マチェーテ

 映画鑑賞する精神的余裕が足りない状態なのだが、『プラネット・テラー』の嘘予告の時から楽しみにしていたこれは観ないわけにはいかないのである。一応ネタバレ注意。

 タランティーノは良くも悪くも映画オタクだが、ロバート・ロドリゲスは熱狂的な映画(B級)ファンではあるものの良くも悪くもオタクではない。タランティーノが他者からすればどうでもいいこだわりで作品全体の構成を損ないがちなのに対し、ロドリゲスはB級的な思い付きを盛り込むだけ盛り込んで追求はしないので、アイディア倒れに終わりがちである。
 本作も、その場限りの思い付き以外の何ものでもない嘘予告から始まった企画なのだが、にもかかわらず、すべての思い付き(の大部分)が最後まできちんと機能している。『プラネット・テラー』と同じく意図的にB級な作りにしてあるものの、『プラネット・テラー』と違ってやり過ぎ感はなく、脚本も実は結構先の読めない展開となっている上に破綻がない。そして何より、ダニー・トレホの魁偉にして特異な風貌を余すところなく活かしている。紛れもなくロドリゲスの最高傑作だ。やればできるんじゃん。

 わざわざ『プラネット・テラー』をレンタルして嘘予告を確認する気はないのでしないが、嘘予告と同じ構図の画が幾つもあったのには感心した。ダニー・トレホがプールで裸の白人女二人と戯れてたり(まさかそれをリンジー・ローハンにやらせるとは)、大勢のメキシコ人と共にマチェーテを振り上げて気勢を上げてたり。機関砲付きのバイクで爆発を背に大ジャンプ、もあった気がする。
「メキシコ人を舐めるな」の台詞も入っていたが、惜しむらくは嘘予告で一番ツボに嵌まった「メキシコ人不法労働者のくせに連邦主義者だと!?」という意味不明な台詞が削られていたことである。まあ意味不明すぎて使えなかったんだろうな。

 とにかく、これまでのロドリゲス作品と違って、無駄がないのが素晴らしい。例えば、罠に嵌められ負傷したマチェーテは、不法移民専門の闇医者の許に担ぎ込まれる。闇医者がお色気ナース相手に、腸は身長の何倍あるとか蘊蓄を傾けている。タランティーノ作品の如くその後の展開になんの関係のないただの蘊蓄かと思いきや、直後に追手との乱闘に突入し、驚くなかれ、マチェーテは悪党の一人の腹を搔っ捌いて腸を引き摺り出し、ロープ代わりにして窓から脱出するのである。
 あるいは、ジェシカ・アルバ演じる連邦捜査官が、現場なのにピンヒールを履いている。現場なのにピンヒールか、と思っていると、ちゃんとピンヒールを武器に使ったアクションシーンが用意されているのである(それ1回きりなんだけど)。

 ロバート・デ・ニーロが悪役なのは珍しくもなんともないが、大物に見せかけて実は小物というのは珍しい。追い詰められて馬脚を現しオロオロする場面を、実に嬉しそうに演じていた。
 真の黒幕は、悪役に初挑戦のスティーヴン・セガール。貫禄は充分だったが、デ・ニーロとの共演シーンはなく、もしあったらどうなっていただろうかと気になる。貫禄負けしてしまうか、あるいはデ・ニーロが小物演技に徹するか……
 メキシコの麻薬王役で、どうやらメキシコ人という設定のようだったが、「ファンサービス」で武器は日本刀というか長ドス。きっとこだわりがあって長ドスなんじゃなくて、なんにも考えてないからなんだろうな。ロドリゲスだし。なんか土産物屋で売ってそうなちゃちい奴だったし。
 それでも腐ってもセガール、堂に入ってました。ほんのちょっとだけだが合気道のアクションもあり、最後には切腹までしてくれる大サービスなのでした。スティーヴン・セガールを知らない観客にはまったく意味不明なのであるが。

 アメリカ人の友人を横浜観光に連れて行ったついでの鑑賞であったが、アングロサクソン系、一応プロテスタント、ロバート・ロドリゲスは名前しか知らない彼女も、なかなか喜んでいましたよ。

