2016-11-18(Fri)
政治と経済と芸術の三権分立
先日 岡本太郎記念館に行った時に見つけた 「自分の中に毒を持て」
あかん、こんなん読んだら仕事できんようになる あかん。と思いつつ、抗いがたく購入してしまった。
その中に、こんなことが書いてあった。
(以下引用)
ぼくはここで一つ提言したい。
酷くユニークで、突飛だと思われるかもしれないが。いま、この世界で必要なことは、芸術・政治・経済の三権分立である。モンテスキューの唱えた古典的な司法・立法・行政の相互不可侵というような技術的なシステムではなく、まったく新しい三つの原理のオートノミーを確立すべきだ。
政治・経済は人間にとって勿論欠くことのできないシステムである。というより生活時代なのだ。しかしおかしなことは、日常、ぼくらにとって、「政治」「経済」と聞くと、何かひどくよそよそしい。多分これらの機構がいわゆる政治家、経済人によって勝手にコントロールされ、「芸術」つまり「人間」が抜け落ちてしまっているからだろう。
(引用以上)
これは深い話だと思った。
ここで岡本太郎さんがいう「芸術」は、歌ったり絵を描いたりという現象を言っているのではない。
(以下引用)
芸術といっても、なにも絵を描いたり、楽器を奏でたり、文章をひねくったりすることではない。そんなことは全くしなくても、素っ裸で、豊かに、無条件に生きること。
失った人間の原点をとりもどし、強烈に、ふくらんで生きている人間が芸術家なのだ。
(引用以上)
平たく言えば、心のそこからの言葉。いや、言葉にならない 「ふしゅーーー」という息づかいかもしれないし、痙攣のような筋肉の収縮かもしれない。
それらを何とかして他人に伝わるかもしれない表現にすること。
たぶん、そういうことなんじゃないだろうか。
今の政治が伝わらないのは、そういうものが欠けているからではないか。
それは、政治を語る側だけではなく、語られる側もともに、心のそこからのやりとりというものがない。
テレビドラマで「感動」するよりも深い経験をもたない。
そういうことではないのか。
当然ながら、これは政治を歌えとか絵にしろと言う話ではない。
そうではなくて、政治を語る時に、どこかにウソはないか、ポジショントークをしていないか。
心の奥底の想いを、なんとかして言葉に、行動にしようという、必死の努力をしているか。
それが問われている。
もちろん、その「純粋」さだけで政治や経済が動かないことも、重々分かっている。
泣きたくなるくらい分かっているからこそ、せめて三権分立なのではないか。
シリアスで良心に訴える話題であればあるほど、どこかでちょっと手抜きをすると、それは「しらじらしさ」としてあっという間に伝わってしまう。なぜなら、その方向の話は聞き手にも重大な緊張を強いるからだ。
聞き手にも緊張を強いる以上、絶対に手抜きは許されない。
それが、政治と生活が分離し、いつのまにか遠くに離ればなれになってしまった原因ではなかったか。
逆に、露悪や嗜虐(しぎゃく≒いじめ)は、雑な表現でも「ホンネ」として受け取られる。
聞き手に真剣も緊張も必要ないからだ。
その典型が橋下徹であり、維新の会である。
「良い政治」を志す人間は、自分の中の毒を隠していないか。
誰だってかなりの毒を持っている。それを無いふりをしたり、未熟さにして誤魔化したりすることが、「しらじらしさ」の源泉ではないのか。
毒を解放して、よくよく撹拌し、何度も自分で飲んでみて、それを表現にまで昇華させることができるか。
モラルを外形的な、外から縛られるものとして自らに強制するだけでなく、それに反する自分ともしっかり向き合うことができるか。
その意味では、機動隊が沖縄の人を「土人」と罵倒したことについて、「差別かどうか分からない」と鶴保某が疑問をもったことは悪くない話かもしれない。
ただ、あの映像を見て、言い放った大阪府警の機動隊員の表情を見て、なにも感じないとしたら、そこにあるのは鶴保というかたちをした心の無い土人形ではないか。
