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京都の紅葉 2016年11月22日(火)

 嵯峨野トロッコ列車に初めて乗りました。

_MG_6220トロッコ電車
亀岡駅からトロッコ列車に乗ります。

IMG_8977満席
列車は満席です。乗客はほとんどが外国人でした。

_MG_6217タヌキ
 駅にはタヌキがいっぱい。

_MG_6219タヌキ2
 のどかな景色です。

_MG_6224トロッコ
 川沿いの紅葉を眺めます。意外に地味でした。時間も短いし・・・。

_MG_6228川下り
 川下りの船が見えます。

IMG_9001嵐山高雄パークウェイ
 続いて、嵐山-高雄パークウェイをドライブ。

_MG_6257京都市街
 小倉山展望台から京都市街を眺めます。

_MG_6233カエデ
 最高の紅葉が観られました。ベテランの添乗員さんも驚いていました。

_MG_6250カエデ大
 このところの急激な温度変化のおかげで、今年の京都の紅葉はかなり美しいそうです。

_MG_6244カエデ5
 青空だし最高です。

_MG_6238カエデ3
 紅葉が終わりかけのカエデも多いです。

_MG_6262保津峡
 保津峡展望台からの眺めです。逆光ですが、トロッコ列車と船が見えます。

IMG_896すき焼き会食
 今日の昼食は、丹波牛すき焼き会席を堪能しました。

IMG_8967すき焼き
 肉もいいですが、松茸づくしでもあり美味しかったです。



最近読んだ本 2016年11月19日(土)

「穂高の月」   井上 靖 著  (ヤマケイ文庫)
IMG_8467穂高の月
 「『あすなろ物語』『しろばんば』に描かれた故郷・天城によせる思い、『氷壁』の舞台となった穂高岳への山行、さらにはネパール・ヒマラヤへの旅。文学者の自然観と、作品構築に至る思索が表われたエッセー五十篇を収録。自然と旅を背景とした作品の成立過程をたどる」(本の紹介より)。
 本書は、作家井上靖(1907-1991)の山と自然にまつわる素晴らしいエッセー集です。
_MG_3434大正池と穂高
 登山とは全く無縁だった50歳の頃の著者は、仲間と穂高での観月が切っ掛けで、梓川や樹林帯の魅力にすっかりとりつかれて何度もそこを訪ね、「氷壁」の執筆にも繋がり、エレベストの麓までも訪ねる山好きになります。
 多くのページにそのことが繰り返し語られていますが、文学者による確かな筆致で綴られており、とても心地よくたのしませてくれます。当時の山の情景などを想像するのもたのしいし、何度も読み返したくなる文庫です。





「山の旅」  明治・大正篇 / 大正・昭和編 近藤信行編  (岩波文庫)
IMG_1601山の旅
 「明治・大正編」に23編、「大正・昭和編」に37編の、主に山や自然、旅などのエッセイがおさめられています。
前編は、武田久吉などの近代登山家や、「剱岳点の記」(新田次郎著)の主人公の測量官芝崎秀太郎の文章、また正岡子規、幸田露伴、芥川龍之介など有名な文人の登山記などが集められています。明治時代は紀行文学全盛期だったことが覗えます。
 そして、後編には、大正末期から昭和30年代までの日本をリードしたクライマーや著名人が綴ったものが多く集められていますが、中には、井伏鱒二の「七面山所見」のユーモラスながら団体登山への風刺や、寺尾寅彦の「雨の上高地」、小林秀雄の「カヤの平」斎藤茂吉の「遍路」なども印象的です。
_MG_3415カラ松高原
 登山装備や通信交通などの発達とともに、日本人の山に対峙する変遷を感じることができます。
 「山は有り難いものだと思う。山は眺めて有り難く登って有り難く、想っても有り難い」(中村清太郎「山岳礼拝」より)
「登山は近代化の心のうちに鬱然と力強く芽生えそして生成した。・・・近代の登山は、ひろい意味の浪漫精神を基調として発達した。・・・山登りにおける日本的なもの、それはあくまで静観的な態度である。静観的な漂泊的な山旅である」(伊藤秀五郎「山と漂泊」より)





「科学者と戦争」  池内 了 著  (岩波新書)
科学者と戦争
 戦時中の科学総動員体制の反省のもと、日本学術会議は1950年の総会で、「戦争を目的とする科学の研究には絶対に従わない決意の表明」を行い、平和憲法に沿った取り組みが長く行われてきました。しかし著者は、最近の「軍学共同」が進みつつある実態を明らかにし、急速に「国全体として安全保障に名を借りた軍事優先の方向に走り出している」ことを指摘し、その動きに強く警鐘を鳴らしています。
 そもそも、国立大学の独立法人化により研究予算が大幅に削減されたため、研究を続けるために外部資金を探さなければならないということに大きな問題があると思います。
 「科学技術立国」日本と謳いながら、論文のシェアや引用度の高い論文数が減少し、さらに先進技術開発などの衰えがみられるという評価はさみしい限りです。天然資源のない小さな国にとっては致命傷となります。
 一方、ノーベル物理学賞(2014年)の中村修二氏(カリフォルニア大学教授)は、「アメリカ国籍でないと軍の予算がもらえないし、軍に関係する研究も出来ない。それで市民権を取得した」と、ハッキリ述べているのには驚きました。
「人格なき学問、人間性が欠けた学術にどんな意味があろうか」というガンジーのことばは忘れ去られたのでしょうか。




