レジェンド・オブ・フォール

 第一次大戦から禁酒法時代までかなり長いタイムスパンで、散漫な印象はあるものの、才能にムラのあるエドワード・ズウィック監督の、これは「当たり」のほうだな(「外れ」例:『ラスト・サムライ』、「当たり」例:『ブラッド・ダイヤモンド』)。

 モンタナの農場主(アンソニー・ホプキンス)の次男坊で、悪気なく自然体に生きてるんだが周囲の人間を不幸にするファム・ファタールの類型の一つの男版みたいな主人公がブラッド・ピット。なんというか、容姿と佇まいだけで勝負、演技力はあんまり要らんという、当時の彼にこれ以上なく相応しい役だな。この、「容姿と佇まいだけ」で勝負できるところが、キアヌ・リーヴスとかと決定的に違うところなんだが。

『フューリー』を観たばかりなんで、いやー20年前にはこういう役者だったんだなあ、と改めて感慨。

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フューリー

 機械全般にさして興味はないのだが、なぜか「でかくてごつい機械が動いている映像」は大好きである。それも、舐めるようなカメラワークで撮られてるのが好きだ。

 第二次大戦末期、ドイツ国内を侵攻中の戦車小隊のたった一日を描いた映画である。役者はいい仕事をしているが(近年、一作ごとに風格が増していくブラッド・ピットはもちろん、『トランスフォーマー』や『インディ・ジョーンズ』の時はこんなにいい役者になるとは予想だにしなかったシャイア・ブラーフとか)、とにかく私の関心は戦車に尽きるのであった(でかくてごつくて動く機械だから)。

 戦車が大量に出てくる映画といえば『バジル大作戦』(1965)だが、これはティーガーⅡの代わりをM47パットン戦車、シャーマンの代わりをM24軽戦車が務めていて、M24は戦時中に開発されたのに対し、パットンは戦後なので、性能どころか外見からして時代が違う(撮影当時はどちらも現役だったんだけど)。どっちかがタイムスリップしてきたみたいなチグハグな戦闘映像でした。

 その点、今回はちゃんとティーガー対シャーマンなので(本物のティーガーとシャーマンも撮影に使われていたという)、余計なことを気にせず鑑賞できた。ドイツ降伏直前という設定なので、シャーマンは数台、もともと生産台数の少ないティーガーに至っては一台しか出てこないんだけど、その一台が化け物のように強い。このティーガー対シャーマン小隊の戦闘が、最大の見せ場。ああ、この場面だけもう一回スクリーンで観たい。

 

『バルジ大作戦』感想

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シンデレラマン

 ジェームズ・ブラドッグは将来を嘱望されたボクサーだったが、株に手を出した直後に大恐慌が起きる。以後、少しでも稼ぐために無理なスケジュールで試合をこなさなければならなくなり、怪我が多くなり、負けが込み、賞金は少なくなり、という悪循環で、大恐慌4年目にして、とうとうライセンスを剥奪される。

 以下、ネタバレ注意。

 何年も試合から遠ざかっていたボクサーが、代役として急遽出た試合で勝利を収め、その後もトントン拍子で勝ち続け、ついにはチャンピオンになってしまう、という嘘のような本当の話。
 とはいえ、何年も試合どころかトレーニングさえしていなかったのに、いきなり勝ててしまう、という件に関しては「奇跡」ではない。身体を使った技能(スポーツや楽器演奏など)にある程度熟達した人は、イメージトレーニングだけでも実際のトレーニングに近い効果を得られるようなるんだそうな。運動をイメージするだけで、高次運動野がそのとおりに活動するようになるからだ(正確な動きをイメージできる程度に習熟している必要がある)。
 だからブラドッグが何年ものブランクの後でも勝つことができたのは、彼がその間ずっと「ボクシングをする自分」を思い描き続けていたからだということになる(当時はイメージトレーニングなんて知られていなかっただろう)。つまり勝てたのは、奇跡でも強運でもなく文字どおり意志の力のお蔭だったわけで、そのほうが遥かに感動的である。
『戦場のピアニスト』でエイドリアン・ブロディがトーマス・クレッチマンの前で見事な演奏を披露できたのも、同じ理由からだな。