 今回も音楽は監督自身のバンドCHINGONであった。オクタビオ・パス(『孤独の迷宮』)によれば、この語はメキシコの国民性(マチスモ)を最も端的に表しており、意味するところは「強姦野郎」である。

『プラネット・テラー』感想

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キングダム・オブ・ヘヴン

 再鑑賞。一応、資料としてである。何が見たかったのかというと、戦闘場面(特に攻城戦)である。舞台は12世紀末のエルサレム。私が必要としているのは8世紀半ばの中央アジアの資料なんだが、無いんだよ、ほとんど。

 登場する武器兵器の描写は、それなりの考証と、映画的な見映えの兼ね合いといったところ。イスラムというと「半月刀」だが、これがイスラム圏に登場するのは早くても14世紀らしい。本作でも、唯一の例外を除き、ほかはすべて先端だけがわずかに湾曲した刀剣を使っているようである(動体視力がないんで、混戦シーンではきちんと確認できなかったが)。
 唯一の例外とは、一番最初に登場するイスラム戦士が使っていたものである。たぶん、最初の登場ということで、観客の「イスラム戦士=半月刀」という思い込みに迎合したんだろうな。一対一(または少数対少数)のイスラム戦士の戦闘場面はここだけで、後はほとんど混戦ばっかりだから刀剣の形に注目する客も少ないだろうし。

 弓は長弓じゃなくて合成弓(ケンタウロスが持ってるようなん)を使ってるのも正しい。弩は当時のイスラムでは個人携帯用のんは使われず、架台付きの大型のんだけ。映画ではどっちも使ってなかった(フランク側は架台付きの弩を使っていた。個人用のはどうだったけか)。
 攻城城とか衝車の屋根とかには、ちゃんと防火用の皮革が貼ってあった。細かいなあ。攻城塔をこけさせる戦法は、十字軍時代の別の戦闘で実際に行われている(ただし、やったのはイスラム側)。

 登場した投石機(トレブシェットではなくバリスタと呼んでおった)は、イスラム側も十字軍側も錘式だった。この型の投石機はイスラム起源らしく、使用開始は12世紀後半なので、これは正しい。
 それ以前の牽引式(人がロープで引っ張る)投石機で飛ばせるのは最大重量50キロ、最大射程50メートル程度なのに対し、錘式の投石機は最大重量230キロ、最大射程300メートルである。
 しかしこの映画だと、エルサレムを攻撃したサラディン軍の投石機は、弾丸こそ230キロより軽そうだったが、どう少なく見積もっても500メートルは離れてそうな場所から飛ばしてて、しかも城壁のすぐ内側だけじゃなくて市街地にも落ちてたな。まあ、遠くから飛ばしたのは軽そうな弾丸(火炎弾)だけで、重そうな弾丸(岩塊)はもっと近付いてからしか飛ばさなかったけど。『ロード・オブ・ザ・リング』(三作目)では、1トンくらいありそうな岩塊をえらく遠くから投げ込んでたような記憶が(ファンタジーだからありなのか?)。
 何はともあれ、細部まで丁寧に作ってあって、しかもそれが作動するところが丁寧に取られていて素敵でした。ガラガラ回る巻き上げ機とか、ズンと下がる錘とか、ブンと跳ね上がるアームとか。
 
 十字軍時代の中東の焼夷兵器は、「ギリシア火」の名で知られている。イスラム諸国だけでなくビザンツ帝国も使用したので、こう呼ばれた。これは石油を精製したりほかの物質(硫黄や硝石など)を混ぜたりした焼夷剤をポンプで噴射したり、小さな壺に入れて投げたり、大きな壺に入れて投石機で飛ばしたりした。『キングダム・オブ・ヘヴン』に登場したの三番目のもの(火炎噴射器は、TVシリーズの『クルセイダー』でやってた)。
 当時のこうした大小の「火炎壺」には、すでに火薬が使われていた。といっても、まだ爆発するほどの威力はなく、一緒に壺に入った焼夷剤の燃焼促進剤として使われてたようだ。導火線で点火されてから投擲され、落下して壺が割れると、激しく炎が噴き上がる。
 だから映画の中で、着弾した火炎弾が非常に勢いよく炎を噴き上げはしても、爆発と呼べるほどの激しさではなかったのは正しい。

