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大麻山 2013年12月29日(日)

 今年最後の登山は、やはり大麻山(538m)です。

IMG_0489大麻山
 今回も卯辰越の登山口からのピストンです。ばんどうの鐘と大麻山を見上げながら車で登山口へ向かいます。

IMG_0492展望
 途中のベンチから北西の気持ちのいい展望を眺めます。

IMG_0495眉山方面
 反対側の眉山方面は、やや霞んでいます。

IMG_0517登山道
 登山道はうっすらと雪化粧されています。

IMG_0497地蔵
 道沿いの石地蔵に小さな雪だるまがのっています。

IMG_0503見晴らし
 卯辰分岐近くの展望所で休憩します。残念ながら急に剣山方面に雲が出てきたので展望は今一つです。

IMG_0504奥の院
 急な階段を登り切ると奥の院のある頂上に着きます。

IMG_0505氷
 凍り付いています。

IMG_0507雪だるま
 ここにもかわいい雪だるまがありました。

IMG_0509祠
 祠さんも迎春準備は万全です。

IMG_0511展望
 鉄塔付近からの展望です。

IMG_0516分岐
 鉄塔分岐を右に取り、元の道を辿ります。

 
(参考タイム)

卯辰越登山口9:30発 → 鉄塔分岐10:05着 → 卯辰越分岐10:15着 → 頂上10:40着 → 77番鉄塔10:50着 → 鉄塔分岐11:10着 → 卯辰越登山口11:35着 

 今日は穏やかに晴れた休日なので、大勢の登山者で賑わっていました。
 皆様、今年一年有り難うございました。どうかよいお年をお迎えください。

眉山縦走 2013年12月23(月)

 久しぶりに徳島市のシンボルの山、眉山(290m)を縦走しました。

IMG_0440地蔵院
 名東町の地蔵院から登ります。

IMG_0441池
 今日はキレイに晴れ渡っています。

IMG_0442地蔵越遍路道
 登山口は地蔵越遍路道です。

IMG_0444登山道
 木漏れ日と落ち葉により、とても心地よく登れます。

IMG_0446御暫時分岐
 一旦車道に出て再び斜面に取り付くと、やがて恩山寺分岐に着きます。せっせと清掃をされている方がいました。

IMG_0449三角点
 稜線に出て初めての三角点(234.1m)です。

IMG_0453休憩
 眉山の最高点(290m)付近には、少し南東の展望もあるので休憩している人がいます。

IMG_0458三角点2
 二つ目の三角点(282.9m)てす。

IMG_0459猫
 一旦車道に出ます。ベンチで大きな猫が気持ちよさそうに日光浴中です。全く動きません。

IMG_0461公園
 桜の公園を通過します。

IMG_0466剣山方面
 剣山方面には雪が目立ちます。

IMG_0471吉野川河口
 吉野川河口方面です。

IMG_0473西の展望
 北西の展望です。

IMG_0474桜
 東の展望です。

IMG_0478花
 ツワブキの黄色の中に赤いツバキが咲いていました。

IMG_0480万年山遊歩道
 帰りは、万年山遊歩道を下ります。

IMG_0485青のり
 穏やかな吉野川河口です。


(参考タイム)

地蔵院登山口11:00発 → 恩山寺分岐11:15着 → 三角点(234.1m)11:30着 → 豊崎八幡宮分岐11:45着 → 三角点(282.9m)11:50着 → パゴダ塔[頂上(276m)]12:15着・12:50発 → 万年山遊歩道13:00発 → 万年山登山口13:15着  

 天気がとても良く気持ちのいい山歩きができました。














まぜのおかオートキャンプ場 2013/12/22(日)

 徳島県海陽町の「まぜのおかオートキャンプ場」を訪ねました。

PC210040入口
 南国らしいおもてなしが用意されています。

IMG_1221ヤシ
 ヤシの並木が迎えてくれます。思ったほど寒く感じないのが不思議です。

PC210007案内図
 オートキャンプ場だけでなく、温水プール(25mが7コース)や体育館など施設が充実していて、驚くほど管理が行き届いています。

IMG_0722海
 北側には浅川湾が一望できます。

IMG_0744湾
 山の紅葉も少し観られます。

PC210010野球場
 蛇王運動公園は、平成5年の第48回国体(東四国国体)開催に際して建設されたもので、野球場やテニスコート、広場などがあります。野球場では少年野球の試合中です。周辺はピクニック気分の父兄で賑わっています。

