「エストニア紀行―森の苔・庭の木漏れ日・海の葦」 梨木香歩著 (新潮社)

本書は、雑誌などに連載など掲載されたものを、2012年に一冊の本として上梓されたものです。
ロシア軍によるグルジア侵攻があった2008年8月に、著者がコウノトリの渡りに出会えることを期待して、エストニアを旅した紀行エッセイです。
ただ、コウノトリは肩すかしに終わりますが、首都タリンから、古都タルトゥ、オテパーの森、バルト海に囲まれた自然が豊かな島々を、魅力たっぷりにレポートしています。
端正な街並みと緑深い森、他国による長い被支配の歴史を持つこの国の魅力を知ることができます。
バルト三国の一つのエストニアは、九州ほどしかない小さな国で、平坦な土地ばかりらしく、最高地点は318mしかありませんが、森や湖があってとても美しい景色が広がっているそうです。
特に、昔の生活様式を保っている「キヒヌ島」のレポートが印象的です。

「おばあさんは、ふと機を織るのをやめ、ぽつんと、「自給自足は出来ても、お金持ちにはなれない」と呟いた。確かに、この島が観光で得られる収入など僅かなものだろう。それを聴いた時、突然島の現実に触れた思いがして、その言葉が長く胸に残った。この旅から帰国した後、すぐにリーマンショックが起こった。それから日本でも失業、ホームレス等の貧困問題が 深刻に取沙汰されるような状況が起こった。見も心もぼろぼろに疲れた人々の顔が、しばしばニュースの画面に映るようになった頃、私はあの言葉の持つ本当の意味を要約理解したように思った。あれは「お金持ちにはなれないけれど、自給自足は出来る」、誰に媚びへつらうことなく、誇り高く生きてもいける、そういうことであったのだ。」
そして、エストニア人について、次のように述べています。
「他国に支配され続けた歴史を持つ人々だったけれど、どんなときでも、生活を楽しむ、というポジティヴさを失わなかった。」
「エストニアの人々にとっての祖国愛とは、おそらく国家へのものというよりも、父祖から伝わる命の流れが 連綿と息づいてきた大地へのもののように思って間違いないような気がしてきていた。縦のつながり、横のつながり、森に棲む、あるいは 海に棲む、多様な生命への畏敬の念。」
「ゴリラの森でうんちを拾う」 牛田一成著 (アニマル・メディア社)

京都府立大学大学院生命環境科学研究科長で、腸内細菌学者のフィールドワーカーが、一般向けに工夫されたフィールドノートです。
アフリカ、中国、ブータン、ヨーロッパ、南極まで、世界各地へ出向いた調査活動をレポートしていますが、紀行文としても大変興味深い内容であり、なかなか味わい深いものがあります。
また、挿入されている専門分野についての7つの「レクチャー」は、一般向けに分かりやすく解説されています。
「山のぼりおり」 石田 千著 (山と渓谷社)

本書は、2006年~20088年頃の「山と渓谷」に不定期連載されたものに、書き下ろしを加え、10章からなる山行エッセイ集ですが、独特のやさしい表現はまるで詩集ですので、一語一語を味わいながら読みました。写真家・坂本真典のモノクロームも素晴らしいです。
本書は、決して具体的な山の情報を得るものではなく、著者のほのぼのとした感性が心地よく山に誘ってくれます。
「絆の風土記」 日本経済新聞社編 (日本経済新聞出版社)

この本は、日本経済新聞の土曜日の夕刊(2009年10月~2011年12月)の「こころのページ」の連載ルポ「住んでみるシリーズ」を本にまとめたものです。
「高齢化」、「過疎化」、「国際化」、「孤立」といった課題に直面する地域や施設に、定年間近の編集委員が実際に1ヶ月余り住んでみて、そこで出会った魅力的な生き方をしている人々と、その人たちを支えるかけがえのない人との「絆」、そしてその地域が抱える問題を丁寧にレポートしています。
2011年は、東日本大震災や台風による大雨被害、海外では、ニュージーランド地震、タイ洪水などが次々と発生し、家族や仲間など身近でかけがえのない人との「絆」が大きくクローズアップされました。
「選ぶ力」 五木寛之著 (文春文庫)