 でも、導火線で点火してたはずだから、炎に包まれた状態で投擲されるのは変なんだけどね。「轟音を上げ、昼間の空のような光を放って」飛んできた、という十字軍側の記録に基づいてこの場面を作ったのは間違いない(夜襲だし、飛行中の音もすごいし)。でも導火線使ってたんだよ? この記録は、飛んでいる途中で炎が噴き出したということなのだと思う。
 まあ、導火線付きのでかい壺が飛んでって、途中で炎を噴き出すとか、着弾して初めて燃え上がるとかよりも、炎に包まれた状態で飛んだほうが見映えがいいのは確かだ。「飛んでる途中で炎を噴き出す」って、特殊効果でもめんどくさそうだし。
 しかし、火薬も焼夷剤も壺の中だから、外側に点火してもその場で大炎上したりはしないんだろうけど、でもあんな炎に包まれてる弾丸をセットしたりして、投石機に燃え移っちゃわないか?と観てて気になって仕方なかった。

 歴史ものなのに、あまりにも考証が蔑ろにされてるのんは腹が立つが(だって、そんなんやったら歴史ものにする意味ないやん)、厳密にすればいいというものでもないと思っている。その点、『キングダム・オブ・ヘヴン』は、かなりきちんと考証した上で、その知識を適度に活かすと同時に適度に無視して、見映えのいい画面を作れているんじゃないでしょうか。

 以下、一応ネタバレ注意。
 史実に基づいた叙事詩は、数世代にわたる戦争や移住の歴史を一人または何人かの英雄の偉業に圧縮してまうものだが、史劇映画(特に中世以前)もまた尺の問題で、長期間にわたる出来事を短期間の出来事に短縮しがちである。トロイア戦争の伝説は、数世代にわたる抗争をわずか9年間の戦争に圧縮しているが、ブラピの『トロイ』はさらに短縮されて、せいぜい数か月の出来事にしか見えん。
『キングダム・オブ・ヘヴン』でもこの手の短縮はあるが、まあせいぜいオーランド・ブルーム演じるバリアンがあっという間に王に信頼されて、あっという間に王の妹と恋に落ちるくらいで、全体としては史実に忠実。

 バリアンの「だって主人公だから」的改変は別にして、一番改変されたキャラクターは、王の妹(エヴァ・グリーン)だろうな。映画では強いられて16歳で結婚した夫ギー・ド・リュジニャンを嫌っているが、史実では兄王の死後、顔がいいだけの無能なギーに一目惚れして結婚し、王位を与えてしまったんだそうな。
 たぶん全登場人物のうち最も史実どおりなのが、ブレンダン・グリーソン演じるルノー・ド・シャティヨンで、暴力と財宝が大好きで、強い者には媚び諂う、絵に描いたような悪人だった。ギーは映画で描かれたような血に飢えた暴君ではなく単なる無能で、ルノーの言いなりだったという。
 ああも紋切り型(史実には忠実なんだが)の悪人だと、あんまりおもんない。いっそギーも史実どおりの無能な操り人形にしたほうがおもしろかったんじゃないか。映画だと似た者同士でキャラ被ってるし。野心剥き出しの悪人より単なる無能なほうが、ボードワン王(エドワード・ノートン)に「ギーを王にするわけにはいかないから、そなたが妹と結婚せよ。ギーは処刑する」と言われたオーランド・ブルームが、「良心が咎めます」と断る展開に説得力も出るし。

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シャーロック・ホームズ

 ガイ・リッチー監督の。

 容姿はともかく、人格破綻者ぶりは原作どおりではないかと思う。さすがにコカイン常用の設定は、ワトソン博士所有の「医薬品」をくすねていることになってたが。ただの間抜けではなく、ほんのちょっと抜けてるところはあるものの概ねかっこいいワトソン像もよい。
 以下、ネタばれ注意。

