痛快 世界の冒険文学「奇巌城」(逢坂剛版)について
「奇巌城」は邦訳やリライトされた作品が数多くあります。そのなかで、逢坂剛氏がリライトした「奇巌城」については、私はおすすめできません。
逢坂版「奇巌城」はハードカバーの「痛快 世界の冒険文学 奇巌城」1999年、「逢坂剛の奇巌城」(2002年)、講談社文庫「奇巌城」(2004年)とありますが、ざっとみたところ、ハードカバー版は総ルビで、文庫版はルビを除いている以外はほぼ変わりがないと思われるので、引用には講談社文庫を用います。講談社版とは講談社文庫を指し、改作者は逢坂氏を指します。ページ数は講談社文庫のページ数です。
私はこのバージョンを特に気にせず読みました。しかし再読していくと変に気になる部分が頻発しました。もっとも酷いのがボートルレのキャラクターです。まさかここまで人を人とも思わない人物だとは思いませんよ。
講談社版のボートルレは尊大で、自分以外の人を下に見ています。それはルパンやホームズだけでなく、父親にまで及んでいます。「父もさすがに、以前と同じ過ちは犯さないはずだ」(P183)というのは、親に向かって使う(思う)言葉じゃありません。そもそも父親はミスをしていないので責任転嫁です。他のシーンでも父親に対する労りの気持ちや迷惑をかけたことへの申し訳なさが見うけられません。
またボートルレが予審判事の名刺を振りかざし、金銭を無駄に使いながら捜査することも気になりました。これはどういうことか疑問だったのですが、ある時予審判事の名刺は「警察手帳の代わり」なのではないかと考えたときすっきりしました。もともと講談社版は昭和の刑事ドラマに似た印象を受けます。ボートルレの行動のいくつかは本物の刑事であれば、受け入れられないこともありません。でも、ボートルレは社会人ではないのです。
この2点だけでもこの本が薦められない十分な理由たりえると私は思います。子供向けという企画で掛かれたものにふさわしくないからです。権力とお金は子供が持っていない1、2です(大人だって持ってません)。少年物は子供が大人にはない魅力で打ち勝つのが醍醐味ではないでしょうか。
これは企画に無理があったのだろうと思います。改作者はおそらく児童書と縁遠かったと思われますし、普段小説を書くのとは勝手が違ったでしょう。そして原作を理解していません。フランスが舞台の小説で、フランス語の暗号にもフランス語が使われている。理解するにはそれらの知識が必要なのです。しかし企画がそれを考慮していなかったのではないでしょうか。企画がどういう作品を求めているのか、ほかの作品や執筆陣を見ても分かりません。
しかし理解していないのは問題です。原作が理解できないのは状況的に仕方がないとは言えますが、理解していないのが明らかなのに改作者が原作に対する悪印象を喧伝するのは心穏やかでいられません。私には講談社版の方が疑問に感じる箇所が多いからです。そのいくつかの点について指摘したいと思います。
分かりやすい点では令嬢の誘拐事件で、伯爵ともう一人の令嬢が縛られたことになっているのに、後の詳細で縛られた情報があるのは令嬢だけです(P67とP69)。また、令嬢の偽装死体が公的機関に安置されていることになっていますが、夏場で一ヶ月経っていれば、まして令嬢だと思われていれば埋葬されているのではないでしょうか(P134)。
根拠がない断定も多いです。
一味が、四点のルーベンスを車で運んだことは、間違いない。あの絵は、徒歩でかついで遠くへ運ぶには、大きすぎるからだ。(P74)
遠くへ運んだといつ決まったのでしょう。大きすぎるというのなら、近くに隠して身軽になって逃げることも考えられますし、運ぶ手段も自動車しかない訳はないと思います。大きすぎるといっても、車のトランクに入るくらいとするならそう持て余すほどの大きさと思いません。(ところで絵は「かついで」運ぶのでしょうか。)
「四月二十三日の朝、怪しいふたりの男に荷馬車を貸しませんでしたか。(略)」(P77)
2人といつ決まったのでしょう。この前後に描かれている犯行一味による盗品の偽装は、それをする意味が分かりません。誰が出入りするか分からない納屋に見張りもおかず何時間も放置するくらいなら、そのまま運んでしまった方が安全でしょう。何より盗みの最終となった日に悠長に偽装をしているのが解せません。親分を助けなくてよいのでしょうか。
