「花の百名山」 田中澄江著 (文芸春秋)

今さらですが、本書は1978年から3年間にわたり「山と渓谷」に連載されたものをベースにして、1997年に刊行されたもので、巻頭には、百の山の花のカラー写真が収録されています。
山と花をこよなく愛し、日本中の山や峠を歩いた紀行文と、山と花への思いを綴ったエッセイです。読売文学賞受賞作です。
山好きだった著者の父親は40歳で病気により亡くなり、著者はまだ小学校1年生だったそうです。
「お父さんは山にいる」と、「その思いを胸において、私は山を歩き続けていった」そうです。
「山はいのちをのばす」 田中澄江著 (青春出版社)

本書の執筆当時(1997年)、89歳だった著者は、登山歴が約70年間に、峠の数も加えると900近くの山へ登っており、そして現役の登山家だったというのには驚かされます。
「人間の一生の短さにくらべたら、大自然のいのちは悠久です。山路に一歩入るだけで、私は89歳でありながら、14歳のときの昔と、ちっとも変わらない自分を見出すことができるのです。」
「山は人間に与えられた最高最大の人間鍛錬の場です」と、山登りを勧めています。
「住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち」 川口 マーン 惠美 著 (講談社プラスアルファ新書)

ドイツ在住30年、3人の子供を育てたシュトゥットガルト在住の著者が日本やドイツについて感じたことを記述しています。
本の過激なタイトルはともかくとして、やや美化された日本が語られていますが、実際に長期間現地に暮らしてきた経験に基づく記述だけに、とても参考になるものが多いです。
領土を守るには実効支配し、それを裏付ける軍事力が必要だと歴史が証明している、という指摘や、ドイツも日本も、「永遠の加害者」で、たくさんお金を出しても、たいして感謝されていない、という指摘は、全くそのとおりだと思います。
「黒田如水」 吉川英治著 (新潮文庫)

来年のNHKの大河ドラマは「黒田官兵衛」で、人気グループV6の岡田准一が官兵衛を演じるそうですが、書店で「2014年NHK大河主人公・戦国時代最強の軍師」という本帯に目が引かれ、本書を読みました。
本書は、姫路生まれの「天才軍師」と称される「黒田孝高」(別称は官兵衛[出家後に如水] 1546年~1604年)の半生を、無駄のない文体で見事に描かれた歴史小説の神髄に浸れる素晴らしい作品です。
勘兵衛のどこまでも実直な人柄や、竹中半兵衛との友情が美しく感動的に描かれています。特に、伊丹城での幽閉や、勘兵衛を慕う臣下の救出の働きなどを非常に詳しく描くことによって官兵衛の人となりをうまく浮き上がらせています。
そして、信憑性はともかくとして、クライマックスの松寿丸との再開は、信長の前で果たしますが、「何事も信長の過ちから起こったことだ。まず信長の過ちをゆるせ。」などと、深い感動を呼ぶ効果的な演出になっています。
「眠れないほど面白い『古事記』」 由良弥生著 (王様文庫)

「シリーズ累計89万部突破」が書店で目に付き、本書を購入しましたが、日本最古の書物とされている「古事記」が、非常に分かりやすく表現されています。
神々の大胆で信じ難いほどストレートな野望と愛欲の数々がふんだんに描かれています。まさに、「愛と野望、エロスが渦巻く壮大な物語」です。
古事記は、もともと「神々と天皇家の系譜を明らかにする目的でつくられたもの」なので、言わば恣意的な「大人のおとぎ話」なのですが、日本の神話に登場する神々や歴代の天皇が非常に俗っぽい存在に描かれている上、168歳や153歳という長寿や、2m80㎝の長身という想像を絶する天皇が存在したとは、あまりにも度が越え過ぎですよね。
「古代道路の謎」 近江俊秀著 (祥伝社文庫)

今から約1300年前に、幅が6m~30m(江戸時代の五街道より広い)、推定総延長距離が6300kmという巨大な道路網が建設され、実際に使われていたというのです。
これは1966年に計画された全国高速道路網のうち、北海道を除く総距離に匹敵する規模なのです。
本書は、文化庁文化財調査官がこの道路の謎に迫ったもので、現代の道路整備における大切なメッセージが読み取れる「駅路の歴史」書です。
古代にこれほどの道路がなぜ建設されたのか。古代道路の専門家である著者は、「駅路建設は天武天皇による“列島改造”だった」と説きます。
当時の日本が目指したのは、強大な中央集権政府である「律令国家」だったので、「中央にすべての権限を集中させ、地方は中央から出向いた役人を置いて統治させる。そのためには、地方拠点と中央を最短距離で連結する道路が必要になるのは昔も今も同じ」だったというのです。
しかし、8世後半から道路の幅員が縮小され、11世紀初頭までには地方の道路網の中に埋没してしまいます。そして、明治に再び中央集権国家が建設されるまで、日本列島にこれほどの道路網が整備されることはなかったのです。
「鳥居龍藏のみた日本」 田畑久夫著 (古今書院)

