2016-10-31(Mon)
スタートラインが「生」の社会と「死」の社会
※今日の記事は、まだ頭が整理されていないけど、とにかく忘れないために書いておくものなので、読んでも分かりにくいと思う。意を汲んでいただければ幸いです。
人間という個体を放置したらどうなるか。
生物学的には、死ぬ。
脱水か、栄養失調か、低体温か、熱中症か、原因はいろいろあるだろうけど、ある程度の時間が経過すれば死ぬ。
ただし、人間は基本的に個体で生息していない。
アリやシマウマが我々の目から見て群れであるように、宇宙から見たら人間は明らかに群れで生きている。
その群れの中で放置したらどうなるか。また別の結果があるはずだ。
原始共産制から資本主義まで、人間の社会は、働いて生み出した付加価値の分配をめぐる歴史であったと同時に、「働いていない人間がどう生きていくのか」の変遷の歴史でもあった。
「働いていない人」をどう規定するか。
一般には、年齢や病気や障がいなどによって、物理的に働けない人と、働けるのに働かない人 に分けることが多い。
今の時代を生きている私たちは、何の疑問もなくそう思っている。
しかし、そうやって分別することも、また、「どこまでがサボりでどこまでが仕方ないのか」という程度を決めるのも、その社会特有のスタンダードとして決められているのであって、あたりまえの前提ではない。
たとえば、健康な10歳の子どもが働かないのは どっちなのか。
ほんの数十年前までは、「サボり」に入れられたが、今では「仕方がない」ほうになっている。
今だってそうだ。
20歳の人間が、毎日家の中にジッとしていたら「引きこもり」と言われるが、毎日大学行って無為な時間を過ごしてたら「学生さん」と言われる。
サラリーマンの親のすねをかじると「ごくつぶし」と言われるが、大金持ちの親のすねをかじると「御曹司」と言われる。
このように、実は「働くべき」と「働かなくていい」は、物理的な条件で決められているのではなく、社会規範として人為的に決められているのだ。
それでも、小中学校までは最低限の義務教育になって児童労働が禁止されたり、歴史が進むと共に、確実に「仕方ない」の範囲は拡がってはきた。
働かざる者食うべからず とは言え、この範囲の人は許したる という範囲が拡がってきた。
ただ、私がここで言いたいことは、範囲は拡がってはきたけれども、本質は変わっていないと言うこと。
まさに「働かざる者食うべからず」であって、いちばんのベースは「なにもしなければ死ぬ」という社会だということ。
例外として、「許してやる」範囲にだけ施しの制度を設けているにすぎない。
奴隷制のむかしから今日に至るまで、その本質は変わっていない。
と、日本に住んでいる私は思っていた。
ところが、あるドキュメント番組を見ていて驚いた。ヨーロッパのどの国だったか忘れたが、いわゆる福祉制度によって収入を得ている家族が、実に明るく楽しそうに暮らしている姿を映していた。
実に堂々と、あたりまえのように福祉を受け入れ、人生を楽しんでいる。
これは、本質的な価値観の逆転がある、と思った。
「なにもしなければ死ぬ」社会ではなく、「なにもしなくても生きる」社会。
「死」というスタートラインから必死に努力して「生」をつかむ社会から、スタートラインに「生」のある社会。
制度としての欠陥があるかどうかとか、戦争と移民のような国の形が変わるような激変に対応できなくなるとか、そういう話はあるだろうが、どのように制度を変えるとしても、一度変革した意識、すなわち「なにもしなくても生きる」「生きていてあたりまえ」という意識は逆転することはないはずだ。
その意識があるからこそ、原発に対しても諸制度に対しても、ヨーロッパの人々は明確に意思表示するのだろう。
■
日本の生活保護などの施しの制度と、ヨーロッパでの「あたりまえ」の制度の何が決定的に違うのかと言えば、「人間の尊厳」だ。
「誇り」を傷つけるのか つけないのか の違いだ。
日本でも物理的に死ぬかというと、なにもしなくてもかなりの程度は生きながらえる可能性は高い。
しかし、その過程で人としての尊厳はボロボロに傷つけられる。
「やってやるんだからありがたく思え」という施しの精神によって、行政からも地域社会からも意図的に滅多刺しにされる。
日本の政治の中で、たぶん唯一、この価値観の逆転をしようとした政策があった。
それが、2009年の民主党がやろうとした 子ども手当だった。
あの制度は「全ての子どもは社会が育てる」という理念のもとに作られ、その結果 所得制限がなかった。
所得制限がないということは、日本の社会でも誰に気兼ねすることなく堂々と受け取れるということだ。