「シャルリとは誰か?」  エマニュエル・トッド著  (文春文庫)
シャリルとは誰か
 「二〇一五年一月の『シャルリ・エブド』襲撃事件を受けてフランス各地で行われた「私はシャルリ」デモ。「表現の自由」を掲げたこのデモは、実は自己欺瞞的で無自覚に排外主義的であった。宗教の衰退と格差拡大によって高まる排外主義がヨーロッパを内側から破壊しつつあることに警鐘を鳴らす」(「BOOK」データベースより)。
 昨年1月11日に、フランス各地で犠牲者を悼むための大行進が実施され、その数は全国合計で少なくとも370万人に達したと発表されましたが、著者はこの一連の行動について極めて冷静に分析し、イスラム教とイスラム恐怖症問題を炙り出し、至って論理的にフランスの未来を予測します。
 「今われわれに与えられている選択肢--イスラム教と対決するのか、折り合いをつけていくのか・・・今、フランスは岐路に立っている。・・・(ただし)対決が失敗に終わる確率は100%である。・・・かくして私は、今も同化主義者である。・・・親切さは長い目で見て対決よりも効率的だからだ。対決はいつも憎しみを生み出し、双方を極端にする」(p272~p289)。





「23区格差」  池田利道著  (中公新書ラクレ)
23区格差
 「一人勝ちとも言われる東京で進む「格差」。ある区で少子化や高齢化が止まった理由とは? 子育て支援や医療の手厚い区、学歴・年収・職業が非凡な区とは? その力強さの秘密を東京23区研究所所長がデータで解析。成長のヒントはここにある! 23区通信簿付き」(内容紹介より)。
  「東京一極集中」の勢いは、弱まるどころか2020年に向けて順風満帆の勢いで加速中ですが、東京23区内には大きな違いのあったことが分かり、なかなか興味深く読めます。ただし、根拠データのあやふやさに疑問符が付きますが、そもそも気楽にたのしむ本だと思います。
 著者は、合計特殊出生率の47都道府県中最下位は東京ですが、この10年間で子どもの数が増えた都道府県は、神奈川(0.3%増)と東京(4.0%増、23区では5.1%増)だけで、東京の出生率は低くとも、人口は増加し、子どもの数も増えているという。
それは、人口の社会移動がもたらした結果だとし、転出入が多くて新陳代謝が活発であれば、まちの活気が維持されることを指摘します。





「夏目漱石、現代を語る」  夏目漱石著・小森陽一編 (角川新書)
IMG_8342夏目漱石
  2016年5月の初版を読みました。今年は夏目漱石の没後100年ということで、新本の出版やNHKドラマ「夏目漱石の妻」の放映、地方新聞の連載(「漱石を読む、漱石を歩く」)など、漱石の話題には事欠きません。
 夏目漱石による1911年8月に行われた大阪朝日新聞社主催の講演会、明石、和歌山、堺、大阪と、1914年11月の学習院での講演会の5本を紹介し、漱石研究の第一人者がそれを分かりやすく解説しています。
 当時の講演内容は、現代にも十分に通じるもので、100年前の日本が激しく変容していく空気はそのまま現代も存在するように感じられ、100年たっても私たちが抱える問題は何ら変わっていないことに失望しますが、むしろ、それだけ漱石の哲学的思考は日本人や社会の核心をついたものであることの証です。
 英国留学を通して西洋と向き合い、改めて日本をながめて考えた漱石は、「自己本位」と「他人本位」の相対立した視点の重要さに気づいたことを明かします。
「私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気概が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります」(p.186)。
 漱石は、西洋人の受け売りや盲従ではなく、立ち位置は「自己本位」で無ければならないが、決して他者否定ではなく、「他者は賓である」と他者との共存を語っています。この考え方は、漱石の晩年に理想とした「則天去私」に示されるように、小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きる境地に結びついたのです。





「漱石紀行文集」  藤井淑禎 編  (岩波文庫)
IMG_8654漱石紀行文集
  2016年7月の第一刷を読みました。
 漱石は、友人である南満州鉄道総裁の中村是公に誘われて、1909年9月から10月にかけて満州・朝鮮を旅行しまた。その紀行文が「満韓ところどころ」で、本書の大部分を占めます。日露戦争勝利後で、ハルビンでの伊藤博文狙撃直前、韓国併合前の現地の様子を、持病の胃痛に苦しみながらユーモラスに描いています。
 藤井氏の解説によると、現地読者向けと「内地」の読者向けとを区別して書き分けられいたそうです。立場の異なる読者に対して、細やかに配慮がなされていたのです。
 その他に、「倫敦消息」「自転車日記」「京に着ける夕」と、5つのエッセイが収録されており、どれも非常に興味深いものです。