本書は、書き下ろし原稿のほか、「日刊ゲンダイ」に連載された「流されゆく日々」を加筆、編集されたものです。
「生きる」ことについて、法然、親鸞など宗教家の思想や、著者自身の人生80年の体験を通じた正直な思いがさり気なく語られており、とても味のあるエッセイです。
著者は、「「生きる」とは「選ぶ」ことである。」
そして、「私たちはさまざまなものを選ぶことができる。モノを選び、人間関係を選び、職業を選び、配偶者を選ぶ。その限りにおいては自由な人間である。」と述べます。
ところが、「現実的には完全な自由などどこにもない。」
「問題は人が自分の人種や、生まれてくる時代や、両親や、外見、体型などを選択できない点である。」と著者は述べ、「運命」を無条件に受け容れるしかないならば、「自分の一生の幕を引くときぐらいは、自分の意志を反映したい」ではないかと言います。
なお、厚生労働省の資料によると、日本の100歳以上の高齢者数は、1963年には153人に過ぎなかったのが、1981年には1,000人を超え、1998年には10,000人を超え、2012年には51,376人と、はじめて5万人を軽く越えています。男女別では女性が87.3%と圧倒的に多くなっています。
人口10万人当たりの100歳以上高齢者数は、東日本より西日本で多く、上位3県は、高知県、島根県、山口県の順です。
「大河の一滴」 五木寛之著 (幻冬舎文庫)

本書は、1998年刊行の超人気のロングセラーです。
「私はこれまでに二度、自殺を考えたことがある」と、著者の告白から始まり、鬱を乗り越えてきた体験や、悲惨極まりない満州からの引き揚げ体験等を基に培ってきた著者の思想を、読者に押しつけにはならないよう気遣いながら、勇気と生きる希望を与える優れたエッセー集です。
著者は語ります。
「いまこそ、人生は苦しみと絶望の連続だと、あきらめることからはじめよう」「傷みや苦痛を敵視して闘うのはよそう。ブッダも親鸞も、究極のマイナス思考から出発したのだ」と。
そして、「私たちの生は、大河の流れの一滴にすぎない。しかし無数の他の一滴たちとともに大きな流れをなして、確実に海へとくだってゆく。高い嶺に登ることだけを夢見て、必死で駆け続けた戦後の半世紀を振り返りながら、いま私たちはゆったりと海へくだり、また空へ還っていく人生を思い描くべきときにさしかかっているのではあるまいか。『人はみな大河の一滴』 ふたたびそこからはじめるしかないと思うのだ」と。
なお、次のアレーズが印象的です。
「生きるために私たちが、目に見えないところで、どれほどの大きな努力にささえられているか。自分の命がどれほどがんばって自分をささえているか。・・・生きている、というだけでも、どれほど大切な大きなことを人間はやり遂げているか、と考えざるをえません。」
「孤立した悲しみや苦痛を激励で癒やすことはできない。そういうときにどうするか。そばに行って無言でいるだけでもいいのではないか。その人の手に手を重ねて涙をこぼす。それだけでもいい。・・・『励まし』ではなく、『慰め』であり、もっといえば、慈悲の『非』という言葉です。」
「市場原理と自己責任という美しい幻想に飾られたきょうの世界は、ひと皮むけば人間の草刈り場にすぎない。私たちは最悪の時代を迎えようとしているのだ。資本主義という巨大な恐竜が、いまのたうちまわって断末魔のあがきをはじめようとしている。そのあがきは、ひょっとして二十一世紀中つづくかもしれない。つまり私たちは、そんな地獄に一生を托すことになるのである。いまはもう、覚悟をきめるしかないだろう。」
「人間の覚悟」 五木寛之著 (新潮新書)

