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宇野港二十数年史?

2024年も残りあとわずかとなりました、皆様いかがお過ごしでしょうか?
今回は私が撮影した宇野港辺りの写真を基に、宇野港や周辺の変化や出来事を振り返ってみたいと思います。
撮影した写真の範囲なので抜けている出来事が多々ありますがご了承ください。
そして、とても長い記事になります・・・

今から20数年前の2001年、当時中3の私は日々再整備が進む宇野港を見て「これは記録しておくと後々面白いのではないか」と撮影がスタートしました。
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↑まだフィルムのコンパクトカメラ撮影で枚数がないです。奥に写っている旧フェリーセンターをなぜ近くで撮影してないんだ。2001年?月撮影
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↑旧フェリーセンターが消え、新たなフェリー乗り場の建屋の建設が進みます。2001年冬から2002年春頃撮影
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↑フェリー乗り場の建物がほぼ完成。2002年春頃撮影
そして2002年の夏、新しくデジカメを購入し早朝の宇野港を散策。
A40写真 0103
↑左端中に本四フェリーのネオン看板が残ってますね。なぜ撮影してないんだ・・・
後に第87玉高丸が一番多く撮影したフェリーとなりました。
A40写真 0105
↑国道フェリー乗り場の近くにあった自販機コーナーのうどんをすすりながら日の出を眺めます。本四フェリーはまだ仮設乗り場を使用していたみたいです。
そして2003年、役目を終えた仮設のフェリーセンター。
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↑2003年2月1日撮影
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↑近くで撮影した写真がありませんでした・・・
仮設フェリーセンター跡地にあの施設の建設が始まります。
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↑2003年9月撮影
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↑2003年10月撮影
2003年11月にオープンしその後は・・・現在に至る。
そして、年が明け2004年3月1日、大きな出来事が、津國汽船(本四フェリー)が宇高航路の単独運航を取りやめ、四国フェリーと共同運航化。
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本四フェリーは1度しか乗ったことがなく写真もほとんど残ってません。
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2004年7月31日、強風により瀬戸大橋線海上部が運休し、宇高航路のフェリーによって代行輸送が行われました。
A40写真 2899
この頃は、強風で橋が止まったらフェリーという流れが年に1回以上はあり、快速マリンライナー宇野行も運行されたりしていました。
そして、1ヶ月後・・・台風による高潮により宇野港は過去最高潮位となり、広い範囲で浸水被害が発生しました。
A40写真 3236
A40写真 0796

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この高潮被害によって、うどん自販機が撤去されました。
A40写真 3315
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また、両備バスも色々な所からバスを寄せ集めての運行を余儀なくされました。
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↑宇野港バス停は当時、産業振興ビル駐車場横にありました。
2004年末、四国フェリー宇野営業所だった建物が取り壊されます。
↓2003年5月撮影
A40写真 0538

A40写真 3806
↑よく見ると昭和30年代頃から在った黄色いポールの街灯もいつの間にか無くなってます。
2005年7、8月築港ビルが取り壊されます。
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↑2003年9月撮影
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↑2005年7月18日撮影
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↑2005年8月5日撮影
宇野港第一突堤の埋め立ても進んで行きます。
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↑2005年8月5日撮影
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↑2005年9月28日撮影
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↑2004年7月24日撮影
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↑2005年10月24日撮影
そして、2006年、宇野港第一突堤の大型客船バースが完成しました。
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↑2006年5月19日撮影
大型バースの完成は良いのですが、宇高航路を取り巻く環境は年々厳しいものになっていきました。
2008年4月1日、宇高国道フェリーが減便を実施、今まで当たり前のように思っていた28分毎運行が無くなりました。
その年の10月、宇野港銀座のアーケードが撤去されました。
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↑フェリーから見えていたこの景色も過去のものに。3枚とも2008年10月18日撮影
銀座が消滅した翌年、宇高航路のフェリーは暗雲が立ち込めてきます。
2009年4月1日、四国フェリーと共同運航していた津國汽船が宇高航路から撤退。
津國汽船は宇野ー風戸航路のみの運行に。