「漱石のことば」  姜尚中 著  (集英社新書)
漱石のことば
 本書は、著者が選んだ夏目漱石の148の名言を紹介し、簡潔に説明を加えたシンプルな良書です。
 今まで気がつかなかった漱石の名言に出会えます。
・「明治ノ事業ハ是カラ緒ニ就クナリ。今迄ハ僥倖ノ世ナリ。準備ノ時ナリ。・・・四十年ノ今日迄ニ模範トナルベキ者ハ一人モナシ」(断片、明治三九年より)。
・「世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日の当たる場所には屹度影がさすと悟った。三十の今日はかう思ふて居る。--喜びの深きとき憂愈深く、楽みの大いなる程苦しみも大きい。之を切り放さうとすると身が持てぬ。片付けやうとすれば世が立たぬ」(「草枕」より)。
・「文芸は技術でもない、事務でもない。より多く人生の根本義に触れた社会の原動力である」(『三四郎』より)。
・「間違ったら神経衰弱でも気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文学者になれないと思ふ」(鈴木三重吉宛書簡明治39年10月)。
 最後に、著者は次のように述べています。
 「漱石は、飽くことなく、光と豊かさ、繁栄と成長を求め続けた近代日本の絶頂期に、いちばん初めに『憑きもの』が落ちてしまった希有な作家であり、知識人だったのです」。
漱石は心を病んでいた…。著者は分析しています。そんな内容の言葉を読んで、心を病んでいる自分も少し癒やされました。おすすめです。





「漱石の思い出」  夏目鏡子述 ・ 松岡 譲 筆録  (文春文庫)
漱石の思い出
 本書は、漱石と暮らし生活を共にした妻・鏡子夫人の視点から、主として家庭における明治の大文豪の姿を赤裸々にしています。
 しかし、井川淵町で起こした自身の白川入水事件には一切触れず、鏡子夫人は明け透けとものを言う割には、オブラートで包み込んだような表現を全般的に感じます。それは、夏目家やその関係者のことなどを考えれば当然のことであり、あくまでも鏡子夫人の感慨深い思い出の記述だということです。
 本作は、昭和3年に雑誌 「改造」 に連載され、のちに大幅に加筆の上、十三回忌に合わせて出版、それを文庫本にしたものですが、軽量にするため写真はすべてカットされたのが残念です。
 鏡子夫人の語りを、作家の松岡譲氏(「木曜会」メンバーであり、漱石の長女筆子の夫)が取りまとめた回想録という体裁をとっていますが、最後に添付されている松岡氏の四女、半藤末利子さん(漱石の孫)の解説が、より一層印象深いものにします。
1916年12月9日、漱石が息を引き取る約1時間前、見舞いに来た高浜虚子が、「夏目さん」と呼びかけると、「ハイ」と返事。「僕高浜ですが・・・」に、「ありがとう」と応じ、やがて昏睡状態に陥ったようです。





「漱石の妻」  鳥越 碧 著  (講談社文庫)
漱石の妻
 「悪妻として知られる夏目漱石の妻・鏡子。潔癖症の漱石と、おおらかで大雑把な鏡子の夫婦生活は、船出から食い違い、英国留学を経て重度の神経症を患った漱石との暮らしは大波に揺れる。鏡子はなぜ悪妻と呼ばれたのか?二人はどうして別れなかったのか?余人には窺い知れない夫婦の絆を妻の視点で描く」(「BOOK」データベースより)。
様々な文献を読み解き、明治の文豪となる夫を、陰で支え続けた鏡子夫人の内面を詳細に描き出しています。
 前書の「漱石の思い出」よりも、読みよく分かりやすいですが、著者の創作力が加わり、夫婦の確執が極めて強調されていて、あくまでも鏡子夫人を描いた一つの作品だと思います。
 それにしても、若いときから漱石の引越回数の異常な多さ、そして教え子や弟子たちの漱石への傾倒ぶりと親友の多さには驚きます。結局、いい外面を保つことが重要だった漱石は、鏡子夫人に対しては母親のような包容力を強く求めていたのかもしれません。