IMG_0717ソテツ
 立派なヤシの木があります。

IMG_1197広場
 広大な芝生広場もあります。

PC210210ライトアップ PC210209ライトアップ
 運良く、夜間のライトアップも観られました。

 

最近読んだ本 2013年12月22日(日)

「花の百名山」  田中澄江著 (文芸春秋)
花の百名山
 今さらですが、本書は1978年から3年間にわたり「山と渓谷」に連載されたものをベースにして、1997年に刊行されたもので、巻頭には、百の山の花のカラー写真が収録されています。
 山と花をこよなく愛し、日本中の山や峠を歩いた紀行文と、山と花への思いを綴ったエッセイです。読売文学賞受賞作です。
 山好きだった著者の父親は40歳で病気により亡くなり、著者はまだ小学校1年生だったそうです。
 「お父さんは山にいる」と、「その思いを胸において、私は山を歩き続けていった」そうです。





「山はいのちをのばす」 田中澄江著 (青春出版社)
山はいのちをのばす
本書の執筆当時(1997年)、89歳だった著者は、登山歴が約70年間に、峠の数も加えると900近くの山へ登っており、そして現役の登山家だったというのには驚かされます。
 「人間の一生の短さにくらべたら、大自然のいのちは悠久です。山路に一歩入るだけで、私は89歳でありながら、14歳のときの昔と、ちっとも変わらない自分を見出すことができるのです。」
 「山は人間に与えられた最高最大の人間鍛錬の場です」と、山登りを勧めています。








「住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち」 川口 マーン 惠美 著 (講談社プラスアルファ新書)
IMG_0050住んでみたドイツ
 ドイツ在住30年、3人の子供を育てたシュトゥットガルト在住の著者が日本やドイツについて感じたことを記述しています。 
 本の過激なタイトルはともかくとして、やや美化された日本が語られていますが、実際に長期間現地に暮らしてきた経験に基づく記述だけに、とても参考になるものが多いです。
 領土を守るには実効支配し、それを裏付ける軍事力が必要だと歴史が証明している、という指摘や、ドイツも日本も、「永遠の加害者」で、たくさんお金を出しても、たいして感謝されていない、という指摘は、全くそのとおりだと思います。







「黒田如水」 吉川英治著 (新潮文庫)
IMG_0150黒田如水
 来年のNHKの大河ドラマは「黒田官兵衛」で、人気グループV6の岡田准一が官兵衛を演じるそうですが、書店で「2014年NHK大河主人公・戦国時代最強の軍師」という本帯に目が引かれ、本書を読みました。
 本書は、姫路生まれの「天才軍師」と称される「黒田孝高」(別称は官兵衛[出家後に如水] 1546年~1604年)の半生を、無駄のない文体で見事に描かれた歴史小説の神髄に浸れる素晴らしい作品です。
 勘兵衛のどこまでも実直な人柄や、竹中半兵衛との友情が美しく感動的に描かれています。特に、伊丹城での幽閉や、勘兵衛を慕う臣下の救出の働きなどを非常に詳しく描くことによって官兵衛の人となりをうまく浮き上がらせています。
 そして、信憑性はともかくとして、クライマックスの松寿丸との再開は、信長の前で果たしますが、「何事も信長の過ちから起こったことだ。まず信長の過ちをゆるせ。」などと、深い感動を呼ぶ効果的な演出になっています。






「眠れないほど面白い『古事記』」 由良弥生著  (王様文庫)
IMG_0151古事記
 「シリーズ累計89万部突破」が書店で目に付き、本書を購入しましたが、日本最古の書物とされている「古事記」が、非常に分かりやすく表現されています。
 神々の大胆で信じ難いほどストレートな野望と愛欲の数々がふんだんに描かれています。まさに、「愛と野望、エロスが渦巻く壮大な物語」です。
 古事記は、もともと「神々と天皇家の系譜を明らかにする目的でつくられたもの」なので、言わば恣意的な「大人のおとぎ話」なのですが、日本の神話に登場する神々や歴代の天皇が非常に俗っぽい存在に描かれている上、168歳や153歳という長寿や、2m80㎝の長身という想像を絶する天皇が存在したとは、あまりにも度が越え過ぎですよね。