 ブラドッグを演じるのがラッセル・クロウ、その妻がレニー・セルヴィガー。どっちも嫌いな役者で、単体だけならまだしも二人揃ってるなんて耐えられそうもない、というのが今まで敬遠していた理由だが、偶々観る機会があったので。
 クロウを嫌いな理由は暑苦しいからで、セルヴィガーを嫌いな理由はこれ見よがしに「どう、巧いでしょ?」な演技だからだが、本作では二人ともその嫌な部分が抑えられている。特にクロウは暑苦しさがまったくなく、『L.A.コンフィデンシャル』以来である。しかもコミカルな場面ではちゃんとコミカルな演技をしてたし。

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鉄コン筋クリート

 キャラクターは松本大洋の原作かなりそのまんまだが、舞台となる宝町は緻密な極彩色のランドスケープと化しており、明らかに主役はこっち。

 町全体としては「過去にも現在にも存在しない町」なわけだが、通り一本とか建物一軒、オブジェ一個という単位でなら、少し前まで日本のどこかにあったようなものばかりだ。特に大阪あたりに多かった感じだが、今でも田舎に行けば、悪夢のようなセンスの閉鎖された遊園地とか意味不明なオブジェがごろごろしてるからな。  
 そういう「どこかにありそうで、どこにもない」「どこにもないが、どこかにありそう」な町を主役に、補佐するかたちで、よくまとまった脚本、よくうごくキャラクター、いい仕事をしてる声優陣、印象的な音楽と、全体的にたいへん楽しい映画でした。

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ラースと、その彼女

 冬の寒さの厳しい田舎町に住むラースは対人スキルが非常に低く、家を出ていた兄が妻を連れて戻ってくると、同居を拒んでガレージで暮らすほどである。周囲は彼のことを何かと気に掛けるのだが、本人は放ってもらいたがっている。
 そんなラースが、兄夫婦に紹介した「ネットで見つけた恋人」は、いわゆるラブドールだった。
 どうやら人形を本物の人間と信じているらしいラースを、兄夫婦は言いくるめて町医者のところへ連れて行く。心理学者でもあるその女医さんの指示は、「ラースの妄想を受け入れなさい」
 自分たちだけでは手に余ると判断した兄夫婦は、教会を中心とした町の自治会にも協力を仰ぐ。その結果、町ぐるみでラースの妄想を受け入れることになる。

 いくら小さな田舎町とはいえ、個人を支える多数の善意の規模は電車男並みのあり得なさだが、善意の中心にあるのがラブドールというところに毒がある。その毒も含めて出来のいいお伽話。

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ドラキュラZERO

 ブラム・ストーカーの『ドラキュラ』は、あくまでワラキアの君主ヴラド3世をモデルにしているだけで、ヴラド本人が吸血鬼だったとしているわけではない。それを、ヴラドが吸血鬼だった、という話にしたのが本作。
『ヘルシング』でも確か、ドラキュラ=ヴラドという設定だったと思うが、まあドラキュラ映画としてはオリジナルな発想であろう。

 串刺し公ヴラドはルーマニアでは英雄ということになっていて、残虐行為も「小国の君主の已むに已まれぬ必要悪」ということになってるそうだが、本作もこの路線で押し通している。織田信長の人気を考えれば、日本人にこのヴラド像を批判する資格はないわな。