本書は、日本国内において日本民族の起源・文化の源流を追い求める鳥居龍蔵(1870-1953)の、主に日本列島に関するフィールドサーヴェイ(野外調査)(大和、信濃、日向、武蔵野、沖縄、千島列島、朝鮮半島)を詳しく取り上げ、鳥居龍蔵の現代における学問的位置づけや意義を分かりやすく解説しています。
著者は、鳥居龍蔵について、「海外の科学的な分析主峰を用いて本格的なフィールドサーヴェイを行ったわが国の先駆者として、大変著名な研究者で有り、その研究業績も多い」と述べています。
しかし、鳥居龍蔵を評して、「孤高の人」(松本清張)、「無冠の人類学者」(中薗英助)、「探検型学者」(江上波夫)などと形容されることがあるのはなぜか。
このことについて、著者は、「日本が植民地にしたり、侵略を行った地域と一致する」ことから、一部の研究者から旧日本軍との関わりが揶揄され、「無視又は閑視するという傾向が見られ」、それが現在まで続いていると、指摘しています。
また、鳥居龍蔵は、一般読者をも対象とした図書を刊行しなかったため、同じ民俗学の大物である柳田國男・南方熊楠とは大きく異なったと述べています。
「農耕社会の成立」 石川日出志著 (岩波新書)

本書は、岩波新書の日本古代史シリーズの 第1巻で、考古学を専門とする教授が、農耕社会が成立した弥生時代を分かりやすく解説しています。
著者は、考古学は、「資料の制約から、現在でもどうしてもわからないことは数多く、それに対して、『これが歴史的事実だ』と断言しうる事柄はかぎりなく少ない」と言い、終始謙虚に解説しています。
弥生文化は、鳥井龍蔵らにより、縄文時代の人々とは異なる、新たに大陸から渡来した別の集団の文化である解釈としてきたのに対して、その後発掘された弥生時代初期の遺跡等により、縄文時代の文化がゆるやかに変化していったものであるとしています。
しかし、最後に、「縄文文化という森林性新石器時代文化から、古代史の世界ではヤマト王権の時代ともいう古墳時代の政治的社会の時代文化への、変化過程として弥生時代文化を理解するのがもっとも穏当であろうか。なんとも弥生時代文化の理解は一筋縄ではいかない」と述べているのが印象的です。
「ヤマト王権」 吉村武彦著 (岩波新書)

本書は、日本古代史研究者が、2010年に刊行した本で、上記の日本古代史シリーズの 第2巻です。
日本列島にはじめて成立した統一国家、謎の多いヤマト王権について、限りある史料を詳しく解釈し、諸説をも紹介しながら、ヤマト王権の成立や支配体制の実像に迫ります。
当時の手がかりとなる日本の歴史書、「古事記」・「日本書紀」は、後の時代(712年・720年)の編纂物であり、必ずしも史実を伝えているものではないので、文献史料が僅かに残る中国正史や金石文の断片的な史料を、根気よく紐解いていくという気の遠くなる世界です。
著者は、次のように述べています。
「ヤマト王権は、四世紀前半に成立したと想定され、律令国家が形成される七世紀後半まで存続した王制の政治的権力機構である。しかし、『謎の四世紀』と言われるように、その成立時期は、いまだに謎に包まれている。」
「本書では、倭国としての政治的統合の最終段階として前方後円墳の成立を考え、その結果、次の新しい段階にヤマト王権が成立したという論を展開した。この見解は、前方後円墳の成立をもってヤマト王権の形成を考える、従来の見解の再検討を迫るものである。前方後円墳の形成から終末までの歴史が、ヤマト王権の成立から律令制国家成立までの課程とパラレルに合わないだけではない。どうしてもヤマト王権の諸画期と、関連づけることが原理的に難しいのである。」
「飛鳥の都」 吉川真司著 (岩波新書)

日本古代シリーズの第3巻です。
奈良県明日香村の甘樫丘からの眺めで始まる、本作の「はじめに」は、素晴らしいイントロです。
「丘の上から東を望むと、すぐ足もとを飛鳥川が流れている。万葉人が移ろいやすい心に喩えたその流れは、竜門の山々に源を発して、石舞台古墳あたりからゆるやかに北流し、飛鳥の小盆地を潤している。まさしく飛鳥の『母なる川』である。」
推古天皇の即位から大化改新、白村江の戦い、壬申の乱、そして大宝律令直前までの7世紀史です。
著者は、「七世紀史はこの半世紀、日本古代史研究の『主戦場』であった。個性あふれる学説が林立し、論争が繰り広げられてきた」と述べていますが、詳しい割には一般人に分かりやすく書かれています。
日本は、古代・飛鳥時代から、大陸との関係がいかに深く重要であったかということが改めて分かります。
「平城京の時代」 坂上康俊著 (岩波新書)