「古代道路の謎」 近江俊秀著 (祥伝社文庫)
古代道路の謎
 今から約1300年前に、幅が6m~30m(江戸時代の五街道より広い)、推定総延長距離が6300kmという巨大な道路網が建設され、実際に使われていたというのです。
 これは1966年に計画された全国高速道路網のうち、北海道を除く総距離に匹敵する規模なのです。
 本書は、文化庁文化財調査官がこの道路の謎に迫ったもので、現代の道路整備における大切なメッセージが読み取れる「駅路の歴史」書です。
 古代にこれほどの道路がなぜ建設されたのか。古代道路の専門家である著者は、「駅路建設は天武天皇による“列島改造”だった」と説きます。
 当時の日本が目指したのは、強大な中央集権政府である「律令国家」だったので、「中央にすべての権限を集中させ、地方は中央から出向いた役人を置いて統治させる。そのためには、地方拠点と中央を最短距離で連結する道路が必要になるのは昔も今も同じ」だったというのです。
 しかし、8世後半から道路の幅員が縮小され、11世紀初頭までには地方の道路網の中に埋没してしまいます。そして、明治に再び中央集権国家が建設されるまで、日本列島にこれほどの道路網が整備されることはなかったのです。





「鳥居龍藏のみた日本」 田畑久夫著 (古今書院)
鳥居龍蔵のみた日本
 本書は、日本国内において日本民族の起源・文化の源流を追い求める鳥居龍蔵(1870-1953)の、主に日本列島に関するフィールドサーヴェイ(野外調査)(大和、信濃、日向、武蔵野、沖縄、千島列島、朝鮮半島)を詳しく取り上げ、鳥居龍蔵の現代における学問的位置づけや意義を分かりやすく解説しています。
 著者は、鳥居龍蔵について、「海外の科学的な分析主峰を用いて本格的なフィールドサーヴェイを行ったわが国の先駆者として、大変著名な研究者で有り、その研究業績も多い」と述べています。
 しかし、鳥居龍蔵を評して、「孤高の人」(松本清張)、「無冠の人類学者」(中薗英助)、「探検型学者」(江上波夫)などと形容されることがあるのはなぜか。
 このことについて、著者は、「日本が植民地にしたり、侵略を行った地域と一致する」ことから、一部の研究者から旧日本軍との関わりが揶揄され、「無視又は閑視するという傾向が見られ」、それが現在まで続いていると、指摘しています。
 また、鳥居龍蔵は、一般読者をも対象とした図書を刊行しなかったため、同じ民俗学の大物である柳田國男・南方熊楠とは大きく異なったと述べています。





「農耕社会の成立」 石川日出志著 (岩波新書)
農耕社会の成立
 本書は、岩波新書の日本古代史シリーズの 第1巻で、考古学を専門とする教授が、農耕社会が成立した弥生時代を分かりやすく解説しています。
 著者は、考古学は、「資料の制約から、現在でもどうしてもわからないことは数多く、それに対して、『これが歴史的事実だ』と断言しうる事柄はかぎりなく少ない」と言い、終始謙虚に解説しています。
 弥生文化は、鳥井龍蔵らにより、縄文時代の人々とは異なる、新たに大陸から渡来した別の集団の文化である解釈としてきたのに対して、その後発掘された弥生時代初期の遺跡等により、縄文時代の文化がゆるやかに変化していったものであるとしています。
 しかし、最後に、「縄文文化という森林性新石器時代文化から、古代史の世界ではヤマト王権の時代ともいう古墳時代の政治的社会の時代文化への、変化過程として弥生時代文化を理解するのがもっとも穏当であろうか。なんとも弥生時代文化の理解は一筋縄ではいかない」と述べているのが印象的です。