「吾輩は猫である」  夏目漱石著  (新潮文庫)
吾輩は猫である
 中学の英語(リーダー)教師で、偏屈な胃弱の珍野苦沙弥先生の書斎に集まる明治の俗物紳士たちを、飼われている猫の眼でユーモラスに描いた長編小説です。
 「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたか噸と見当がつかぬ」と、これまでに何度も目を通した名作ですが、やや冗長な長編なので読み飛ばしてしまいがちです。
 結局、ゆっくり最後まで熟読したのは初めてです。
 本作は、人々の目には見えなくとも、ハッキリと感じさせられる社会の深刻な対立を、猫の語りを通じて無難に炙り出しています。それは、「利益社会と人格社会の争闘」をユーモラスに描いているのです。
 また、1905年頃の日露戦争の勝利に沸く日本社会の風刺や、哲学的思想が豊富にちりばめられているのもなかなか興味深く読めます。
特に、第6章では「大和魂」について痛烈に批判しています。
 「東郷大将が大和魂を有っている。肴屋の銀さんも大和魂を有っている。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有っている」と、当時のナショナリズムを痛烈に皮肉っています。
 また「送籍という男」のことが唐突に出てきますが、1898年以前の北海道にはまだ徴兵制がなかった時代、漱石は本籍をわざわざ北海道に移していたことがあったようです。前書の小森陽一氏の「あとがきにかえて」でも触れています。





「坊っちゃん」   夏目漱石著  (新潮文庫)
坊ちゃん
 1895年、28歳の漱石が、松山中学教諭に赴任した当時の体験を背景とした名作で、現在まで最も広く読まれている代表作です。
 「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」という『坊っちゃん』は、数学教師として赴任しましたが、校長は「狸」、教頭は「赤シャツ」など、信頼できそうな先輩には恵まれそうもなく、過去の癒やしである「清(キヨ)」の愛だけを抱いて孤軍奮闘しますが、どこまでも反俗精神に貫かれた奔放な行動は、何度読んでも痛快かつユーモラスです。
 「おれはここへ来てから、毎日住田の温泉へ行く事に極(き)めている」。もちろんそれは松山の道後温泉のことです。








「草枕」  夏目漱石 著   (新潮文庫)
草枕
 熊本の高等学校へ赴任中の漱石は、1898年正月休みに、小天温泉付近の前田案山子(1828-1904年、自由民権運動家、衆議院議員)の別荘に滞在し、その娘・卓(ツナ)に出会ったことを元に、本書が執筆されたことは有名です。
 会話の部分はユーモラスで読みよいのですが、随所に芸術論や文学論、文明・社会批判、そして漱石の俳句や漢詩が散りばめられ、美辞麗句で文章を飾った文体が際立つ異色の作品です。
 何度読んでも強烈な印象を残すのは冒頭です。
 「山路を登りながら、こう考えた。/智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。/住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。・・・あらゆる芸術の士は人の世を長閑(のどか)にし、人の心を豊かにするが故に尊い。/住みにくき世から、住みにくき煩いかを引き抜いて、有難いい世界をまのあたりに写すのが詩である、画である。あるいは音楽と彫刻である」。





「二百十日・野分」  夏目漱石著  (新潮文庫)
二百十日 野分
 「阿蘇に旅した“豆腐屋主義”の権化圭さんと同行者の碌さんの会話を通して、金持が幅をきかす卑俗な世相を痛烈に批判し、非人情の世界から人情の世界への転機を示す『二百十日』。その理想主義のために中学教師の生活に失敗し、東京で文筆家としての苦難の道を歩む白井道也と、大学で同窓の高柳と中野の三人の考え方・生き方を描き、『二百十日』の思想をさらに深化・発展させた『野分』」(「BOOK」データベースより)。
 「草枕」の題材となった 2年前の小天温泉へ同行した同僚の山川信次郎氏と二人で、1899年8月末から9月はじめにかけての、阿蘇旅行を基にしたのが「二百十日」です。1906年に中央公論で発表。
 二人は、南阿蘇村にあった戸下温泉に寄り、内牧温泉の養神亭(現・ホテル山王閣)で1泊、翌日、阿蘇神社に詣でた後、阿蘇山に登ったようです。
 落語か漫才のようなコミカルな会話を主にしたユニークな作品ですが、金と権力で威勢を振るう華族や金持ちへの憤りが込められ、にわかな近代化を批判する漱石の立ち位置が明らかにされています。
 二百十日は、台風の多い日もしくは風の強い日といわれるが、立春を起算日として210日目(立春の209日後の日)で、通常9月1日ごろを指しますが、小説を発表した1906年は9月2日でした。
 後編の「野分」は、雑誌「ホトトギス」に1907年に発表された中編小説です。
 発表した1907年は著者にとって大転機の年です。漱石はその年に東京大学の講師の職を辞め、朝日新聞社の専属小説家になった年です。妻子を持つ漱石が、職業作家という未知の世界へ飛び立つ時の大きな苦悩の跡が基になっています。
 漱石の価値観と人間観が語られ、これから羽ばたこうとする若者たちへのメッセージが詰まった教訓的な作品です。
・「枯れる前に仕事をするんです」
・「人間は道に従うよりほかにやりようのないものだ。人間は道の動物であるから、道に従うのが一番貴いのだろうと思います」
・「過去を未来に送り込むものを旧派と云い、未来を過去より救うものを新派と云うのであります」
・「自ら先例を作らねばならぬ。・・・偉大なる理想を有せざる人の自由は堕落であります。自己に何らの理想なくして他を軽蔑するのは堕落である」