大きな問題は人称の件です。
改作者は一人称小説にしたといっています。しかし読むと一人称の小説という印象は薄いです。ボートルレ以外の人物の考えた、感じたことが出てくること、ボートルレの行動にも客観的評価の混ざった表現が使われていること、人物名に敬称が省略されていること(これによりボートルレの尊大さを増幅させている)などが理由です。一人称にしたというならボートルレ以外の人物の心理は一人称では描きにくいはずです。ボートルレの一人称小説にしたと言っているのに、解説で賞賛されている心理描写が令嬢の心理状態なのはどういうことでしょう。
冒頭は令嬢の一人と使用人から話を聞いて整理したということになっていますが、館へ来た段階では事件の詳細を知らないのだから令嬢二人に話を聞かないのは変です。種明かしで「今」(P35)とあるのはここから現在進行で物語が進んでいきますよという合図と思いますが、では冒頭の出来事はいつどうやって整理した物なのでしょう。書かれていることは正しい情報だと言えるのでしょうか。
撃った銃の弾が男に当たった、男が倒れた、男が物陰に隠れた。これら全部間接的に伝えられるだけで、一人以外見ていません。冒頭の情報源を令嬢二人にしなかったのは、ある証言の食い違いからでしょうが、結局すべてもう一人の令嬢の目撃に頼っている、その情報が正しいことを前提としているのは物語の成立としては危ういと思います。
また、使用人たちは犯人の姿が見えなくなってから登場していて「あの男は絶対ここから逃げてはいませんよ」(P30)と言えるはずがありません。出口はすべて固められたとありますが、言葉だけで、開け放しとなっていた裏の戸がの状態が不明だったり、捜索に出た人物が皆館内に戻ったりと状況的に脱出不可能とは言えません。(それに、知らない男をあの男とは言わない。)
私が講談社版に感じるのは不快です。ラストも、英国人探偵がボートルレに弱みを握られ脅され引導を渡されます(「ぼくは引導を渡した」と書いてある)。その引導のセリフをなぜ最初に会ったときに言わないのでしょうか。相手が弱っているところを見計らって、相手がどうにもならないことで責めることをよしとしているわけではないでしょう。不愉快です。
文章も好きになれません。あくまで私の感覚でいうと言葉使いが適切ではない箇所(ボートルレの父に対する言葉、「てこでも離れまい」など)が散見されます。古い言葉の多様も読者のことを考えのものとは思えません。「いいたもうな」「ござるよ」「お釈迦さまでも気づくまい」などわざとらしいほどです。ボートルレに宛てた電報の文面にある「ご来駕」というのは日常目にしない言葉です。言葉遣いに所々下品さや無粋な響きがあるのもやはり子供向けには向かないと思います。
原作を理解していないのは仕方のないことだと思います。しかし原作を闇雲に変更するだけで、取捨選択ができていません。講談社版は令嬢二人の部屋が2階、絵のある客間は1階となっています。廃墟や池、草むらなど障害物が多いのに、なぜ客間を1階にしたのでしょう(一味が梯子無しで侵入。令嬢誘拐事件で部屋が2階)。客間に隣接してバルコニーがあるけれど、バルコニーは、2階以上に設置されるものというイメージがあります。
不合理な箇所として、「ある女性が、ルパンの命を助けるにいたった動機に、説得力がない」ことをあげていますが、男女の間柄なのだから、合理とか不合理とかで扱う物ではないのではないでしょうか。講談社版のような間柄があったとしたら、ルパンは今回の盗みをやめていると思います。何か起きたら迷惑がかかるのは彼女だからです。また、盗みの当日、ルパンがすぐ逃げなかったことや、令嬢が3歩しか離れていない相手が誰なのか認めることができなかったことが不審に思います。
講談社版ではこの女性を半ば一味の味方として扱い、非難がましい書き方までしているのに、場面により原作のルパンのセリフを流用しているのが不自然です。
講談社版は原作とは違います。どこがどうかといわれれば悉くです。
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