「ヤマト王権」 吉村武彦著 (岩波新書)
ヤマト王権
 本書は、日本古代史研究者が、2010年に刊行した本で、上記の日本古代史シリーズの 第2巻です。
 日本列島にはじめて成立した統一国家、謎の多いヤマト王権について、限りある史料を詳しく解釈し、諸説をも紹介しながら、ヤマト王権の成立や支配体制の実像に迫ります。
 当時の手がかりとなる日本の歴史書、「古事記」・「日本書紀」は、後の時代(712年・720年)の編纂物であり、必ずしも史実を伝えているものではないので、文献史料が僅かに残る中国正史や金石文の断片的な史料を、根気よく紐解いていくという気の遠くなる世界です。
 著者は、次のように述べています。
 「ヤマト王権は、四世紀前半に成立したと想定され、律令国家が形成される七世紀後半まで存続した王制の政治的権力機構である。しかし、『謎の四世紀』と言われるように、その成立時期は、いまだに謎に包まれている。」
 「本書では、倭国としての政治的統合の最終段階として前方後円墳の成立を考え、その結果、次の新しい段階にヤマト王権が成立したという論を展開した。この見解は、前方後円墳の成立をもってヤマト王権の形成を考える、従来の見解の再検討を迫るものである。前方後円墳の形成から終末までの歴史が、ヤマト王権の成立から律令制国家成立までの課程とパラレルに合わないだけではない。どうしてもヤマト王権の諸画期と、関連づけることが原理的に難しいのである。」





「飛鳥の都」 吉川真司著 (岩波新書)
飛鳥の都
 日本古代シリーズの第3巻です。
 奈良県明日香村の甘樫丘からの眺めで始まる、本作の「はじめに」は、素晴らしいイントロです。
 「丘の上から東を望むと、すぐ足もとを飛鳥川が流れている。万葉人が移ろいやすい心に喩えたその流れは、竜門の山々に源を発して、石舞台古墳あたりからゆるやかに北流し、飛鳥の小盆地を潤している。まさしく飛鳥の『母なる川』である。」
 推古天皇の即位から大化改新、白村江の戦い、壬申の乱、そして大宝律令直前までの7世紀史です。
 著者は、「七世紀史はこの半世紀、日本古代史研究の『主戦場』であった。個性あふれる学説が林立し、論争が繰り広げられてきた」と述べていますが、詳しい割には一般人に分かりやすく書かれています。
 日本は、古代・飛鳥時代から、大陸との関係がいかに深く重要であったかということが改めて分かります。





「平城京の時代」 坂上康俊著  (岩波新書)
平城京の時代
 日本古代シリーズの第4巻です。
 唐帝国を手本にした大宝律令で幕を開けた8世紀の日本を、コンパクトながら非常に詳しく解説しています。
 著者は、次のように述べています。
 「平城京の時代が現代まで残した最大の遺産は、日本の国家の『枠組み』である。」
 「その『枠組み』の中に、天皇がしっかり嵌め込まれたのも、平城京の時代ということができる。・・・新しい統治技術と矛盾しない形で天皇は存在し続け、この時代が過ぎたとき、『系譜と神話』を中核に据え続けたまま、『法と制度』の外皮にもしっかりと守られることになっていたのである。」
 なお、この時代は「土臭い豪族が洗練された貴族に転身」した時代でもあり、「律令国家の成立とは、天皇を頂く畿内豪族らによる全国支配の達成という評価も可能」と。





「平安京遷都」  川尻秋生著 (岩波新書)
平安京遷都
 日本古代シリーズの第5巻です。
 本書では、8世紀末の桓武天皇の時代から、10世紀後半の摂関期のはじめまでを詳しく分かりやすく解説しています。
 本書間冒頭で、明治天皇が天皇の服装が平安時代から「唐風」であるとして、西洋風に改めるために明治4年に勅を発したことを紹介していますが、平安時代は、明治初期までの日本文化に大きな影響を与え続け、まさに日本文化の基礎を形成したのだということが理解できます。
 また、著者は次のように述べているのが印象的です。
 「それまでの自国の文化を排斥し、今後規範とすべき地域や国の文化を導入するという意味で、二つの改革、すなわち明治の西洋化と平安の唐風化は、見事な対比をみせていることになる。後者で模範とした中国が前者で切り捨てられたのは皮肉であるが、千年以上離れていても、外来文化に対する日本の立ち位置の共通性と、中国の影響の強さをみることができよう。」
 本書では、最澄・空海についても詳しく解説されています。
 実際の二人の渡唐は困難を極め、仏教の奥義伝授についても綱渡りの結果論であったことから、著者は、「最澄や空海が第三船や第四船に乗り込み、難波して渡唐できなかったとしたら、平安時代の宗教界はまったく異なったものになっただろう。・・・その影響は現代に至るまで計り知れない。島国日本の宿命とは言え、中国文化は、かなりの偶然性と選択制をもって請来されたと言えるだろう。」と述べています。