本書は、2008年に刊行されたものです。
「覚悟をきめる」ということは、「諦める覚悟をきめる」ことであり、「諦める」は、「明らかに究める」こと、そして「事実を真正面から受け止めること」だと言います。
著者は、12歳の時に平壌で終戦を迎え、数々の悲惨極まりない体験が、強烈なトラウマとしてずっと引きずっており、それが仏教の親鸞に結びついたと言い、それを根底に置きながら、閉塞感漂う現代を生き抜く術を説くのです。
著者の思想の基本は、「大河の一滴」に記されていますので、同様のフレーズが多いのは当然ですが、改めていちいち納得しながら読みました。
混沌とする社会経済情勢の中、心が闇に包まれる人が増えたという、当時の社会の状況を踏まえ、著者は次のように述べています。
「私たちは無意識のうちに何かに頼って生きている。『寄らば大樹の陰』とは昔から耳になじんだ諺だ。しかし、もうそんなことを考えている段階ではない。私たちは、まさにいま覚悟をきめなければならない地点に立っているのである。」
「人の世とはこういうものだ、人間とはそういうものだ、そう覚悟することは、誰にでも可能だと思うのです。・・・物事をはっきりと極め、現実はこうなのだと覚悟することでしょう。」
「あきらめる、ということはすごく大事なことです。人間は一人で生まれ、生きていく中ではどんな悲しみも苦しみも痛みも他の誰にも代わってもらうことはできず、やがては老いて一人で死んでいくものなのだ---、そのことを若いうちにできるだけ早く、明らかに極めておくべきだろうと思うのです。」
「歴史を見ればわかるように、時代の流れはそうやって何十年かおきに坂を上がったり下ったりするものです。全てが移り変わっていくなかで、人は『坂の下の雲』を眺め、谷底の地獄を見つめなければならない時がある。だからこそ『覚悟』が要るのです。」
「ルポ 貧困大国アメリカ」 堤 未果著 (岩波新書)

著者は、ワールド・トレード・センターにほどちかい米野村證券に勤務中に9・11テロに遭遇、イラク戦争に突き進んでいくアメリカの姿に疑問を抱きジャーナリストに転身し、現在はNY-東京間を行き来しながら執筆、講演活動を行っているようです。
新自由主義が中流層を崩壊させ、新たな大量の貧困層を作り出し続けている、アメリカの衝撃的な陰の部分を強調し、レポートしたロングセラーです。
本書は、2008年に出版されたものですが、新自由主義の成れの果ての姿を映し出したものであり、これからの日本の行く末を警告するルポなのです。
「ルポ貧困大国アメリカII」 堤 未果著 (岩波新書)

「YES WE CAN」、「CHANGE」をスローガンにしたオバマ登場でしたが、アメリカの状況はなせ変わったのか。それはなぜなのか。人々の肉声を通して、アメリカの深刻な悪夢のような現実を活写した衝撃のルポ第二弾です。
職がみつからず、学資ローンに追い立てられる若者たち。老後の生活設計が崩れた高齢者たち。教育や年金、医療、そして刑務所までもがビジネス化され、巨大マーケットに飲みこまれている。
それらの問題の根には、公共サービスの行きすぎた民営化という共通点があり、日本の将来に警告を発するものなのです。
「超・格差社会アメリカの真実 」 小林由美著 (文春文庫)

アメリカに26年間在住し、エコノミストとして活躍して来た著者が、実体験に基づいて的確にとらえたアメリカの「階層社会」の実体と、アメリカの根深い問題点が、日本に向けて赤裸々に綴られています。
アメリカの歴史を踏まえつつ、豊富な資料を基に、アメリカ社会を分析した良書だと思います。
著者は、アメリカ社会は四層社会だとし、上位二層(「特権階級」、「プロフェッショナル階級」)の人口の5%の人たちに、全米の60%の富が集中していると言います。
なのに何故、アメリカは「自由」で「平等」で「民主的」な国なのか。その理念と現実のギャップの謎に迫ります。
アメリカは何といっても国土が広く、資源が豊富なことに尽きるように思います。
著者は、「アメリカ国内では貧富の差が拡大しても、特権層は物理的に隔離された世界に暮らしているから、貧困層の問題は身に迫る深刻な問題とは感じない。」と述べていますが、そもそも、「人口の97%が国土のわずか3%の地域に集中」しており、富裕層と貧困層の棲み分けができているところに、日本との大きな違いがありそうです。
「もうガマンできない! 広がる貧困」 宇都宮健児、湯浅 誠、猪股 正編集 (明石書店)