まして、政府決定で「土人は差別じゃない」と決めてしまうとは、これは露悪と嗜虐のかぎりである。
これは想像だが、あの機動隊員は自分たちの威圧や権威が通用しない相手を、同じ人間とは思えなかったのだろう。
それがあの「土人」という発言につながったのだろう。まさに「差」「別」そのものである。
だが、これと同質なことをいわゆるリベラルの人もやっていないか。
この後に及んで自民党に投票する人を「民度低い」とか「B層」とかいう言説は、しばしば耳目にする。
自分の理解を超えている人をこのように罵倒するのは、機動隊の「土人」と同じではないか。
上から目線の説教は、毒を吐いて罵倒する嗜虐と、本質的に変わらない。
このように、自分の全く異質の理解を超えたものと遭遇した時、たぶん毒が噴出される。
そして、相手が弱いとみると 毒を吐いて嗜虐に走り、強いと見ると毒は自分に回って媚びへつらう。
結局のところ、これまでの政治は、上から目線の説教か、上目遣いの媚態ではなかったか。
人が皆異質であるのは仕方が無い。というかあたりまえだ。
そういうものと遭遇した時に、毒が出るのもこれは仕方が無い。
その毒と向き合って、自分が言いたいこと、心から表現したいことと、その毒を自分の中でぶつけ合う。
毒だけ吐く維新のようなイジメ政党ではなく、毒を隠して「イイコト」をならべるリベラルでもなく、第三の存在がなければ、政治と生活が時空を超えて隔離されてしまった今を、変えることはできないだろう。
こうやって書いていて非常に我が身が痛いけれども、これが、岡本太郎が言う 「芸術・政治・経済」の三権分立の、現代の意味なのだろうと思った。
■■お知らせ
自由党大阪府連大会
11月26日(土)14時から
大阪市立社会福祉センター(上本町)
小沢一郎共同代表も登場
大阪府以外の方や、党員サポーター以外も参加できます
詳しくは → https://www.facebook.com/events/328157494223706/
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あかん、こんなん読んだら仕事できんようになる あかん。と思いつつ、抗いがたく購入してしまった。
その中に、こんなことが書いてあった。
(以下引用)
ぼくはここで一つ提言したい。
酷くユニークで、突飛だと思われるかもしれないが。いま、この世界で必要なことは、芸術・政治・経済の三権分立である。モンテスキューの唱えた古典的な司法・立法・行政の相互不可侵というような技術的なシステムではなく、まったく新しい三つの原理のオートノミーを確立すべきだ。
政治・経済は人間にとって勿論欠くことのできないシステムである。というより生活時代なのだ。しかしおかしなことは、日常、ぼくらにとって、「政治」「経済」と聞くと、何かひどくよそよそしい。多分これらの機構がいわゆる政治家、経済人によって勝手にコントロールされ、「芸術」つまり「人間」が抜け落ちてしまっているからだろう。
(引用以上)
これは深い話だと思った。
ここで岡本太郎さんがいう「芸術」は、歌ったり絵を描いたりという現象を言っているのではない。
(以下引用)
芸術といっても、なにも絵を描いたり、楽器を奏でたり、文章をひねくったりすることではない。そんなことは全くしなくても、素っ裸で、豊かに、無条件に生きること。
失った人間の原点をとりもどし、強烈に、ふくらんで生きている人間が芸術家なのだ。
(引用以上)
平たく言えば、心のそこからの言葉。いや、言葉にならない 「ふしゅーーー」という息づかいかもしれないし、痙攣のような筋肉の収縮かもしれない。
それらを何とかして他人に伝わるかもしれない表現にすること。
たぶん、そういうことなんじゃないだろうか。
今の政治が伝わらないのは、そういうものが欠けているからではないか。
それは、政治を語る側だけではなく、語られる側もともに、心のそこからのやりとりというものがない。
テレビドラマで「感動」するよりも深い経験をもたない。
そういうことではないのか。