「摂関政治」 古瀬奈津子著 (岩波新書)
摂政政治
 日本古代シリーズの第6巻(最終編)です。
 本書は、摂政や関白となって天皇の代理、あるいは補佐役として政治の実権を握る政治システムをつくった藤原道長(966-1028)を中心とし、宮廷・貴族社会や文化等について詳しく分かりやすく述べられています。
 「9世紀半ば、清和天皇が9歳で即位したことは、幼帝でも天皇制が機能するようになったことを示していた。そして、応天門の変という政変を契機に、天皇大権を代行する摂政が登場する。・・・その後、天皇の外戚である藤原氏が、幼帝の時は摂政、成人すると関白となり、天皇を補佐する摂関政治が始まる。(中略)天皇制を前提として、政治の実権は摂関が握るというあり方は、その後の日本における政治の仕組みとなっていく。」
 また、著者は、紫式部とか清少納言などの「女房文学が摂関期に最盛期を迎えたのは、彼女たちが独自の政治権力を握っていた皇后や中宮に仕えたことによって、女房自身も政治の表舞台に立つことになり、その文学も緊張感を増し、社会的な意義が大きくなったためであった。女房文学自体は中世以降も続いていくが、摂関期のような隆盛を再びみることはなかった。それは中世以降の社会構造の変化によるのだろう。」と、述べているのが印象的です。





「正倉院の謎」 由水常雄著 (中央文庫)
IMG_8615正倉院の謎
 本書は、1977年に徳間書店から出たものを1987年に文庫化されたものですが、以前に縁があっていただいた大切な本なので、改めて読みました。
IMG_8616正倉院
 著者は、独自の長年の調査研究をまとめたもので、正倉院の起源と宝物について驚くべき新説を唱えています。
 正倉院の宝物は、奈良時代に光明皇太后によって聖武天皇の冥福を祈って納めたものと考えられていますが、正倉院は、藤原仲麻呂のクーデターのための武器庫、宝物庫からスタートしたと言うのです。
 しかも、奈良時代に、光明皇太后によって正倉院に収められた聖武天皇の遺品約740点のうち、現存するのはわずか150点ほどにしか過ぎず、現存する大部分(9000点以上)は、後の時代に新しく納められたものだと言うのです。 
 奈良時代から明治時代に至るまでの、各時代の所蔵一覧表や権力者による閲覧の記録を丹念に分析して、宝物の紛失や入れ替わりを論理的に推測しています。
 また、正倉院の現在の管理体制の在り方についても、問題があることを指摘しています。
 要するに、現在の正倉院の宝物は、すべてが奈良時代のものではあり得ないということですが、問題は専門家や管理者がその気にさえなれば直ちに解析できる筈なのに、権力者側に不都合な情報は未だに明らかにされないことではないでしょうか。





「鑑真」  東野治之著 (岩波新書)
鑑真
 史料が少なく、不明な点が多く諸説ある鑑真の活躍等を、一般人に分かりやすく述べられています。
 5回も失敗の末、754年に総勢24名で、ようやく果たした鑑真の渡来、これにより日本にもたらした唐文化の影響は計り知れないと言われますが、肝心の「戒律」は日本では根づかなかったのです。
_MG_4868唐招提寺
著者は、次のように述べています。
 「僧侶の無戒が当たり前の日本では全く気づかれませんが、これはアジアを中心に広がる仏教圏の中では大変特殊なことです。・・・無戒が公認されている仏教は世界に類がありません。この点で日本の仏教が、国際基準を満たしていないということは、日本人が自覚しておくべきことではないかと思います」。
 中国では僧侶の結婚も認められないそうですが、日本の仏教は上からの奨励で広まり、当時の「僧侶は官人的な性格」を持っていたことと関係があるのかもしれません。
 また、鑑真が創建した唐招提寺は、1998年に、東大寺や興福寺、薬師寺などとともに古都奈良の文化財として世界遺産に登録されましたが、まさに日中友好の貴重な遺産であり、鑑真は日中友好に命がけで尽くした先人だったのです。