 吸血鬼に興味がないのになぜ観に行ったかと言えば、①ルーク・エヴァンス好きの妹に付き合いで、②大幅にフィクションとはいえ、ヴラド・ツェペシュが主人公の映画に興味があったから。
 結果としては、それなりに史実を素材として巧く使っていて、例えばヴラドが少年時代にオスマントルコの人質だったという史実とイェニチェリ制度を組み合わせて、ヴラドはイェニチェリだったので戦闘能力が高いんだという設定にしてある。ついでに、衣装やセットも、このレベルの嘘歴史アクション映画にしては重厚で美しい。
 吸血シーンも、「ヴラドが吸血鬼になるまでの話」なので、ほとんどないし、吸血鬼の描写もおおかたは「醜悪な怪物」なのもよかった。何が嫌いって、お耽美な吸血鬼ほど嫌いなものはないんだよ。
 
 というわけで、吸血鬼になったルーク・エヴァンスにも興味はないのだが、解放された「マスター・ヴァンパイア」(解放後はいったい何になったんだとか、ところどころ設定が曖昧だなあ)のチャールズ・ダンスが、ダンディな老紳士でなかなかかっこいい。

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ライフ・オブ・パイ

 動物園を経営する父と大学出の母を持つインドの少年パイは、幼い頃から信心深く、ヒンドゥー教に加えてキリスト教とイスラムも信じるようになる。やがて動物園の経営が思わしくなくなり、一家は動物たちとともにカナダへ移住することになる。
 船は太平洋上で嵐に遭い、救命ボートに乗ることができたパイとシマウマ、オランウータン、ハイエナ、そして虎を除き、家族も他の動物も乗員も皆、船とともに海に沈んでしまう。
 翌日、嵐が止むと、まず足を骨折したシマウマをハイエナが殺し、続いて雌のオランウータンとハイエナが格闘になり、オランウータンが殺される。怒りに駆られたパイがナイフでハイエナを刺し殺そうとした瞬間、それまでシートの下に隠れていた虎が飛び出してきてハイエナを殺す。
 斯くしてボートには少年と虎が取り残され、メキシコまで漂流を続けることになる。

 以下、ネタバレ注意。

 この「奇想天外な話」が、もう一つの「奇想天外でない話」のメタファーと解釈すれば、非常にわかりやすい。パイの「暴力性」のメタファーである虎が、それまで隠れていた場所から飛び出してきたのは、パイがまさにハイエナを殺そうとした瞬間だし。
 とはいえ、こちらの「奇想天外でない話」はあまりに殺伐としているし、「奇想天外な話」が何もかも「現実」のメタファーだとしたら、例えば人食いの浮島は何を暗示しているのか不明である。
 要は、無理に理屈にこじつけず、「奇想天外な話」を楽しむべきだということである。

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るろうに剣心 伝説の最期篇

 二部作の後篇。一応ネタばれ注意。

 原作の志々雄真実は時代背景を巧みに取り込んだキャラクターだけど、展開のほうは雑魚の群れから始まって、だんだん強くなる敵を一人ずつ倒していく、という、よく言えば少年漫画の王道で、そのまんま映画にしたら、ま、あんまおもんなかっただろうな。志々雄のキャラクターを活かしつつ、よく練られた脚本でした。
 お蔭で十本刀のほとんどが、見せ場どころかクローズアップすら碌にないという有様でしたが。比較的出番のあった面子も、致し方ないとはいえ、バックグラウンドについては各々一言ずつ説明されたきり。
 方治くらいは、もう少し性格描写があってもよかったんではないかと。あれじゃ参謀じゃなくて、ただの腰巾着だ。

 剣心、左之助、斎藤、蒼紫の四人がかりのラスボス戦は、「それでも倒せないほどの志々雄の強さ」がちゃんと表現されてるのがすごい。同じようなことをやって、弱いものいじめにしか見えないとか、主人公とその仲間が急に弱くなったようにしか見えないという失敗例が多々あるだけに。
 由美と志々雄の最期は原作どおり。原作を知っている人なら誰でも、あれを原作どおりにするのは当然、変えたら無能だよと思われるかもしれないが、原作(漫画に限らず)付きの映画って、なぜそこを「改悪」する? それじゃ台無しだろうが、と問い詰めたくなるようなのが本当に多いんだよな。
 原作への敬意という点も含めて、よい映画でした。