「三四郎」   夏目漱石著  (新潮文庫)
三四郎
 東京帝国大学一部文科に通うために、熊本の郷里を離れて都の真ん中で生活することになった23歳の小川三四郎の青春を描いた小説です。
上京中、汽車で出会った女性の去り際に、「あなたは余っ程度胸のない人ですね」と言われた強烈な残像は、後に出会う都会の才女美禰子から教えられた「迷える子(ストレイ・シープstray sheep)」という謎めいた言葉に重なり、悩ましい青春時代を幻想的に見事に描くという、斬新さは現代にも通じるものです。
 本作は、後の「それから」「門」へと続き、漱石の前期三部作と言われています。
なお、苦沙弥先生に似た広田先生が登場し、傍観者的な余裕綽々の自説を展開するのも印象的です。
 「あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が拵(こしら)えたものじゃない」
 「自然を翻訳すると、みんな人間に化けてしまうから面白い。崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか・・・みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳する事の出来ない輩(もの)には、自然が毫も人格上の感化を与えていない」
 「近頃の青年は我々の時代の青年と違って自我の意識が強過ぎて不可(いけ)ない。・・・・・・(以前は)他人本位であった(が)、・・・(近頃は)社会の変化で、・・・自己本位」に傾き自我が強くなり過ぎたのだと。
 「現代人は事実を好むが、事実に伴う情操は切棄てる習慣である。切棄てなければならない程世間が切迫しているのだから仕方がない」





「それから」   夏目漱石著  (新潮文庫)
それから
 漱石自身、本作について、前年の1908年発表の「三四郎」の「それから先」を描いたと、ユーモラスに次のように述べています。
 「色々な意味に於いてそれからである。『三四郎』には大学生の事を描いたが、此小説にはそれから先の事を書いたからそれからである。『三四郎』の主人公はあの通り単純であるが、此主人公はそれから先の男であるから此点に於いても、それからである。此主人公は最後に、妙な運命に陥る。それからさき何なるかは書いていない。此意味に於いても亦それからである」
 しかし、23歳の三四郎が成長して、30歳の「高等遊民」(高等教育を受けながらも、経済的に不自由がないため、労働に従事することなく、読書などをして過ごしている人のことを指す造語)になったわけではなく、全く異なる人物の物語です。
 どうやら、迷える子(ストレイ・シープstray sheep)がその後どのように生きたのか、その一つの生き様を描いたものと思われます。
 社会に批判的な主人公・長井大助は、愛する三千代を友人・平岡常次郎に自ら斡旋してしまったという3年前の優柔不断さが災いの元となり、結局は「意志の人」には成りきれずに、「自然の児」になることを決断し、社会の裏側の方に沈み込んで行くという、あまりにも哀れで気の滅入る内容の長編小説です。





「門」   夏目漱石著  (新潮文庫)
門
 「『誠の愛』ゆえに社会の片隅に押しやられた宗助とお米は、罪の重荷にひしがれながら背をかがめるようにひっそりと生きている。宗助は『心の実質』が太くなるものを欲して参禅するが悟れない。これは求道者としての漱石じしんの反映である。3部作の終篇であると同時に晩年における一連の作の序曲をなしている」(「BOOK」データベースより)。
 本作は、1910年3月から6月まで朝日新聞に連載されました。胃痛を我慢して執筆を続けた漱石は、胃潰瘍で入院することになりますが、8月の「修善寺の大患」につながり、体重は45㎏を切るほどやせ細ってしまいます。
 「それから」の主人公・代助は、好きだった人妻と一緒になることを決心するのですが、「門」の主人公・宗助は、友人から奪った妻と一緒になったために社会に背を向けて暮らします。つまり、代助と宗助は重なる部分があり、「それから」のそれからのようにも読めます。
 過去を引きずった宗助・御米夫婦のほほえましい親密さと苦しみ、その心理描写が絶妙です。
 「彼等は、日常の必要品を供給する以上の意味に於て、社会の存在を殆んど認めていなかった。彼等に取って絶対に必要なものは御互だけで、その御互だけが、彼等にはまた充分であった。彼等は山の中にいる心を抱いて、都会に住んでいた」
 「外に向って生長する余地を見出し得なかった二人は、内に向って深く延び始めたのである。・・・要するに彼らは世間に疎いだけそれだけ仲の良い夫婦であったのである」
 最後に宗助は、苦悩の末、救いを求めて禅寺の「門」をくぐります。
円覚寺
 漱石は、鎌倉の円覚寺に宗演禅師を訪ね、何度か参禅したことがあり、禅坊主になることを勧められたほどの熱の入れようだったそうです(「漱石の思い出」[夏目鏡子述])。宗助が宗教の「門」を叩いたのは、その経験が元になっていると思われます。
 「門を開けて貰いに来た。・・・彼はどうしたらこの門の閂を開ける事ができるかを考えた。・・・彼は前を眺めた。前は堅固な扉がいつまでも展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」
 自らの選択により招いてしまった宗助の苦悩は、現代人の苦悩にも通じる普遍的なものです。内に秘められた漱石のメッセージは、未来に向けられていたようにも感じられます。