「天平の甍」 井上 靖 著 (新潮文庫)
天平の甍
 8世紀前期、日本の仏教界に正しい戒儀を整えるため、「適当な伝戒の師を請じて、日本に戒律を施行したい」と、2人の留学僧を唐に派遣します。
 本作は、その留学僧を通して、「鑑真」の苦難の日本招聘を、臨場感たっぷりに描いた感動の歴史小説です。
 当時の鑑真の来日は、密航せざるを得なかったので官憲に阻まれたり、順風が頼りなりで暴風波浪に遮られたり、遙か南方の海南省まで流されたりの連続で、結果として、渡日までに実に12年もの日時を要したため、鑑真は67歳の高齢となり、その上、弟子や栄叡の他界や鑑真自身の失明など厄が伴うという、なんとも想像を絶する難行だったのです。
 55歳の鑑真が決断する描写が特に印象的です。
 「この一座の者の中でたれか日本国に渡って戒法を伝える者はないか」(中略)
たれも答える者はなかった。すると鑑真は三度口を開いた。「法のためである。たとえ渺漫(びょうまん)たる滄海が隔てようと生命を惜しむべきではあるまい。おまえたちが行かないなら私が行くことにしよう」
 一座は水を打ったようにしんとなっていたが、・・・鑑真と、十七名の高弟が日本へ渡ることが須臾(しゅゆ)の間に決まったのである。」





「背教者ユリアヌス」 辻 邦生 著  (中公文庫)
IMG_8610背教者マリアヌス
 南川高志氏の「新・ローマ帝国衰亡史」(岩波新書)に、本書が紹介されていたのを機に読みました。
 ローマ帝国は外敵ではなく内部から崩壊したと言われるように、実際には宮廷内部で様々な利権が絡んだ熾烈な勢力争いが繰り返され、浪費と陰湿な闘いが繰り広げられていたと考えられますが、本書では、帝国末期の宮廷内の陰謀勢力を分かりやすく描いています。
 統治や軍隊の指揮経験もなく、ひたすら哲学の勉学に熱中する純真で聡明な青年哲学者ユリアヌスが、純愛する皇后の助けを得て、巨大帝国の安定という使命に無欲で燃え立って行く様を、親友や軽業師とのエピソードを交えながら見事に描いています。かなり長編ですが、一気に読ませる素晴らしい作品です。
 「背教者」とはキリスト教徒から見た評価ですがですが、このタイトルには違和感が付きまといます。
 ユリアヌスは、完全にキリスト教を禁じたわけではありませんが、「ローマ帝国にギリシャ古来の秩序をもたらす」ために、伝統的なローマ神教を復活させようとしたことから、後にキリスト教会から「背徳者」と呼ばれたようです。
 要するに、常に哲学的思想により真実を求め続けたユリアヌスには、排他的な弊害がよく見えていたのです。




Waンダーランド  2013/12/14(土)

 電鍵開発(株)と四国電力(株)の共同展示施設をはじめて訪ねました。阿南市の橘湾石炭火力発電所の対岸にあります。

PC130017施設図
 施設全体の配置図です。右上の巨大な円形は、直径150mの芝生広場です。

PC130019展示室
 展示施設内には、巨大なマッコウクジラの骨格標本が展示されています。これは、1997年3月に阿南市の海岸に漂着したもので、体長16.3m、体重70トンを越える巨体だったようです。

PB270639鯨
 巨大な鯨を下から見上げます。

PC130018火電方面
 火力発電所と橘湾を眺めます。

PC130023カエデ3
 園内あちこちでカエデの紅葉が見られます。

PC130022カエデ2
 青空に紅葉が映えます。

PC130021カエデ
 ここには、エネルギーに関する体験学習の他、遊具や広場があるため、児童の遠足などにも広く利用されているようです。


大里古墳 2013/12/13(金)