 前篇で操役の子のアクションに非常に感心させられたので、今回はアクションがなくて残念。
 比古清十郎は……アクションは悪くなかったものの、福山雅治は福山雅治にしか見えないなあ……ミスキャストとか以前の問題だ。
 神戸から出張で東京に来ていたアメリカ人の友人(高校時代にるろ剣のファンだった)と一緒に鑑賞したんだが、日本の芸能人をほとんど知らん彼女は、「比古清十郎かっこいい、原作どおり!」と大喜びでした。ちょっと羨ましかったり。

前篇『京都大火篇』感想

第一作感想

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リトル・ランボーズ

 1980年代のイギリス。聖書原理主義の家庭に育ったウィルは、「世俗の娯楽」をことごとく禁止され、映画もTVも観たことがない。ある日、隣のクラスの問題児リー・カーターと偶々関わり合いになってその家に行き、リー・カーターが盗撮した『ランボー』のビデオを見てしまう。たった一本のアクション映画でこれまでの厳しい躾は吹き飛び、リー・カーターと意気投合したウィルは、『ランボーの息子』という映画の制作に取り掛かるのであった。
 
 ……考えてみると、シルヴェスター・スタローン出演作って、『デス・レース2000』しか観たことない(それも今年の頭だ)。幼少のみぎりに何かであの筋肉を見かけ、ハムの塊みたいで気持ち悪いと思って以来、観る気になれんのよ。それ以来、マッチョ全般も嫌いだし。

 何はともあれ、『ランボー』を観たことがない人でもシルヴェスター・スタローンを嫌いな人でも、問題なく鑑賞できる良作です。

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ライアンの娘

 デヴィッド・リーン監督作。第一次大戦中、アイルランドのど田舎の娘が、外の世界への憧れを村の唯一のインテリである小学校教師に投影し、恋だと勘違いして結婚するのだが、待っていたのは相変わらずの村の平凡な日常なので、大いに幻滅する。やがて、新たに幻想を投影する相手が見つかるのだが、それが村に駐留する英国軍の将校だったため、たいへんに面倒なことになる。

 デヴィッド・リーンだけに、たかが不倫ものを複雑な政治情勢と巧く絡めて壮大な叙事詩にしているというか、デヴィッド・リーンだけに、たかが不倫ものでも壮大な叙事詩にならざるを得ないというか。
 アイルランドの雄大な自然(南アフリカ・ロケも一部交じっているそうだが)も、登場人物たちの心理や時代背景を象徴的に表現するのに効果的に使われ、作品のスケールを大きくするのに一役買っている。
 ただし、ヒロインと英国将校の情事の場面、1970年当時の規制で直接描写を避ける必要もあったんだろうけど、寄り添うように風にそよぐ二本の蜘蛛の糸、寄り添うように風にそよぐ二本のタンポポの綿帽子と来て、最後にダメ押しのように、寄り添うように風にそよぐ二本の早蕨と来た時にはさすがに、もうええがな、とツッコミを入れてしまった。
 これに先立つ初夜の場面の身も蓋もなさは、むしろ当時としては斬新な表現ではなかったかと。

 私は暗い画面(心理的にではなく、物理的な明度の問題)を長時間観ていると気が滅入ってしまうので、ビデオ時代は古い映画を観るのがしんどかった。DVDになって、古いフィルムの傷を修正するついでに色調も明るく補正してくれるのは、たいへんありがたいことである。が、悲しいことに、いい加減な仕事がかなり多い。
 この『ライアンの娘』は、それが特にひどかった。ナイトシーンを明るくしすぎているのはよくあることだが、それに加えて、場面によっては人物が背景から浮き上がって見える。海や空の青、木々の緑などが鮮やかすぎて、安っぽくすら見えるのも、色補正の失敗だろう。
 きっと作品への思い入れも何もない、やっつけ仕事なんだろうな(思い入れがあってこの出来だったら、それはそれで悲しいが)。

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