「彼岸過迄」  夏目漱石著  (新潮文庫)
彼岸過迄
 漱石は、1912年元日に、新聞連載小説「彼岸過迄」を開始するに際して、読者に向けて諸言(しょげん)という文章を書いています。前作の「門」の連載が終了後に、修善寺の大患を患ったが、回復してようやく執筆に取りかかれることになった心境を神妙に語っているのです。
  また、題名については、正月から書き始めて「彼岸過ぎまで」書く予定だからと述べています。
 本作は、漱石の後期三部作(「行人」、「こころ」)の第一作で、いくつかの短編を繋げで一つの長編小説をなすという構成を試みています。
 初めは探偵小説のようにワクワクしますが、途中から従兄妹同士の結婚がテーマの話に変化し、やや焦点が定まらないような風向きにがっかりさせられますが、終盤には胸を打つ展開が用意されています。そもそも本作は、新聞小説として日々楽しめるように工夫されていること、そして何より心理描写、情景描写が優れた名作です。
 なお、「雨の降る日」の章に、漱石夫妻の5女・雛子が、1歳8ヶ月にして急死した経緯を恐ろしく詳細に挿入していすが、かわいい子どもを亡くした漱石の苦しい胸の内が察せられます。





「行人」   夏目漱石著  (新潮文庫)
行人

 本作は、1912年12月6日から1913年11月5日まで、「朝日新聞」に連載されましたが、途中、病気により5ヶ月も中断しました。
「この小説はずいぶん疑り深い変な目で人を見ているところが書いてある」と、妻の夏目鏡子さんが「漱石の思い出」で述べていますが、当時、漱石自身が妄想に苦しんでいたようです。
 夫婦や家族、人間関係においてそれぞれが自己を主張し合えばどうなるか。どこに行き着くのか。それは救いようのない孤独な世界ではないのか。一郎は「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」と語ります。まさに狂気の世界そのものです。漱石は、あえてそれを書かずにいられなかったのだと思われます。
 しかし、翌年の学習院での講演会では、「他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬する」という、至って道徳的な個人主義を説いています。
 文章は読みよく、現代にも十分通じる内容なので、何度読んでも読み甲斐のある名作です。ただし、4編構成の最後の「塵労」だけは、形式的な相違があることは明白です。5ヶ月間の中断が影響していると思われます。それにしても「H」からの手紙は、原稿用紙95枚もの非現実的な超長文であり、新聞連載が25回も続き、いつの間にか主人公が入れ替わるのにも読者は驚いたのではないでしょうか。





「こころ」   夏目漱石著 (新潮文庫)
こころ
 本作は、1914年4月から8月まで、「朝日新聞」に「心 先生の遺書」と題して連載され、誕生間もない岩波書店から漱石自身のデザインで自費出版された作品です。漱石の洞察力、表現力などの評価が高く、代表的な近代小説の一つとも言われています。
 そして、「彼岸過迄」「行人」とあわせて、男女の三角関係を描いた「後期三部作」と呼ばれています。
 明治天皇の崩御、乃木大将の殉死に大きな影響を受けた作品です。
 森鷗外は、乃木希典の殉死に影響を受け、過去を見つめ直すために歴史小説を書きはじめましたが、夏目漱石は、未来を見つめ、文明により孤独感が増幅されていく人間の「こころ」の行方を心配したのです。
 時代の激動期を乗り越えて新しい時代を生きる人のために、たとえ時代背景が変わっても、人間の「こころ」の苦悩や葛藤は普遍的なものであり、どこまでも向き合い続けなければならないだろうというメッセージを発しているのです。
 本作も、文章が読みよく現代にも十分通じる内容なので、何度読んでも読み応えがありますが、後半の「先生の遺書」の手紙は、前作の「H」からの手紙の長さを超える非現実的な超長文であり、手紙文の長期間の新聞連載は、読者の忍耐も限界を超えたのではないでしょうか。
  なお、親族によって財産を食い物にされたために人間不信に陥るという部分については、「門」の宗助とも共通するものです。