本書は、多重債務者、障害者、日雇い派遣者など様々な課題を抱えた当事者による、深刻な貧困の実態報告や証言に対し、「論点」として、それぞれの諸問題に精通した論者による、課題解決に向けた提言などを綴ったものです。
日本の格差拡大が問題となって久しいが、資本主義が生み出す陰の部分の救済措置ができてこそ「国」なのす。
厚生労働省が7月に発表した2010年の「相対的貧困率」(国民一人ひとりの所得を順番に並べ、中央の値の半分より低い人の割合)は、年間112万円未満が貧困となり、国民の16%で、前回の2007年調査より0.3ポイント上昇。1986年調査以降で最悪となったそうです。
また、経済協力開発機構(OECD)の調査では、2000年代半ばの相対的貧困率は、日本はメキシコ、トルコ、米国に次ぐ4番目の高さだったようです。

日本では、一人親世帯の貧困率が際だって高く、50%を超えており、貧困世帯の子どもの割合も高水準で、健康や教育への悪影響が心配されます。
非正規雇用は全体的に増え、非正規雇用者比率は、1995年には20.8%だったのが2012年には35.1%に増加しており、貧困が拡大する原因になっている。
そして貧困率をさらに押し上げているのが、少子高齢化です。生活保護受給世帯のうち、半数近くが高齢者世帯で、生活保護を受給している高齢者世帯の9割が一人暮らしです。
「反貧困」 湯浅 誠著 (岩波新書)

NPO法人「もやい」、「反貧困ネットワーク」の事務局長で、「年越し派遣村」の村長で話題となった著者が、現場の視点から「貧困問題」の具体的な実態を報告します。
この本は、「貧困」の存在を伝え、貧困問題を社会がどのように捉え、如何に脱却するかを、著者自身の活動経験を通じて論じており、2009年第8回大佛次郎論壇賞と第14回平和・協同ジャーナリト基金賞のダブル受賞したベストセラーです。
「貧困は自己責任ではなく、社会と政治に対する問いかけである。」
「貧困の特徴は見えないことであり、最大の敵は無関心である。」
「貧困問題解決への第一歩は、貧困の姿・実態・問題を見えるようにし(可視化し)、この悪循環を断ち切ることに他ならない。」
「政治公認の貧困率すらない日本は、貧困のスタートラインにさえついていない。」
「ローマから日本が見える」 塩野七生著 (集英社文庫)

本書は、「痛快!ローマ学」(2002年)を改稿したものです。
ローマ帝国興亡の1000年を描く「ローマ人の物語」全15巻のエッセンスにふれ、ローマ史を学ぶ意義が理解できる良書です。
ローマ時代を分かりやすく分析しており、現代日本が学ぶべき「改革の思想」がちりばめられていますので、とても興味深く読めます。
この本の最後には、イタリアの普通高校で使われている歴史教科書にあるキーワードが載せられています。
「指導者に求められる資質は、次の五つである。」「知力。説得力。肉体上の耐久力。自己制御の能力。持続する意志。」
著者によるローマの指導者の通信簿によると、この五つの資質が全て100なのは、偉大なカエサルとギリシアのペリクレスの二人だけだとしています。
また、「日本人にとってのリーダーとは、要するに『調整能力の優れている人』でしかない。いわば組織のとりまとめ役であっても、組織を率いていく『リーダー』、つまり指導者ではない。」と述べています。
「ルネサンスとは何であったのか」 塩野七生著 (新潮文庫)

「ルネサンス」について、対話形式で分かりやすく記述されています。
著者は、「ルネサンス」とはそれまで1千年の間、キリスト教会によって押さえつけられていた人間の「見たい、知りたい、わかりたい」という欲望の爆発であると言います。
「ルネサンス」の先駆は、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ2世(1194-1250)ですが、それに加えて、その爆発に土と水を与えたのは聖フランチェスコ(フランシスコのイタリア語読み、1182頃-1226)だったと言います。
フランチェスコ(フランシスコ)会修道会の創始者で、キリスト教の歴史に新局面を開いた偉大な人物だったようです。
当時、キリスト教が形式的になってしまっていて、その中に人間感情が縛られていた状況から抜け出て、「キリスト教は愛の宗教である」とし、古い掟から解放したそうです。