 所用で県南を訪れたついでに、夕暮れの海陽町を散歩しました。

IMG_0417大里古墳
 今日のお目当ては大里古墳です。先日、阿波海南文化会村の博物館を訪ねてから現物を見てみたくなりました。
 博物館の受付で場所を教えていただきましたが、海陽中学校の南西の道路沿いにポツンとありました。

IMG_0421古墳入口
 1952年に徳島県史跡第1号に指定された大里古墳は、6世紀終わりから7世紀初めにかけて造られたもので、直径約20メートル、高さ約5メートルの円墳ですが、墳丘の土は流失し、天井が露出しています。
 海部川流域を中心とする海部地方一帯を掌握した首長クラスの人物の墓と考えられています。

IMG_0422赤
 ケイトウが夕日に輝きます。

IMG_0424すすき
 ススキの原っぱがありました。

IMG_0427阿波海南文化村
再び阿波海南文化会村に寄ります。

IMG_0434展示
 大里古墳の模型です。

IMG_0432冥福石碑
 博物館の入口にある石碑です。
 1670年に浅川船・船頭勘左衛門一同が、紀州でみかんを積んで江戸に運ぶ途中、難破、70日余り漂流し、小笠原島に漂着しましたが、勘左衛門はここで力尽きてしまいます。最初の小笠原島発見者として、父島に冥福の碑があるそうです。

IMG_0429染色店
 海南文化会村で開催中の染色展を覗きます。

IMG_0431藍染め
 趣のあるきれいな作品が展示されていました。





丸山 2013年12月7日(土)

 鳴門市の「ばんどうの鐘」がある丸山(120m)に登りました。

IMG_0365頂上
 道の駅付近から頂上の「ばんどうの鐘」を見上げます。

IMG_0350ドイツ館
 まず、「鳴門市ドイツ館」に寄ります。
 「板東俘虜収容所」で、俘虜となったドイツ兵と地元住民がが築いた親交・友情を記念して造られた施設です。

IMG_0392松江署長
 当時、松江所長の人道的管理方針のもと、音楽やスポーツ、演劇など様々な文化活動が活発に行われ、地元民との温かい交流が生まれました。

IMG_0398第九
 1918年6月に、ここで日本で初めて第九全楽章が演奏されたこと、先進的ドイツの技術や文化にふれ友好が深まっていたことなどを詳しく知ることができます。

IMG_0390ベートーベンと猿
 ベートーベンの像の左側の階段を登ります。野生のニホンザルがたくさん集まっています。

IMG_0352登山道
 頂上まで全て石段で整備されています。

IMG_0358ばんどうの鐘
 頂上の「ばんどうの鐘」です。
 日独友好と恒久平和を願って、1983年に都市計画事業により建設されました。
 塔の高さは13m程で、中にある鐘はドイツで鋳造されたものです。

IMG_0357展望
 頂上からの徳島市方面の眺めです。

IMG_0360下り
 反対側に下ります。こちらは緩やかなスロープです。

IMG_0362分岐
 四阿を3つほど過ぎると、高速バス停の分岐に出ます。折角ですので、高速バス停を経由してドイツ村公園へ寄り道します。

IMG_0345バス停展望
 高速バス停付近からドイツ村公園を眺めます。

IMG_0330坂東俘虜収容所跡
 歩道を下ると「坂東俘虜収容所跡」に出ました。
 映画「バルトの楽園」で有名になりましたが、第一次世界大戦期、ドイツの租借地であった青島で、日本軍の捕虜となったドイツ兵約1000名が、1917年から1920年までここに収容されました。
 板東俘虜収容所跡地の内、東側の約1/3が「ドイツ村公園」となっており、当時の収容所の基礎(煉瓦製)や給水塔跡、敷地内にあった二つの池や慰霊碑が残されています。
 
IMG_0331ドイツ橋
 広場にある石橋は、ドイツ兵士が造った当時のドイツ橋を模したものです。

IMG_0343ドイツ人墓
第一次世界大戦(1914~18年)中、日本各地の収容所で死亡した85名のドイツ兵士の慰霊碑(1976年序幕)です。 歿した兵士の名前が刻まれています。
 
IMG_0337紅葉
 園内の紅葉も見頃です。

IMG_0363こども広場登山口
 分岐まで引き返して坂を下ると、こども広場に出ました。

IMG_0407香川記念館
 最後に、「鳴門市賀川豊彦記念館」を見学します。
 賀川豊彦(1888-1960)は、明治21年に神戸で生まれましたが、幼くして両親を亡くし、4歳から16歳までを父の故郷の鳴門市大麻町で育ちました。