本来的にその制度設計が正しいのかどうかは別として、「施し」の制度から「誇り」ある制度へ転換するための第一歩として、まさに画期的な政策だった。
だからこそ、当時の自民党は所得制限を設けることにこだわったし、児童手当という「施し」時代の名称に戻すことにこだわった。
「施し」の特権こそが富の源泉である自民党にとって、絶対に認められない政策だったのだ。
であるならば、今わたしたちの次の一歩は、ここにあるということではないのか。
「施し」から「誇り」へ
何とかなっている間は不安におののき、何かでつまずいたら恐縮至極で施しを受けるような今の社会から、老若男女の誰もが胸を張って生きていけるような社会へと、転換する政策を提起すべきだ。
理念ではなく、理念を体現する、実感する具体的な政策。利害以上に「誇り」を取り戻す政策を。
たとえば、本当の参政権=供託金の廃止とか 女性の権利としての選択的別姓とか、権利としての教育無償化とか、経済問題以前に、尊厳の問題として体系的に立案すべきだ。
そして、米国と多国籍企業群からの独立を。
フィリピンのドゥテルテ大統領の独立闘争に、フィリピン国民は団結しようとしている。
(だから日本のメディアはドゥテルテを殺人鬼のように書き立てているが)
深い眠りのなかに封じ込められてきた人としての誇りを揺り起こせ。
1970年代から80年代は、あまりにも経済的に恵まれてきた。
尊厳を脇に置いても、それなりに幸せにいきることができる時代だった。
今、そのような余裕はとっくになくなっているにもかかわらず、あいかわらず自分たちの「尊厳」が奪われていることに自覚が薄い。
しかし、自覚が薄いことと、奪われているという現実は別だ。
多くの国民が、経済的にも報われず、尊厳も奪われたままだと言うことに気が付いた時、日本は変わる。
スタートラインが「死」である社会から、スタートラインが「生」である社会に。
今はまだ私もうまく説明できないが、ここに核心問題がある。
にほんブログ村
応援お願いします
人間という個体を放置したらどうなるか。
生物学的には、死ぬ。
脱水か、栄養失調か、低体温か、熱中症か、原因はいろいろあるだろうけど、ある程度の時間が経過すれば死ぬ。
ただし、人間は基本的に個体で生息していない。
アリやシマウマが我々の目から見て群れであるように、宇宙から見たら人間は明らかに群れで生きている。
その群れの中で放置したらどうなるか。また別の結果があるはずだ。
原始共産制から資本主義まで、人間の社会は、働いて生み出した付加価値の分配をめぐる歴史であったと同時に、「働いていない人間がどう生きていくのか」の変遷の歴史でもあった。
「働いていない人」をどう規定するか。
一般には、年齢や病気や障がいなどによって、物理的に働けない人と、働けるのに働かない人 に分けることが多い。
今の時代を生きている私たちは、何の疑問もなくそう思っている。
しかし、そうやって分別することも、また、「どこまでがサボりでどこまでが仕方ないのか」という程度を決めるのも、その社会特有のスタンダードとして決められているのであって、あたりまえの前提ではない。
たとえば、健康な10歳の子どもが働かないのは どっちなのか。
ほんの数十年前までは、「サボり」に入れられたが、今では「仕方がない」ほうになっている。
今だってそうだ。
20歳の人間が、毎日家の中にジッとしていたら「引きこもり」と言われるが、毎日大学行って無為な時間を過ごしてたら「学生さん」と言われる。
サラリーマンの親のすねをかじると「ごくつぶし」と言われるが、大金持ちの親のすねをかじると「御曹司」と言われる。
このように、実は「働くべき」と「働かなくていい」は、物理的な条件で決められているのではなく、社会規範として人為的に決められているのだ。
それでも、小中学校までは最低限の義務教育になって児童労働が禁止されたり、歴史が進むと共に、確実に「仕方ない」の範囲は拡がってはきた。
働かざる者食うべからず とは言え、この範囲の人は許したる という範囲が拡がってきた。
ただ、私がここで言いたいことは、範囲は拡がってはきたけれども、本質は変わっていないと言うこと。
まさに「働かざる者食うべからず」であって、いちばんのベースは「なにもしなければ死ぬ」という社会だということ。
例外として、「許してやる」範囲にだけ施しの制度を設けているにすぎない。
奴隷制のむかしから今日に至るまで、その本質は変わっていない。
と、日本に住んでいる私は思っていた。
ところが、あるドキュメント番組を見ていて驚いた。ヨーロッパのどの国だったか忘れたが、いわゆる福祉制度によって収入を得ている家族が、実に明るく楽しそうに暮らしている姿を映していた。
実に堂々と、あたりまえのように福祉を受け入れ、人生を楽しんでいる。