因みに、先日(3/13)、第266代ローマ法王に選ばれたアルゼンチンのホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿は、聖フランチェスコにあやかって、法王名として「フランシスコ1世」を名乗りました。
なお、本書は、ルネサンスに関連する「宗教改革」「大航海時代」の事情などを含めて分かりやすく解説されており、年表、図表、略歴も大変参考になります。
「猫背の虎 動乱始末」 真保裕一著 (集英社)

この物語は、震災後の混乱を背景にした読みやすく味のある時代小説です。
その震災は、1855年(安政2年)11月に江戸を襲った安政江戸地震で、関東地方南部で発生したM7クラスの大地震です。
やはり、東日本大震災を意識したものと思いますが、震災直後の大混乱の中、新米同心虎之助は町人たちの難題に、とても恵まれた仲間とともに江戸中を駈けずり廻りながら真摯に取り組みます。
人情話、恋愛譚、謎解き等々が詰った5話で構成されており、とても楽しめます。
「アマルフィ」 真保裕一著 (講談社ノベルス)

この作品は、著者がフジテレビの開局50周年記念映画のための原案(プロット)作りに参加し、その原案を小説にしたもので、イタリアローマを中心舞台に、とある日本人外交官の活躍を描いています。
日本映画発のオール・イタリアロケ前提の作品ですから、ご当地の魅力に溢れるもので、サスペンスとして、またエンターテェメントとして、読みやすくてテンポも頗る良くて、とても楽しめる作品です。
ただし、深く考えながら読もうとすると、ご都合主義の展開が目立ち、緻密さに欠け、人間が十分に描かれていないことなどが気になります。
底が浅く奥行きがない作品だけに、そこは割り切る必要がありそうです。

アマルフィは、ナポリの南、カンパーニア州にあるソレントからサレルノまでの全長約40キロの海岸線です。
コスティエラ・アマルフィターナ(Costiera Amalfitana)と呼ばれ、世界でもっとも美しい海岸線とも言われており、コバルトブルーの海と緑茂る山がとても美しく、1997年にユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されました。
なお、この映画「アマルフィ 女神の報酬」は、2009年に公開されましたが、再びアマルフィ海岸に注目が集まる切掛けとなったようです。
「路(ルウ)」 吉田修一著 (文芸春秋)

舞台は台湾、1990年代に計画された台湾新幹線の建設工事に並行して4人の物語が進みますが、台湾新幹線着工をめぐる出会いと別れと再会とを描く著者の渾身群像劇です。
著者は、「台湾の土地と人に魅了され、10数年が経ちます。「路」という作品は、そんな台湾へのラブレターなのかもしれません」と述べています。
書店で表紙と目次を見て一目惚れした本だったのですが、読むとイメージとは全く異なるものでしたが、流石に著者の筆力が生きている素晴らしい作品だと思います。
本作は、正に、「温かくて、のんびりして憎めない恋愛小説と80年代の青春物語」です。
名作の「悪人」に対して、誰にでもお勧めできる善人の名作です。読後感が頗るよろしいのと、台湾の魅力が満載されています。

台湾新幹線(台湾高速鉄道/Taiwan High Speed Rail)は、小説のとおり2007年1月に開業し、台湾の台北と高雄とを345kmを最高速度300km/hで結ばれました。それまで240分を要した区間が100分になりました。日本の新幹線の車両と技術が、海外に初めて輸出・現地導入されました。
「横道世之介」 吉田修一著 (文春文庫)