IMG_0404内部
 孤独、家の破産、病苦など、多くの苦難を乗り越え、21歳のときに神戸のスラム街に移り住んで社会的弱者の救済活動に身を投じ、日本の社会運動の草分け的存在となりました。
 世界的な平和運動家でもあった賀川は、世界連邦運動をはじめ、ガンジーやアインシュタインらとともに徴兵制廃止などを提唱し、正にノーベル平和賞の候補に相応しい真の実践家だったことが覗えます。
「友愛・互助・平和」を説いた賀川豊彦の活動は、比類なく多くの教訓を今もなお強く与えています。 


(参考タイム)

ドイツ館横の登山口13:00発 → 頂上(ばんどうの鐘)13:15着 → 高速バス停分岐13:30着 → ドイツ村公園(板東俘虜収容所跡地)13:45着 → 高速バス停分岐14:20着 → 子ども広場14:30着


板野町界隈  2013/12/5(木)

 所用の後で、のんびりと板野町内で過ごしました。

IMG_0284埋蔵文化センター
 まず、以前から機会があれば是非訪ねたいと思っていた、板野町の「徳島県立埋蔵文化財総合センター」を初めて覗きました。

IMG_0275銅鐸
大量の遺物の中で、とくに注目されるのは銅鐸です。このような埋納状況が判明した銅鐸は非常に珍しく、1995年6月15日に重要文化財(考古資料)に指定されました。


IMG_0283竪穴式石室
 屋外で展示されている西山谷2号墳です。石室は吉野川南岸の青石を用い、3世紀半ば頃につくられた全国でも最も古い石室の一つです。

IMG_0384あすたむらんど
 次に、板野町の「あすたむらんど徳島」を訪ねます。山の紅葉が彩りを添えています。

IMG_0373入口1
「あすたむらんど徳島」は、事業費約230億円で大型公園と子ども科学館を一体的に整備し、2001年7月にオープンした徳島県の施設です。
 
IMG_0377入口
 子ども科学館やプラネタリウム、遊具や広大な芝生広場、四季折々の草花が楽しめる広い庭園があります。今日は、人気のプラネタリウムが臨時休館のためか入園者が少ないです。

IMG_0376紅葉
 園内の紅葉も見頃です。

IMG_0368旧吉野川
 旧吉野川から大麻山を眺めます。鴨がたくさんいます。

IMG_0323高徳線
 さて、いきなり夕暮れの高徳線です。二両編成の高松行きが夕日に向かって阿波川端駅を出発しました。

IMG_0321夕日
 夕日は高越山の尾根にゆっくりと沈みました。





大麻山 2013年12月1日(日)

 久しぶりに鳴門市の最高峰、大麻山(538m)です。

IMG_0288大麻山
 今回は卯辰越の登山口からのピストンです。登山口から大麻山の頂上を見上げます。

IMG_0289登山道
 気持ちのいい尾根を登ります。

IMG_0290ツバキ
 ツバキが満開です。

IMG_0294徳島市方面
 徳島市の眉山が少し霞んでいます。

IMG_0300石段
 参道の最後の急な石段です。いつもこの階段に苦しめられます。

IMG_0301頂上
 やっと頂上に着きましたが、直ぐに反対側へ下り、77番鉄塔を目指します。

IMG_0302展望
 77番鉄塔から瀬戸内海の展望です。

IMG_0305紅葉
 小豆島も見えています。

IMG_0307紅葉
 木漏れ日の登山道をのんびり歩きます。

IMG_0311大麻山
 ドイツ館の駐車場から大麻山を振り返ります。


(参考タイム)

卯辰越登山口10:45発 → 大麻山分岐11:30着 → 頂上11:45着 → 77番鉄塔11:56着・12:05発 → 卯辰越登山口12:40着

 気持ちのいい山歩きでした。







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Author:トンボのDon
 山歩きと自然が大好きなトンボのDonです。
 いい汗かいて、青空の下でキレイな景色にめぐり逢いたいといつも思っています。
どうぞよろしく(^^)/

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