これは、本質的な価値観の逆転がある、と思った。
「なにもしなければ死ぬ」社会ではなく、「なにもしなくても生きる」社会。
「死」というスタートラインから必死に努力して「生」をつかむ社会から、スタートラインに「生」のある社会。
制度としての欠陥があるかどうかとか、戦争と移民のような国の形が変わるような激変に対応できなくなるとか、そういう話はあるだろうが、どのように制度を変えるとしても、一度変革した意識、すなわち「なにもしなくても生きる」「生きていてあたりまえ」という意識は逆転することはないはずだ。
その意識があるからこそ、原発に対しても諸制度に対しても、ヨーロッパの人々は明確に意思表示するのだろう。
■
日本の生活保護などの施しの制度と、ヨーロッパでの「あたりまえ」の制度の何が決定的に違うのかと言えば、「人間の尊厳」だ。
「誇り」を傷つけるのか つけないのか の違いだ。
日本でも物理的に死ぬかというと、なにもしなくてもかなりの程度は生きながらえる可能性は高い。
しかし、その過程で人としての尊厳はボロボロに傷つけられる。
「やってやるんだからありがたく思え」という施しの精神によって、行政からも地域社会からも意図的に滅多刺しにされる。
日本の政治の中で、たぶん唯一、この価値観の逆転をしようとした政策があった。
それが、2009年の民主党がやろうとした 子ども手当だった。
あの制度は「全ての子どもは社会が育てる」という理念のもとに作られ、その結果 所得制限がなかった。
所得制限がないということは、日本の社会でも誰に気兼ねすることなく堂々と受け取れるということだ。
本来的にその制度設計が正しいのかどうかは別として、「施し」の制度から「誇り」ある制度へ転換するための第一歩として、まさに画期的な政策だった。
だからこそ、当時の自民党は所得制限を設けることにこだわったし、児童手当という「施し」時代の名称に戻すことにこだわった。
「施し」の特権こそが富の源泉である自民党にとって、絶対に認められない政策だったのだ。
であるならば、今わたしたちの次の一歩は、ここにあるということではないのか。
「施し」から「誇り」へ
何とかなっている間は不安におののき、何かでつまずいたら恐縮至極で施しを受けるような今の社会から、老若男女の誰もが胸を張って生きていけるような社会へと、転換する政策を提起すべきだ。
理念ではなく、理念を体現する、実感する具体的な政策。利害以上に「誇り」を取り戻す政策を。
たとえば、本当の参政権=供託金の廃止とか 女性の権利としての選択的別姓とか、権利としての教育無償化とか、経済問題以前に、尊厳の問題として体系的に立案すべきだ。
そして、米国と多国籍企業群からの独立を。
フィリピンのドゥテルテ大統領の独立闘争に、フィリピン国民は団結しようとしている。
(だから日本のメディアはドゥテルテを殺人鬼のように書き立てているが)
深い眠りのなかに封じ込められてきた人としての誇りを揺り起こせ。
1970年代から80年代は、あまりにも経済的に恵まれてきた。
尊厳を脇に置いても、それなりに幸せにいきることができる時代だった。
今、そのような余裕はとっくになくなっているにもかかわらず、あいかわらず自分たちの「尊厳」が奪われていることに自覚が薄い。
しかし、自覚が薄いことと、奪われているという現実は別だ。
多くの国民が、経済的にも報われず、尊厳も奪われたままだと言うことに気が付いた時、日本は変わる。
スタートラインが「死」である社会から、スタートラインが「生」である社会に。
今はまだ私もうまく説明できないが、ここに核心問題がある。
にほんブログ村
応援お願いします
- 関連記事
-
- ノンサンス 方向性が見えない (2017/02/06)
- APAホテルの開き直りについて (2017/01/18)
- たかが国家 されど国家 (2017/01/16)
- マイナンバーの提出は義務か? (2017/01/13)
- 大地の鳥 (2017/01/01)
- 「反共」というオバケ (2016/12/27)
- 政治と経済と芸術の三権分立 (2016/11/18)
- スタートラインが「生」の社会と「死」の社会 (2016/10/31)
- 憲法フェス@大阪を終えて (2016/09/14)
- 辺見庸の「ことば」 (2016/04/05)
- 想い遣る頭脳と柔らかい心 (2016/04/04)
- 今話題の「保育園落ちた日本死ね」について (2016/02/23)
- 信金さんと話をしていて思ったこと (2016/02/18)
- STAP事件に思うこと (2016/02/03)
- あけましておめでとうございます (2016/01/01)