恋こそ人の命なりけり
馬場あき子『歌説話の世界』を読んでいたら、平安時代の歌人・能因に関するある説話が紹介されていた。
能因が自分が歌を提出した歌合の勝敗が知りたくて、ひそかに会場に忍び込んだ。相手の歌が詠まれると、自分の負けを悟って密かに退出したということだ。
能因の歌は
「くろかみの色もかはらぬ恋すとてつれなき人にわれぞ老いぬる」
相手方の藤原頼宗の歌は
「あふまでとせめてわが身の惜しければ恋こそ人の命なりけり」
である。
歌の優劣はよくわからないけど、頼宗は難しく考えなくても意味の分かる率直な歌だと思う。「恋こそ人の命なりけり」というフレーズに惹かれて、何気なく検索してみた(ググってみたのである)
すると、幕末の志士伊東甲子太郎が詠んだとされる和歌が出てくる。浦島坂田船さんの曲「誠-Live for Justice」では、「逢ふまでと せめて命が 惜しければ 恋こそ人の 命なりけり」と引用され、この形がよく知られているらしい。
しかしほぼ同じ形の和歌が藤原頼宗の歌としても検索できるのだ。そこで状況を整理してみたいと思う。
藤原頼宗の和歌は、1035年に藤原頼通の屋敷で行われた歌合で詠まれた歌で、『後拾遺和歌集』に入集した。
「逢ふまでと せめて命の 惜しければ 恋こそ人の いのりなりけれ」
ところが、5句目が「いのりなりけれ」ではなく、「命なりけれ」となっている場合も多いのである。そして係り結びの「こそ」があるので、本来末尾は「なりけれ」だったものが崩れて「なりけり」となれば、ほぼ伊東甲子太郎の和歌と同じである。
昔の本は手書きで書かれていたので、「いのりなりけれ」が、「いのちなりけれ」に間違われるのはなんとなくわかる。かなの「り」と「ち」の形が近いこと、「命なりけり」という表現で有名な歌があったこと、この2つが影響しているのではないだろうか。(『袋草紙』で「わが身」となっているのは謎である)
「逢ふまでと せめて命が 惜しければ 恋こそ人の 命なりけり」は伊東甲子太郎が藤原頼宗の古歌を書き付けたということではないだろうか。
□引用
馬場あき子『歌説話の世界』講談社
あふまでとせめてわが身の惜しければ恋こそ人の命なりけり(P102)
『袋草紙』岩波書店・新日本古典文学大系
※上巻と下巻では底本が異なる
上巻
あふまでとせめてわが身の惜しければ恋こそ人の命なりけれ(P83)
下巻
あふまでとせめていのちのをしければ恋こそ人のいのりなりけれ
「けれ」「けれ」、また病なり。
(略)この時、作者の大臣病ある事を始めて覚悟して(略)後日相ひ改めて、自筆の集には「こひのをしきかな」と書かる(P199)
逢ふまでとせめていのちのをしければ恋こそひとのいのりなりけれ(P214)
『後拾遺和歌集』岩波書店・新日本古典文学大系
巻第十一 恋一
642 逢ふまでとせめていのちのをしければ恋こそ人の祈りなりけれ
『歌合集』岩波書店・日本古典文学大系
長元八年五月十六日関白左大臣頼通歌合(賀陽院水閣歌合)
十番・恋 右
あふまではせめていのちのをしければ恋こそ人のいのりなりけれ
『栄花物語』小学館・新編日本古典文学全集
巻第三十二 歌合
あふまでとせめて命のをしければ恋こそ人の祈りなりけれ
『宝物集』岩波書店・新日本古典文学大系
62 あふまでとせめていのちのおしければこいこそ人のいのり也けれ
『十訓抄』小学館・新編日本古典文学全集
「一ノ十」
あふまでとせめて命の惜しければ
恋こそ人の命なりけれ
これは長元八年、三十講の歌合の歌なり。「けれ」の詞二つあれども、沙汰なくて、勝ちにけろ。
同詞の病なれども、歌がらよくなりぬれば、聞きとがめざるにや。
□参考リンク
新日本古典籍総合データベース:後拾遺和歌集
http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100000027/viewer/120
あふまてとせめて命の惜けれは恋こそ人のいのちなりけれ
新日本古典籍総合データベース:袋草紙
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100005434/viewer/85
あふまてとせめていのちのおしけれはこひこそ人のいのちなりけれ
国立公文書館 デジタルアーカイブ:群書類従:賀陽院水閣歌合(6コマ目)
https://www.digital.archives.go.jp/item/728558.html
あふまてとせめていのちのおしけれは恋こそ人の命なりけれ
国立国会図書館デジタルコレクション:入道右大臣集 : 尊経閣叢刊. 解説
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184263/17
国立国会図書館デジタルコレクション:入道右大臣集 : 尊経閣叢刊. 解説
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184264/17
あふまでといのちのせめてをしきにはこひこそ人のいのりなりけれ
伊東甲子太郎「残し置く言の葉草」(2)恋・志
http://www4.plala.or.jp/bakumatsu/kodaiji/ik-waka-2.htm
あふまてとせめて命のおしけれは恋こそ人の命なりけり
誠-Live for Justice- 歌詞 浦島坂田船 | オリコン
https://music.oricon.co.jp/php/lyrics/LyricsDisp.php?music=6766275
逢ふまでと せめて命が 惜しければ 恋こそ人の 命なりけり
佐藤 雅代「「命なりけり」の歌の系譜」山陽論叢 26巻 P189-198
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sanyor/26/0/26_189/_article/-char/ja/
空行く月のめぐり逢ふまで:逢ふまでの恋ぞ祈りに
http://sorayukutsuki.livedoor.blog/archives/478985.html
逢ふまでの恋ぞ祈りになりにける年月ながき物思へとて(続後撰和歌集 藤原為家)
※藤原頼宗の歌を本歌取りした歌