本作は、2010年の本屋大賞で3位を獲得し、柴田錬三郎賞も受賞した、とても切ない青春小説です。
主人公の横道世之介は、懐かしい1980年代のどこにでもいそうな人の良い大学生ですが、物語の中で、登場人物の20年後の一人ひとりの姿が絶妙に挟み込まれており、現在と将来を考えさせる構成は、とても斬新で素晴らしいと思います。
なお、作中の列車事故については、2001年1月に山の手線新大久保駅で起きた悲惨な事故がモデルです。
泥酔した男性がプラットホームから線路に転落し、さらに、その男性を救助しようとして線路に飛び降りた日本人カメラマンと韓国人が、折から進入してきた電車にはねられ、3人とも死亡しました。
人命救助のために命を投げ出したこの事件は、美談として日韓両国で大きく報道されるとともに、事故の犠牲者を追悼・顕彰するプレートが新大久保駅のホームと改札の間の階段に設置されました。
また、男性が駅構内の売店で購入した酒を飲んでいたことが判明し、JR東日本は通勤圏の一部駅構内での酒類の販売を一時取り止めました。
そのカメラマンの知人は、「彼ならやるかな」。「生きるのが下手だった。何でも一生懸命だった。」とも言ったそうですが、カメラマンの母親は、「相手も救えず、これでは無駄死だよ。」とは、とても悲壮な本音です(1月28日付け朝日新聞・天声人語参照)。
「パレード」 吉田修一著 (幻冬舎文庫)

ある都内の2LDKのマンションで集団生活をはじめた男女5人の若者を描いた青春の群像劇です。
本作は、2002年の作品で、第15回山本周五郎賞を受賞しています。
物語は5つの章から成り、各章ごとに順番にそれぞれの集団生活者の視点でリアルに語るという手法を取り、日々の生活の各人の心理描写が見事な作品で、見かけ以上に、とても奥の深い作品なのです。
プライバシーの無い、とても奇妙な集団生活を続けている男女を、ややコミカルに描くことによって、誰しも保身や現行の調和を乱さないため、無意識に本音を明かさず、「本当の自分」を装いながら、社会の一種の「パレード」に参加しているという感覚を考えさせます。
「乱反射」 貫井徳郎著 (朝日文庫)

日常生活の中でおこりうる些細なマナー違反や、気の緩みからつい起こしてしまいがちな迷惑行為、決して裁くことのできない多くの人々の「些細な身勝手」が偶然連鎖し、ひとりの幼児を死に追いやる痛ましい悲劇と遺族のやるせない怒りを、著者の筆力で見事に描いています。
本作は、緻密な構成、リアリティのある人物造詣、息もつかせぬ緊迫感のある展開、それでいて社会派エンターテイメント作品としての完成度もかなりのもので、第63回日本推理作家協会賞を受賞しています。
登場人物がやたらと多いですが、とても面白い作品ですので、一気に読んでしまいました。
ただし、現実は、物語の展開とは全く異なることを留意しておかなければなりません。
あくまでも、市道の街路樹の管理責任は市にあり、物語の場合は、当然、市の管理瑕疵が問題となり、恐らく市に損害賠償責任が生じることになります(多くの自治体は道路賠償責任保険に加入しています)。
市が街路樹検査を外注済みだったからと、市が責任を免れられるはずはありません。 市から管理を請け負っていた造園業者は、市との契約上の問題は発生し、市が造園業者を告発することも考えられますが、いきなり事故の加害者として、造園業の担当者が逮捕されるということはあり得ません。
最近では、平成21年に、熊本県の国道443号線において、街路樹(ケヤキ)が台風で倒れ、走行中の自動車のフロントガラスを直撃した事故について、道路管理者の損害賠償責任を認めた判例があります(H21年7月14日 熊本地裁)。(http://www.hido.or.jp/14gyousei_backnumber/library_data/soshoujirei_data/1105soshoujirei.pdf参照)
「愚行録」 貫井徳郎著 (創元推理文庫)