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↑風戸航路に使用された第十一日通丸はかつては宇高航路で使用されてました。
第十一日通丸改装記念絵葉書→今月の資料

12月、宇高国道フェリーと四国フェリー共に減便を実施。
年が明けて2010年、とても大きな出来事が、宇高航路を運航する2社が共に事業廃止を届出。その後撤回するも、好転することはなく・・・

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↑2010年8月の花火大会。
2010年の件以降、今まで当たり前の存在でろくに撮影していなかったフェリーの色々な写真を撮るようになりました。

2011年夏、護岸工事のため保存されている第2バースの一部が削られる。
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↑2012年1月22日撮影
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↑2012年4月8日撮影
2012年6月、唯一玉野市に本社を置くフェリー会社の津國汽船が経営破綻。
そして、宇高国道フェリーが24時間運航を取りやめて13往復に。
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その年の10月17日、宇高国道フェリーが運航を休止。宇野港の顔の一つが姿を消しました。
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↑私も最終便に乗船し、帰りは四国フェリーで帰ってきました。

↓在りし日の宇高国道フェリー5隻
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↑りつりん丸はこれ1枚しかないのが悔やまれます。
FX9写真 4005
↑おかやま丸
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↑たかまつ丸
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↑こんぴら丸
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↑こくどう丸

宇野港周辺の風景も少しづつ変化を遂げていきました。
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TZ20写真 1603
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↑3枚とも2012年11月3日撮影
2013年3月31日、小豆島豊島フェリーのせとしおが引退。フェリー2隻体制からフェリー1隻と旅客船での運行に。
TZ20写真 1830
↑2013年3月31日撮影
2014年の2月8日、宇野港周辺は久しぶりの大雪が降りました。
大雪の影響で瀬戸大橋が通行止めとなり、行き場を失ったトラック等が宇野港に押し寄せました。
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↑宇野に来ることはない四国方面の夜行バスの姿も。
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宇高航路の重要性を改めて感じた出来事でした。

この時撮影した一枚が今月グッズとなって販売中です。
詳細は→宇高連絡船愛好會 行事予定・活動報告

しかし、宇高航路の状況は好転せず、7月16日、四国フェリーは24時間運航を取りやめます。
TZ20写真 4068
2015年3月1日、四国フェリーは減便を実施10往復に。
対して、四国汽船は5月1日、新造船 なおしま を就航。
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↑2015年5月5日撮影
5月、宇野港のランドマーク的存在の煙突が解体されます。
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↑3枚とも2015年5月31日撮影
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↑2015年9月27日撮影
2017年4月1日、四国フェリーは減便を実施5往復に。1隻での運航となり、玉高丸は全て引退し第一しょうどしま丸での運航となりました。
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↑2017年3月10日撮影
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↑就航準備中の第一しょうどしま丸。※高松港にて
↓その後、玉高丸っぽい外観になる。
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2018年3月16日、四国汽船新造船 あさひ 就航。
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↑新旧あさひの並び。2018年4月1日撮影

そして、時代は令和となった2019年。
12月15日、四国フェリーは宇高航路の運航を一旦休止します。
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↑12月15日の朝、久しぶりに何時もの山に登り撮影。
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↑多くの人を乗せ高松に向けて出港
撮影後、次の便で高松へ行き、最終便で宇野に帰ってきました。
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↑2019年12月1日撮影
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↑2019年12月15日撮影
2020年、世の中はコロナ禍へ・・・
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2021年、宇高国道フェリー宇野営業所の建物が取り壊されるという話を聞き撮影。
ポンツーンの撤去や、台風によってネオン看板が飛ばされたりしましたが、2024年現在まで現存。ただ、荒廃が進んでいます。
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2022年2月、宇高国道フェリー乗り場近くにある、宇野港通船待合船の建物が取り壊される。
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↑公衆電話は修理されることなく・・・。2021年12月5日撮影
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↑2022年2月6日撮影
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この20数年間、港は再整備され、デジカメの画質は綺麗に、それと反比例するかのように宇野港を発着する船の数は減っていきました。
宇野港は定期航路あっての物種です。