日本古代シリーズの第4巻です。
唐帝国を手本にした大宝律令で幕を開けた8世紀の日本を、コンパクトながら非常に詳しく解説しています。
著者は、次のように述べています。
「平城京の時代が現代まで残した最大の遺産は、日本の国家の『枠組み』である。」
「その『枠組み』の中に、天皇がしっかり嵌め込まれたのも、平城京の時代ということができる。・・・新しい統治技術と矛盾しない形で天皇は存在し続け、この時代が過ぎたとき、『系譜と神話』を中核に据え続けたまま、『法と制度』の外皮にもしっかりと守られることになっていたのである。」
なお、この時代は「土臭い豪族が洗練された貴族に転身」した時代でもあり、「律令国家の成立とは、天皇を頂く畿内豪族らによる全国支配の達成という評価も可能」と。
「平安京遷都」 川尻秋生著 (岩波新書)

日本古代シリーズの第5巻です。
本書では、8世紀末の桓武天皇の時代から、10世紀後半の摂関期のはじめまでを詳しく分かりやすく解説しています。
本書間冒頭で、明治天皇が天皇の服装が平安時代から「唐風」であるとして、西洋風に改めるために明治4年に勅を発したことを紹介していますが、平安時代は、明治初期までの日本文化に大きな影響を与え続け、まさに日本文化の基礎を形成したのだということが理解できます。
また、著者は次のように述べているのが印象的です。
「それまでの自国の文化を排斥し、今後規範とすべき地域や国の文化を導入するという意味で、二つの改革、すなわち明治の西洋化と平安の唐風化は、見事な対比をみせていることになる。後者で模範とした中国が前者で切り捨てられたのは皮肉であるが、千年以上離れていても、外来文化に対する日本の立ち位置の共通性と、中国の影響の強さをみることができよう。」
本書では、最澄・空海についても詳しく解説されています。
実際の二人の渡唐は困難を極め、仏教の奥義伝授についても綱渡りの結果論であったことから、著者は、「最澄や空海が第三船や第四船に乗り込み、難波して渡唐できなかったとしたら、平安時代の宗教界はまったく異なったものになっただろう。・・・その影響は現代に至るまで計り知れない。島国日本の宿命とは言え、中国文化は、かなりの偶然性と選択制をもって請来されたと言えるだろう。」と述べています。
「摂関政治」 古瀬奈津子著 (岩波新書)

日本古代シリーズの第6巻(最終編)です。
本書は、摂政や関白となって天皇の代理、あるいは補佐役として政治の実権を握る政治システムをつくった藤原道長(966-1028)を中心とし、宮廷・貴族社会や文化等について詳しく分かりやすく述べられています。
「9世紀半ば、清和天皇が9歳で即位したことは、幼帝でも天皇制が機能するようになったことを示していた。そして、応天門の変という政変を契機に、天皇大権を代行する摂政が登場する。・・・その後、天皇の外戚である藤原氏が、幼帝の時は摂政、成人すると関白となり、天皇を補佐する摂関政治が始まる。(中略)天皇制を前提として、政治の実権は摂関が握るというあり方は、その後の日本における政治の仕組みとなっていく。」
また、著者は、紫式部とか清少納言などの「女房文学が摂関期に最盛期を迎えたのは、彼女たちが独自の政治権力を握っていた皇后や中宮に仕えたことによって、女房自身も政治の表舞台に立つことになり、その文学も緊張感を増し、社会的な意義が大きくなったためであった。女房文学自体は中世以降も続いていくが、摂関期のような隆盛を再びみることはなかった。それは中世以降の社会構造の変化によるのだろう。」と、述べているのが印象的です。
「正倉院の謎」 由水常雄著 (中央文庫)