本書は、口語体による記述がひたすら繰り返される異質な小説で、ミステリーズ!(2005年2月~10月)初出の作品です。
冒頭、「3歳女児衰弱死」させ、「ネグレクト」の疑いがある母親が逮捕されたという新聞記事が提示されます。
ところが、物語は、その事件とは一見関係のない一家惨殺事件の被害者の関係者に対するルポライターのインタビューを、ひたすら聞くというスタイルで始まり、記事との関係が不明のままドンドン進行します。
“インタビュー”と“独白”は、幸せな家族にいったい何が起きたのか。背景には何があったのか。関係者へのインタビューが進むにつれ、いつの間にか物語に引き込まれます。次第にリアルに真相が見えてきますが、それが実に巧妙に描かれています。
インタビューに対して、どの登場人物も、他人のことをベラベラ喋っているのはやはり不快感があり、文章が冗長なのは致し方ない点ですが、ずっと聞き耳を立てている自分の「愚行」を考えさせることも著者の計算の内と思われます。
著者は、自身ホームページに、「最悪に不快な読後感を残す話を構想しました。」とありますが、同じように学園内の差別を深く描いた、桐野夏生の「グロテスク」ほどの深刻な陰湿さや救い難さはありません。
むしろ、やっと最後に事件の全容が理解できたという、不思議な爽快感さえあります。
「慟哭」 貫井徳郎著 (創元推理文庫)

1993年の著者渾身のデビュー作です。
連続幼女誘拐事件を追う警察と、心の穴を埋めるため振興宗教にのめり込んでいく男、という二つのシーンが交互に物語が進みますが、斬新な構成力と見事な筆力で描かれたサスペンス・ミステリーなので、読者をグングン引き込んでいきます。
二つのストーリーは、最終的にはひとつに収束していくだろうと予想しながら読みますが、実は、この二つは全く異なる時期の出来事を叙述したトリックであることに、読者が不快感を抱くことも計算の内なんでしょう。そんなことは気にもさせないくらい、結末の衝撃は計り知れないものなのです。
本作は、第4回の鮎川哲也賞において、かなり話題にはなりつつも、惜しくも受賞を逃ましたが、推理小説家の北村薫氏に、「題は『慟哭』、書き振りは《練達》、読み終えてみれば《仰天》」と言わしめた完成度の高い作品です。
「殺気!」 雫井脩介著 (徳間書店)

本作は、過去の監禁事件被害者が自ら行う事件の謎解きを背景に、幼なじみの熱い友情を描いた青春サスペンスです。
「犯人に告ぐ」や「火の粉」のような、緊迫した展開を期待するミステリィ作品とは全く異なり、少女などがアニメ感覚で楽しむ作品かと思います。
残念ながら、冗長な会話が非常に多い上に、内容はどうも軽薄で、後になってからカバーデザインの意味は理解できましたが、タイトルにはどうもシックリ来ない作品です。
「臨場」 横山秀夫著 (光文社文庫)

臨場とは、勿論現場に臨むことですが、警察組織では、事件現場に臨み、初動捜査に当たることをいいます。
今回は、L県警本部捜査一課検視官で「終身検死官」の異名を待つ男を主人公にした8話の短編作品集です。
「終身検視官」:視倉石義男52歳。階級は警視。ぶっきらぼうで、誰にも媚びず、業務についてはことのほか厳しい孤高の男。上司の命令を平気ではね除け、我が道を行く強烈なキャラクターですが、意外にも重い病を抱えた熱い人情家なのです。
本書は、短編集にもかかわらず最後に心が暖かくなるストーリーが用意されているなど、工夫が凝らされていますが、残念ながら作品内容にやや温度差が目立つように感じます。
「死亡推定時刻」 朔 立木著 (光文社文庫)

現役の弁護士が書いた、誘拐殺人の冤罪事件に関する優れた社会派ミステリです。
法律家の著者だからこそ、ここまで描き切れたのだと思います。
容疑者逮捕から裁判に至る、一連の司法手続きに関わる人間が織りなす裏側を、親切な解説も交えながら見事な筆致で描いています。
著者は、「作者あとがき」で次のように述べています。
「作者としては、ドキュメントあるいはリポートと呼びたい気持がある。全体の筋書きは架空のものだが作品を構成する膨大な細部のほとんどは、実際にどこかに存在したものだからだ。発想は、誘拐事件の新聞記事から得た。」
「犯人らしく見える部分もある被疑者を誤って犯人にしてしまわないためには、組織の流れに抗して真実を追及する、もう一段高い正義感がなければならない。」
著者は、このことを強く主張したかったのだと思います。
冤罪事件は、決して古い体質の戦前や戦後の混乱期の過去のものではなく、現代の深刻な問題でもあります。
東電OL殺人事件(1997年)で無期懲役となっていた外国人が、再審初公判(2012年10月29日)で無罪となったのは記憶に新しいところです。
また、「遠隔操作ウイルス事件」(2012年8月)は、「真犯人」を名乗る人物から犯行声明メールが都内の弁護士らに届いたことから冤罪が発覚しましたが、警察は何と、「自白の誘導や強要はなかった」とサラリと結論づけています。
2009年の「障害者郵便制度悪用事件」では、大阪地方検察庁の主任検事が証拠物件であるフロッピーディスクを改竄するという証拠隠滅が発覚しました。
要するに、阿漕で怠慢な弁護士や、証拠を捏造する警察官、検察官、保身や組織優先で正義や真実を追及しない裁判官などに対し、徹底した責任者追及など、再発防止に繋げる実のある取組が必要です。
「運命の人」 山崎豊子著 (文春文庫)