「硝子戸の中」  夏目漱石著  (新潮文庫)
硝子戸の中
  「硝子戸(ガラスど)の中(うち)から外を見渡すと、霜除(しもよけ)をした芭蕉(ばしょう)だの、赤い実(み)の結(な)った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来(こ)ない。書斎にいる私の眼界は極(きわ)めて単調でそうしてまた極めて狭いのである」と、始まる本作は、1915年1月から2月にかけて39回にわたって朝日新聞に掲載された漱石最後の随筆です。 要するに「書斎」を表題にしているのです。
 日常の何気ない風景から思慮深い人生哲学まで、繊細かつ分かりやすく非常に味のある筆致により、現代の読者の脳裏にまで響いてくる素晴らしい内容です。繰り返し読む人が多い名作であることが頷けます。
 なお、第25章では、突然の訃報を病床で知り、「ある程の菊投げ入れよ棺の中」と句を詠んだ、大塚楠緒夫人(1875-1910)のことにも触れています。







「思い出す事など 他七篇」  夏目漱石著  (岩波文庫)
思い出す事など
 「明治43年の盛夏、漱石は保養先の修善寺で胃潰瘍の悪化から血を吐いて人事不省に陥った。辛くも生還しえた悦びをかみしめつつこの大患前後の体験と思索を記録したのが表題作である。他に二葉亭や子規との交友記など」(「BOOK」データベースより)。 その「思い出す事など」は、1910年10月から1911年4月まで朝日新聞に連載さた非常に趣のあるエッセイです。
  「漸(ようや)くの事で又病院迄帰ってきた。思い出すと此処で暑い朝夕を送ったのも最早3ヶ月の昔になる。・・・帰る日は立つ修善寺も雨、着く東京も雨であった。扶(たす)けられて汽車を下りるときわざわざ出迎えてくれた人の顔は半分も眼に入らなかった。目礼をする事の出来たのはその中の二三に過ぎなかった」と始まり、いわゆる「修善寺の大患」に関する記述が大半を占めていますが、次のようにも綴っています。
 「平凡で低調な個人の病中に於ける述懐と叙事に過ぎないが、其中(うち)には此陳腐ながら私の払底な趣が、珍しく大分這入(はい)って来る積(つもり)であるから、余は早く思い出して、早く書いて、そうして今の新しい人々と今の苦しい人々と共に、此古い香(かおり)を懐かしみたいと思う」





「道草」  夏目漱石著  (新潮文庫)
道草
 本作は、1915年6月から9月まで、「朝日新聞」に連載された、漱石最晩年の自伝的な長編小説です。当時に流行していた自然主義小説にならって、漱石も書いてみたという作品です。
 漱石の千駄木時代の家庭内の出来事が極めてリアルに描かれています。特に心理描写が素晴らしいと思います。
 生後まもなく里子や養子となり、複雑で暗い生い立ちを持つ漱石(健三)は、実父と養父の本心をあっさりと断言しています。
 「健三は海にも住めなかった。山にもいられなかった。両方から突き返されて、両方の間をまごまごしていた。同時に海のものを食い、時には山のものにも手を出した。実父から見ても養父から見ても、彼は人間ではなかった。寧ろ物品であった。ただ実父が我楽多(がらくた)として彼を取り扱ったのに対して、養父には今に何かの役に立てて遣ろうという目算があるだけであった」





「明暗」  夏目漱石著  (新潮文庫)
明暗
 本作は、1916年5月から12月まで朝日新聞に連載され、漱石病没のため、188回で遂に未完となった超長編小説です。
 執筆に際し、漱石は、「わが全生活を大正5年の潮流に任せる覚悟」と広言し、これまでの小説の主題のすべての集大成を構想し、新しい手法を取り入れた野心作であり、内容は、人間の醜い利己心を徹底的に解剖し、醜悪なものをとことん描かなければならなかったことから、毎日午前中に1回分を書き上げて、午後は漢詩を作ってリラックスするというのを日課にしたそうです。
 人間の陽と陰、本音と建て前、強者と弱者、金持ちと貧乏人、それら「明・暗」の両極のせめぎ合いを際立たせ、まさに多元的な心理ゲームの地獄の修羅場を見事に描いています。多くの登場人物の心理描写や情景描写が極めて優れているため、未完の絶筆とはいえ、十分にインパクトのある名作で、日本近代小説の最高峰の一つと言われています。





「海の見える理髪店」  荻原 浩 著  (集英社)
海の見える理髪店
 第155回直木賞受賞作の本作は、内容も登場人物も全く異なるが、どれもが読みよく味があり泣かせる6編を収めた短編集です。
 特に、その表題作は、過去に事情を抱えた床屋の店主は、予約を入れて遠くから初めて訪れた「僕」に、どこまでも正直に過去を語り、二人の特別の時間をどこまでもリアルに描いています。
 「鏡にこだわったのには、わけがあります。お客様に海を眺めていただける、なんて口実で、その鏡、本当は私自身のためなんです。床屋は大きな鏡の前に立つ仕事です。お客さまに常に姿を見られる商売です。それがつらかったんです」(p.38)
 二人の関係のあかし方もうまいです。切ないけど癒やされる作品です。
 「時のない時計」では、「『時計の針を巻き戻したいって思うことは、誰にでもあるでしょう』(と、私に問いかける時計屋は、)きっと話さずにはいられないのだ。自分の後悔を。自分には別の人生があったことを。・・・少し考えてから、私は時計屋に答えた。『いえ、ありません』それでも時計の針は前へ進むためにある。父から貰ったパタパタ時計のように」(p.190)。
 また、最後の「成人式」は、5年前に15歳で急逝した娘の深い悲しみに明け暮れる両親の一大奮闘を描きます。著者ならではの素晴らしい作品と思います。