本書は、1977年に徳間書店から出たものを1987年に文庫化されたものですが、以前に縁があっていただいた大切な本なので、改めて読みました。

著者は、独自の長年の調査研究をまとめたもので、正倉院の起源と宝物について驚くべき新説を唱えています。
正倉院の宝物は、奈良時代に光明皇太后によって聖武天皇の冥福を祈って納めたものと考えられていますが、正倉院は、藤原仲麻呂のクーデターのための武器庫、宝物庫からスタートしたと言うのです。
しかも、奈良時代に、光明皇太后によって正倉院に収められた聖武天皇の遺品約740点のうち、現存するのはわずか150点ほどにしか過ぎず、現存する大部分(9000点以上)は、後の時代に新しく納められたものだと言うのです。
奈良時代から明治時代に至るまでの、各時代の所蔵一覧表や権力者による閲覧の記録を丹念に分析して、宝物の紛失や入れ替わりを論理的に推測しています。
また、正倉院の現在の管理体制の在り方についても、問題があることを指摘しています。
要するに、現在の正倉院の宝物は、すべてが奈良時代のものではあり得ないということですが、問題は専門家や管理者がその気にさえなれば直ちに解析できる筈なのに、権力者側に不都合な情報は未だに明らかにされないことではないでしょうか。
「鑑真」 東野治之著 (岩波新書)

史料が少なく、不明な点が多く諸説ある鑑真の活躍等を、一般人に分かりやすく述べられています。
5回も失敗の末、754年に総勢24名で、ようやく果たした鑑真の渡来、これにより日本にもたらした唐文化の影響は計り知れないと言われますが、肝心の「戒律」は日本では根づかなかったのです。

著者は、次のように述べています。
「僧侶の無戒が当たり前の日本では全く気づかれませんが、これはアジアを中心に広がる仏教圏の中では大変特殊なことです。・・・無戒が公認されている仏教は世界に類がありません。この点で日本の仏教が、国際基準を満たしていないということは、日本人が自覚しておくべきことではないかと思います」。
中国では僧侶の結婚も認められないそうですが、日本の仏教は上からの奨励で広まり、当時の「僧侶は官人的な性格」を持っていたことと関係があるのかもしれません。
また、鑑真が創建した唐招提寺は、1998年に、東大寺や興福寺、薬師寺などとともに古都奈良の文化財として世界遺産に登録されましたが、まさに日中友好の貴重な遺産であり、鑑真は日中友好に命がけで尽くした先人だったのです。
「天平の甍」 井上 靖 著 (新潮文庫)

8世紀前期、日本の仏教界に正しい戒儀を整えるため、「適当な伝戒の師を請じて、日本に戒律を施行したい」と、2人の留学僧を唐に派遣します。
本作は、その留学僧を通して、「鑑真」の苦難の日本招聘を、臨場感たっぷりに描いた感動の歴史小説です。
当時の鑑真の来日は、密航せざるを得なかったので官憲に阻まれたり、順風が頼りなりで暴風波浪に遮られたり、遙か南方の海南省まで流されたりの連続で、結果として、渡日までに実に12年もの日時を要したため、鑑真は67歳の高齢となり、その上、弟子や栄叡の他界や鑑真自身の失明など厄が伴うという、なんとも想像を絶する難行だったのです。
55歳の鑑真が決断する描写が特に印象的です。
「この一座の者の中でたれか日本国に渡って戒法を伝える者はないか」(中略)
たれも答える者はなかった。すると鑑真は三度口を開いた。「法のためである。たとえ渺漫(びょうまん)たる滄海が隔てようと生命を惜しむべきではあるまい。おまえたちが行かないなら私が行くことにしよう」
一座は水を打ったようにしんとなっていたが、・・・鑑真と、十七名の高弟が日本へ渡ることが須臾(しゅゆ)の間に決まったのである。」
「背教者ユリアヌス」 辻 邦生 著 (中公文庫)

南川高志氏の「新・ローマ帝国衰亡史」(岩波新書)に、本書が紹介されていたのを機に読みました。
ローマ帝国は外敵ではなく内部から崩壊したと言われるように、実際には宮廷内部で様々な利権が絡んだ熾烈な勢力争いが繰り返され、浪費と陰湿な闘いが繰り広げられていたと考えられますが、本書では、帝国末期の宮廷内の陰謀勢力を分かりやすく描いています。
統治や軍隊の指揮経験もなく、ひたすら哲学の勉学に熱中する純真で聡明な青年哲学者ユリアヌスが、純愛する皇后の助けを得て、巨大帝国の安定という使命に無欲で燃え立って行く様を、親友や軽業師とのエピソードを交えながら見事に描いています。かなり長編ですが、一気に読ませる素晴らしい作品です。
「背教者」とはキリスト教徒から見た評価ですがですが、このタイトルには違和感が付きまといます。
ユリアヌスは、完全にキリスト教を禁じたわけではありませんが、「ローマ帝国にギリシャ古来の秩序をもたらす」ために、伝統的なローマ神教を復活させようとしたことから、後にキリスト教会から「背徳者」と呼ばれたようです。
要するに、常に哲学的思想により真実を求め続けたユリアヌスには、排他的な弊害がよく見えていたのです。