1971年の沖縄返還協定にからみ、取材上知り得た機密情報を国会議員に漏洩した毎日新聞社政治部の西山太吉記者が国家公務員法違反で有罪となった有名な事件(「外務省機密漏洩事件」又は「西山事件」)がモデルの小説です。
「あとがき」にありますが、毎日新聞に務めた経歴のある著者が、同社の記者をめぐる事件を見事に描いた作品で、2001年3月から取材を始め、2008年末に完結させたそうですが、巻末の参考資料の多さからも熱意の程が覗えます。
本作は、05年1月から09年2月までの長期に渡り、月刊誌「文藝春秋」に連載され、毎日出版文化賞特別賞を受賞した作品です。
権力側に都合の良くない秘密が暴かれそうになった時、権力は「薄汚い不倫事件」に仕立て上げ、そこにある真実が見事に隠されてしまう経過が、見事な筆致で描かれています。
ただ、本作は、国家と闘う意志を貫いたジャーナリストが国家権力と国民の知る権利を問う物語と思いきや、物語の四編目は、本土の都合に振り回され続けた悲惨な沖縄を描く内容に変化してしまい、どうやら二兎を追いすぎた感があり、やや焦点がぼけて、斬新な物語の迫力が尻すぼみに感じるのがとても残念です。
ところで、物語にもありますが、返還協定に際し、「アメリカが地権者に支払う土地現状復旧費用」は、アメリカの公文書公開によって、400万ドルのうち300万ドルは地権者に渡らず、米軍経費などに流用されたことや、この密約以外に、日本が米国に合計1億8700万ドルを提供する密約、日本政府が米国に西山記者のスクープに対する口止めを要求した記録文書等が次々に明らかになっています。
ところが、日本では事件以降一貫して密約の存在を真っ向から否定してきました。
やっと、民主党政権により再調査が進められ、2010年に、全てについて密約及び密約に類するものが存在していた事を認め、作成後30年を経過した公文書については全て開示されることになったのはせめてもの救いです。
「罪と罰」 ドストエフスキー著 江川 卓訳 (岩波文庫)

今回読んだ江川卓訳は、かなり昔に読んだ米川正夫訳(新潮文庫2部作)よりも簡潔に分かりやすく翻訳されており、3部作になりましたが、文字も大きくて読み易くなりました。
この作品は、ドストエフスキー(1821~81)に世界的な大作家の名声を確かにした初めての傑作ですが、著者がシベリア流刑時代に構想し、1865年に執筆されたものです。
身内との悲しい死別、そして借金を背負って窮地に陥り、しかも病気がちの孤独な生活の中で創作された渾身の作品であり、執筆中の著者は、「小説だけが今の場合、唯一の希望です・・・今まで書いたものの中で最も良いものになりそうです。」と手紙に書き残しています。
哲学的、思想的、宗教的なものをテーマに取り上げ、日本人に極めてなじみの薄い、神と悪霊が同居している世界を描いたものなので、かなり難解なのですが、風刺やユーモア、人間愛などがうまく施されており、終始して緊張感を持って一気に読ませる不思議な魅力があり、多くの人が幅広い楽しみ方ができるとても価値ある芸術作品なのです。