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国鉄型錨成立までの背景

宇高連絡船愛好會で配布している宇高航路の廃線印スタンプのメインデザインとなっている国鉄型錨。その錨が作成されるまでの背景を紹介します。

もともと国鉄では、JIS型といわれるタイプの錨を使用していました。JIS型は昭和26年(1951年)にその当時に広く使用されていた海軍型を元に規格化されました。もともとはイギリスで19世紀末に開発されたホールスルーアンカーをベースとしています。このホールスルーアンカーは、錨の全長の3から5倍程度引かれると、シャンクを軸に反転し、把駐力を失い走錨状態に陥ります。

そもそもJIS型は「規格化されているので安全」というイメージが先行しがちでしたが、規格化された経緯が「広く使用されていた」「長い間使用されていた」という部分からで、錨として重要などのくらいの把駐性が発揮できるのかという部分は評価されていなかったという側面があります。

この弱点が顕在化したのが昭和29年(1954年)に発生した洞爺丸事故です。台風15号(後に洞爺丸台風と命名)の強風と波浪により、走錨が発生。最終的には客貨車搬入口からの浸水を引き金として、排水不能に至り漂流し、浅瀬への座礁、最終的には転覆から沈没に至った事故です。

この事故を受けて国鉄は、JIS型の改良を実施。これをJIS改良型といいます。
JIS改良型は[十和田丸(1)→]石狩丸(2)(ショルダーを拡大したもの)と檜山丸(1)(フリュークを拡大したもの)に採用されました。
また、国鉄は把駐力についての実証実験も実施しました。昭和33年(1958年)、34年(1959年)、36年(1961年)に函館港内外(七重浜沖・有川沖も一部あり)で計3次、昭和34年(1959年)には高松港外でも行われ、昭和36年(1961年)の日本航海学会第26回講演会にて結果の報告が行われました。

第1次実験では従来の投錨方法では「いずれも錨爪が上向きであって、我々の常識的予測を完全に裏切っていた」(原文まま)となり、下向きに投錨するために各種テストを実施。第2次実験では石狩丸(2)と檜山丸(1)のJIS改良錨の性能評価を実施しました。
この第2次試験の結果を踏まえて国鉄が試作していた5種類の錨の性能評価・結果解析を神戸商船大学に依頼し、そのうちの1種類の改4型の把駐性が良いことが確認されました。これを踏まえて第3次実験では、檜山丸(1)に改4型を取り付けてテストを実施しています。

この実験では
・JIS型は函館港のような底質(~100cmまでは軟泥、それ以降は硬泥)では正常な把駐状態とならない
・改4型は有効であるが、バルドー型の特徴を考慮してさらなる改良が必要
・把駐力は当初想定の半分程度
・砂より泥の方が把駐状態が良好
・投錨の際は海底近くまで静かに錨を降ろす方が良い
とまとめられています。

国鉄はこの実験の結果を受け、昭和37年(1962年)ごろまで錨の改良を続け、そうして誕生したのが国鉄型となります。青函連絡船では津軽丸型、宇高連絡船では伊予丸型で採用されました。(補助汽船などは従来のJIS型を継続採用)

国鉄型はバルドー型のアンカーとJIS改良型のスタビライザーの良いところを合わせた構造ではあるが、本来希望していた性能を満たすことはできなかったため、その後の採用例は少なく、現在ではほぼ使われることのない錨となっています。

函館港における青函連絡船の錨及び錨鎖の把駐力に関する実験について
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jina/26/0/26_KJ00004749164/_pdf