当然ながら、これは政治を歌えとか絵にしろと言う話ではない。
そうではなくて、政治を語る時に、どこかにウソはないか、ポジショントークをしていないか。
心の奥底の想いを、なんとかして言葉に、行動にしようという、必死の努力をしているか。
それが問われている。
もちろん、その「純粋」さだけで政治や経済が動かないことも、重々分かっている。
泣きたくなるくらい分かっているからこそ、せめて三権分立なのではないか。
シリアスで良心に訴える話題であればあるほど、どこかでちょっと手抜きをすると、それは「しらじらしさ」としてあっという間に伝わってしまう。なぜなら、その方向の話は聞き手にも重大な緊張を強いるからだ。
聞き手にも緊張を強いる以上、絶対に手抜きは許されない。
それが、政治と生活が分離し、いつのまにか遠くに離ればなれになってしまった原因ではなかったか。
逆に、露悪や嗜虐(しぎゃく≒いじめ)は、雑な表現でも「ホンネ」として受け取られる。
聞き手に真剣も緊張も必要ないからだ。
その典型が橋下徹であり、維新の会である。
「良い政治」を志す人間は、自分の中の毒を隠していないか。
誰だってかなりの毒を持っている。それを無いふりをしたり、未熟さにして誤魔化したりすることが、「しらじらしさ」の源泉ではないのか。
毒を解放して、よくよく撹拌し、何度も自分で飲んでみて、それを表現にまで昇華させることができるか。
モラルを外形的な、外から縛られるものとして自らに強制するだけでなく、それに反する自分ともしっかり向き合うことができるか。
その意味では、機動隊が沖縄の人を「土人」と罵倒したことについて、「差別かどうか分からない」と鶴保某が疑問をもったことは悪くない話かもしれない。
ただ、あの映像を見て、言い放った大阪府警の機動隊員の表情を見て、なにも感じないとしたら、そこにあるのは鶴保というかたちをした心の無い土人形ではないか。
まして、政府決定で「土人は差別じゃない」と決めてしまうとは、これは露悪と嗜虐のかぎりである。
これは想像だが、あの機動隊員は自分たちの威圧や権威が通用しない相手を、同じ人間とは思えなかったのだろう。
それがあの「土人」という発言につながったのだろう。まさに「差」「別」そのものである。
だが、これと同質なことをいわゆるリベラルの人もやっていないか。
この後に及んで自民党に投票する人を「民度低い」とか「B層」とかいう言説は、しばしば耳目にする。
自分の理解を超えている人をこのように罵倒するのは、機動隊の「土人」と同じではないか。
上から目線の説教は、毒を吐いて罵倒する嗜虐と、本質的に変わらない。
このように、自分の全く異質の理解を超えたものと遭遇した時、たぶん毒が噴出される。
そして、相手が弱いとみると 毒を吐いて嗜虐に走り、強いと見ると毒は自分に回って媚びへつらう。
結局のところ、これまでの政治は、上から目線の説教か、上目遣いの媚態ではなかったか。
人が皆異質であるのは仕方が無い。というかあたりまえだ。
そういうものと遭遇した時に、毒が出るのもこれは仕方が無い。
その毒と向き合って、自分が言いたいこと、心から表現したいことと、その毒を自分の中でぶつけ合う。
毒だけ吐く維新のようなイジメ政党ではなく、毒を隠して「イイコト」をならべるリベラルでもなく、第三の存在がなければ、政治と生活が時空を超えて隔離されてしまった今を、変えることはできないだろう。
こうやって書いていて非常に我が身が痛いけれども、これが、岡本太郎が言う 「芸術・政治・経済」の三権分立の、現代の意味なのだろうと思った。
■■お知らせ
自由党大阪府連大会
11月26日(土)14時から
大阪市立社会福祉センター(上本町)
小沢一郎共同代表も登場
大阪府以外の方や、党員サポーター以外も参加できます
詳しくは → https://www.facebook.com/events/328157494223706/
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