「橋を渡る」  吉田修一著  (文藝春秋)
橋を渡る
 一見、4つの短編小説のような4章とエピローグで構成されていますが、2014年のホットな時事問題をうまく織り交ぜ、それぞれの主人公たちの日常を脅かすような出来事が起こり、いったい「正しさ」とはどういうことなのかを考えさせらる、1本の壮大な物語なのです。
 特に、第3章のラストで驚愕させられ、そして第4章は、あまりにも想定外の内容に冒頭から驚愕させられます。
 新境地を開いたような吉田ワールドにはかなり惑わされますが、日頃忘れかけていた時事問題などを改めて考えさせるし、テンポが良くとても面白く読める素晴らしい作品です。
 結局、正しいかどうかは未来に答えがあるということであり、目先の正しさは独りよがりの都合でしかないのだと言っているように思います。
 カバーに「新次元の群像ドラマ」とあり、表紙の写真はぶれた意味ありげな橋の写真ですが、その橋は未来の橋だったようです。








砥石権現~高城山 2016年11月4日(金)

 紅葉真っ盛りの剣山スーパー林道を散策。

_MG_6120林道から
 剣山スーパー林道から高城山方面の山並みを眺めます。紅葉はもう裾野の方まで下りています。

IMG_8923紅葉
 朝日に輝く紅葉です。

IMG_8925登山口
 砥石権現の登山口からスタート。

_MG_6123ブナ
 紅葉したブナが迎えてくれます。

IMG_8929霜
 今朝は冷え込んだので、稜線に出ると霜が見られました。

_MG_6132稜線
 気持ちのいい稜線です。

_MG_6128北の眺望2
 北側に素晴らしい眺望があります。遠くは霞んでいますが・・・。

_MG_6129砥石権現
 砥石権現(1375m)頂上から引き返し、次に高城山を目指します。

_MG_6131高城山方面
 樹林の間から高城山を眺めます。かなり遠くに感じます。

_MG_6125北の眺望
 もう一度北側の展望を眺めます。

_MG_6140ブナ2
 ブナの紅葉を眺めながら歩きます。

_MG_6141稜線
 小ピークを越えながら稜線を西に進みます。

_MG_6145東宮山方面
 稜線から東宮山方面を眺めます。

_MG_6146稜線2
 ひたすら明るい稜線を西へ。10時頃に突然、地震警報が神山町の拡声器から流れたので身構えましたが、それは訓練だったことを後で知りました。

_MG_6153紅葉
 西砥石権現(1452m)の少し先の分岐を左へ折れ、ファガスの森へ下ります。その分岐付近にキレイな紅葉がたくさんありました。

_MG_6157紅葉3
 紅葉のピークは少し過ぎていますが、明るくていいです。

_MG_6155紅葉2
 彩りが豊富です。

_MG_6159紅葉4
 しばし堪能しました。

_MG_6164高城山手前
 高城山の手前にもキレイな紅葉があります。

_MG_6172剣山方面2
 剣山方面を眺めます。

_MG_6170高城山頂上
 最後の急登を克服して高城山(1628m)に到着。

_MG_6169剣山方面
 樫戸丸、天神丸、剣山が右に勢揃い。

IMG_8943ランチ
 絶景を眺めながらランチにします。上部の紅葉が終わったので人がいないのかと思ったら、次々に登ってきました。

_MG_6182尾根紅葉
 少し下の紅葉を眺めながら下ります。

_MG_6193ファガスの森
 フャアガスの森を経由します。

_MG_6190林道紅葉
 林道の紅葉を眺めながら砥石権現登山口に戻ります。

_MG_6203林道紅葉2
 青空に紅葉が映えます。

_MG_6210林道紅葉4
 燃えるような紅葉。

_MG_6207林道紅葉3
 のどかな林道をのんびり散策。


(参考タイム)

砥石権現登山口8:00発 → 砥石権現8:45着 → 西石権現10:10着 → ファガスの森10:35着 → 高城山11:55着・12:30発 → ファガスの森13:20着 → 砥石権現登山口14:00着

 高気圧が張り出して雲一つない快晴なので、安心してのんびり歩きました。それにしても、高城山の最後の急登はいつもキツイけれど、加齢と共に今日は格別しんどかった。








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 山歩きと自然が大好きなトンボのDonです。
 いい汗かいて、青空の下でキレイな景色にめぐり逢いたいといつも思っています。
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