新會員挨拶

皆様、初めまして。
宇高連絡船愛好會に新入りした者です。

宇高連絡船 土佐丸について簡単にご紹介させて頂きます。
土佐丸は1966年4月16日に就航し、4隻の連絡船(伊予丸、土佐丸、阿波丸、讃岐丸)の運航最終日である1988年4月10日まで宇野と高松を結びました。
宇高連絡船としての役目を終えた後は、常石造船子会社・アイランドクルーズライン「SOUNDS OF SETO」として運航され、宇野港への寄港経歴もあります。

そこで、私の入會記念として、土佐丸(国鉄最後の年のver.)の模型を製作し、會としての立体資料として活躍させる運びとなりました。

完工は今年11月の予定です。

皆様、末永くよろしくお願い致します。

瀬戸内海の船上の景色(広島)

今月の資料はこちらです。

宇高連絡船の観光イベント船に乗船された方々も瀬戸内海の美しい景色を楽しまれたことでしょう。
瀬戸内海の穏やかな多島美は様々な航路で見ることができますが、今回は広島の航路の景色をご紹介します。
(それぞれのフェリーは乗った日は違います)
私が乗ってみた航路になってしまうのでちょっと偏りがありますが、そこはご容赦ください!


宮島1

まずはJR宮島フェリーからの厳島神社の大鳥居です。
(写真は過去に覚書で報告したものと同じです)
JR宮島フェリーと宮島は私たち宇高連絡船愛好會でも何度か写真や記事を掲載していますね。

過去の覚書

過去の覚書その2


場面が変わって……

宇品1

宇品のフェリーターミナルです。
ここから、江田島や似島、呉、そして愛媛県松山に行くことができます。
もちろん、ここから宮島に行くこともできます!



宇品2

広島電鉄の「広島港」乗り場です。


宇品3

バスの乗り場もあります。
ここから広島駅や市街地へと路面電車やバスに乗り換えていくことができます。


宇品4

フェリーターミナル入口そばの看板です。
観光船も出ています。
……一度乗ってみたいですね。


切串2

切串1

江田島の切串港行のフェリー乗り場です。


切串3

フェリーの上からの景色です。


切串5

切串港に到着してフェリーを見送ります。



また場面は変わります。

小用1

呉のフェリーターミナルから江田島小用港行のフェリーの乗船口です。


koyou

小用フェリーの甲板。


小用3

海の上から鉄のくじら館(海上自衛隊呉資料館)を見るのも不思議な気分です。

同じ景色でも陸からみるのと海から見るのでは印象が変わったりしますね。
今回の報告はこれで終わりです!

碓氷峠

今月の資料(リンク)が連結に関する事だったので、
連結にまつわる話をひとつ。

部屋の整理をしていたら、こんな写真が出て来ました。

2024082219580328d.jpg

信越本線 横川駅(平成初頭撮影)

今は終点となってしまった横川駅ですが、当時の駅名標の隣駅に「かるいざわ」とある通り
現在の北陸新幹線開通までは在来線で碓氷峠を越えていました。

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最大66.7‰(パーミル)の碓氷峠を電車単独で走るのは無理がある為
碓氷峠専用にEF63+62形電気機関車を連結して走行していました。
横川駅は峠の釜めし立売りで有名でしたが、始発の普通列車と言う事もあり
楽しみにしていた立売りはありませんでした。


普通電車は無事軽井沢駅に到着。

20240822195745a6a.jpg

車窓の記憶は殆ど残っていませんが、少しでも写真に残していた
当時の自分を褒めたいと思います。
プロフィール

宇高連絡船愛好會

Author:宇高連絡船愛好會
宇高連絡船愛好會について
 本會は現在メンバー20名平均40歳代から成り立っており、岡山県玉野市を拠点に活動しています。私達は「鉄道連絡船」を「時代の流れ」として片付けるのではなく、連絡船の果たした役割を後生に残して行くという目的から様々な活動をしています。

活動内容:資料収集・研究・展示・連絡船発着岸壁(バース)の保存・模型の制作・ホームページの作成

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