街宣車の運転手で朝から晩までノロノロ運転というのも体験した。
また、政治市民プロジェクトと銘打って、脱原発などの市民運動に関わる人たちに、選挙に参加する手伝いもやった。
2013年は大敗北の痛手に、私の周囲はうめき続けていた。
夏には参院選があったけれども、ほぼ身動きがとれず、「国民の生活が第一」は一議席もとれなかった。
そんな状況下で、私は一つのミッションを考えていた。
保守と革新、選挙活動と市民運動、それらを近づけたい。
保守は選挙に強いけれども、現役の議員がいないと誰も動かない。
革新の市民運動はパワフルだけれども、選挙の結果に執着しない。
この二つを融合できれば、焼け野原から立ち上がれるきっかけが作れるかもしれない。そう思った。
詳細は省くけれども、2013年から2016年夏くらいまでの私の活動は、そのミッションに沿って動いてきたつもりだ。
その中でも大きかったのは、関西の小沢グループを糾合した生活フォーラム関西の結成に関わったことだろう。
バラバラだった小沢グループの支持者のよりどころができたことと、市民運動の側から小沢グループに対して声をかけてもらうことができるようになった。
そして2016年の参院選では、全国的な野党共闘の動きに応じて大阪でも保革連携はかなり実現し、私のミッションはもう終了かな と感じた。
次のステップとして考えたのが、山本太郎さんを顔にして 改憲の国民投票に備える運動を作るべきじゃないか ということだった。
両院で2/3とられた以上は、改憲の発議は時間の問題。今から準備しなければ。野党共闘であるていど信頼関係を築いた保革の人たちが、共通して顔になれるのは太郎さんをおいていない。関西でのテストケースを進めてみよう。
そんな思いで、参院選終了直後から憲法フェスを準備したのだが・・・・
フェスのメインキャストになった三宅洋平氏と安倍昭恵の関係で、当初の私の目論見はぶっ飛んでしまった。
あれ以来、私は自分のミッションが見えない。
何をやるべきなのか、自分でできることはなんなのか、
方向性が見えず、ウロウロしている。
■
自由党で頑張ればいいじゃないか と思う人もいるかもしれない。
たしかに、それなりに自由党のお手伝いはしている。
しかし、はっきり言わせてもらえば、やる気の無い政党の手伝いは、激しく精神が消耗する。
党に所属している政治家個々人は錚々たる顔ぶれだ。にもかかわらず、党組織を作ったり、党の支持率を上げることについて、まったくやる気が感じられない。
たった6人の議員とはいえ、小沢一郎と山本太郎という両代表の知名度だけでも、他の党を圧倒するものがあるのに、自由党の政党支持率は限りなくゼロに近い。たぶん、支持率以前に党名の知名度がゼロに近いのだろう。
なぜこんなことになるのか。
簡単だ。
日常活動をしていないからだ。
日常どころか、選挙のときですら、党としてはほとんど何もしていないからだ。
政党の活動については、政党助成金というカネが税金から出ている。議員ひとりあたり約4000万円くらいだ。
いくら小さな自由党でも2億や3億の政党助成金は出ている。
ならば、その1割でも使って全国の日常活動を支えれば、各県に小さな事務所の一つも構え、毎日ボランディアが街宣車を回し、重要選挙区で全戸ポスティングをすることくらいはできるはずだ。
もちろん支援者のカンパは集めなければならない。
しかし、街宣車の用意からガソリン代まで、チラシの印刷から、選挙事務所の家賃まで、一円の支えもなくカンパでやれと言われたら、それは「やる気が無い」としか私には理解できない。
■
受け皿があれば政権交代はできる。小沢氏はそう言いつづけているし、都議選の結果はそれを裏付けているだろう。
しかし、現実は「受け皿は無い」のである。
「無い」ものをいつまでもクチをあけて待っていても、無いものは無い。
最近わたしは、野党共闘 という言葉を聞くと、ウツになる。
私もウツになるような野党共闘を、有権者におしつけて、本当に選択されるのか?
こんな候補嫌だなあ、と思いながら、でも自公よりはマシだから鼻をつまんで投票しよう というのが、今目の前にある野党共闘だ。
運が良ければ、投票したい候補がいる選挙区もあるだろうが、ほとんどはこういうことになる。
たしかに、理性で考えれば、それでも野党候補を一本化し、我慢してそれに投票するほうが、自公政権が続くよりはずっとマシだ。
それは十分に理解しているけれども、しかし、その気持ち悪い選択肢を選ばされるという現実こそが、投票率が激オチしている原因なんではないか。
こんな選択肢は 受け皿とは言わない。
むしろ、選ばされる有権者のほうが、候補者を受け入れてやる受け皿だ。
有権者に受け皿を強制する選挙で、本当に勝てるのか?
■
このブログは、私の勝手な心の落書きだ。
なんの責任もないし、誰を動かすわけでもない。
自由党に文句を言ったり、野党共闘に反対したりするのは自粛してきたけれども、考えてみたら私ごときが自粛する意味なんてない。思ったことは書く。役に立とうが立つまいが、それはどうでもいい。
そうは言いながらも、これからも必要に応じて手伝いはしていくだろうけれども、自分の心を無くしてまでやることはない。
自分が面白そうだ、やりたい と思えばやるし、思わなければやらない。
だいたい、思い起こせば我が50数年の人生で、理が勝って判断したことで成功したためしなんてないじゃないか。
理性なんてクソ食らえ だ。
リセットしよう。
- 関連記事
-
- 人間の牙 (2018/01/01)
- つれづれ振り返り (2017/12/28)
- 絶望寸前の怒り (2017/12/13)
- 反戦と民主主義 (2017/09/13)
- フツウからの脱出 (2017/08/18)
- 革命 (2017/08/15)
- 終戦ではなく「敗戦」と言うわけ (2017/08/13)
- 独白 (2017/08/09)
- 国籍について (2017/07/12)
- 共謀時代を生きる ~驚愕の事態にも慌てない胆力を~ (2017/06/16)
- そもそも 日本人は自分の運命を自分で決めたことがあるのだろうか (2017/05/20)
- 日本のメーデーが燃えないのはなぜか (2017/05/01)
- カンパとドネーション (2017/04/15)
- ノンサンス 方向性が見えない (2017/02/06)
- APAホテルの開き直りについて (2017/01/18)