 超常的な事件と見せかけて実は合理的(科学的)な仕掛けが、というプロットは、原作にも幾つかある。ざっと思い出せるものだけでも、バスカヴィル、まだらの紐、黄色い顔、それに「這う人」なんていう怪作もあった。
 合理的(科学的)といっても、まだらの紐の「インドの毒蛇」は架空のものだったりするし、この映画版に登場した薬物・毒物が(青酸カリ以外は)空想的というか制作者に都合のいい設定なのは、たぶん原作へのオマージュだろう。電気で遠隔操作する装置は、スチームパンク的だが。

 それにしても、「超常的な事件と見せかけて実は合理的(科学的)な仕掛けが」、というプロットは、コナン・ドイルが超常現象ネタに引っかかりやすい人だったという事実を皮肉っているような気もするんだけど、きっと気のせいだろう。

続編「シャドウゲーム」感想

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借りぐらしのアリエッティ

 メアリー・ノートンの原作は、「床下の小人たち」と「野に出た小人たち」までしか読んでいない。生活必需品を「借りる」という形で人間に依存しながらも、人間から身を隠し続けなければならない小人たちの生き方が、当時小学生の私には少々シビアすぎたのだ。

 アニメは、原作のシビアさを残しつつも相当和らげ、「人間の道具を利用した小人たちの生活」という人形遊び的な楽しさを最大限に活かしている。日本の古い洋館(疑似西洋建築)で暮らすイギリスの小人たち、という設定は、むしろ「木かげの家の小人たち」(いぬいとみこ)を思わせる。
 原作との対比はこのくらいにして(何しろ読んだのは四半世紀以上前のことだから)、以下は単体のアニメ映画としての感想。

 とにかく丁寧に丁寧に作られた、精巧な作品である。宮崎駿の脚本も、非常にバランスが取れている。近年の宮崎作品は、彼の関心の比重が「絵」と「動き」(特に後者)に置かれているようで、脚本はそれらを見せることを目的に書かれており、「物語」はごく表層的で、取ってつけたようなものとすら化していた。しかし今回は自らが監督するわけではなかったので(すなわち、少なくとも「動き」に関しては自ら監督するほど見せたいものがなかったので)、物語はごくオーソドックスでバランスの取れたものになっている。
 宮崎駿自身が見せたい「動き」がなかった(と思われる)ため、本作は宮崎印であるところのダイナミズムに欠けている(「飛行」も「落下」もない)。とはいえ、それゆえキャラクターたちのアクションが現実離れした超人的なものではなくなり、充分に「ありえそうな」ものになっている。
 もっとも、小人たちのアクションを人間の尺度に置き換えてみると、充分に「超人的」なんだけど。まあ、ぎりぎりのところで「ありえそうな」に納まっているリアリティというか(もちろん、そもそも小人は非現実だという突っ込みは無しである)。

「絵」に関して言うと、「小人の目から見た世界」というのは宮崎駿がやりたかったことではあるんだろうけど、ここまで精緻な、偏執的ですらある作り込みは、おそらく米村宏昌監督個人の作風だ。
 絵の描き込みや丁寧さは宮崎作品の特徴ではあるのだが、それは宮崎監督が興味のある(と思われる)画に関してだけであり、手を抜いてあるところは抜いてあるし。今回のように、全編通して万遍無く、隅から隅まで、というのんとは違う。それに宮崎作品では描き込まれた画でも、無骨さ(特に機械)、或いは引っ繰り返したおもちゃ箱かガラクタの山的な印象であって、精緻さ・精巧さとは違うのである。
 まあ本作品では、この箱庭的な精緻さが「小人の目から見た世界」とこの上なくマッチして、一軒の家という極めて狭い舞台ながら、閉塞感に陥ることなく仕上がっている。

 あくまで、精緻なのである。舞台となる家は古くて庭は草ぼうぼうだし、すべての画面にわたって物がごちゃごちゃと描き込まれているにもかかわらず、宮崎作品的な「ガラクタ」感とは無縁である。どこか整然としているのだ。
 不潔さがない点も、宮崎作品とは違う。必ずしも不潔さが描写されていない宮崎作品もあるが、手入れの行き届いていない古い屋敷が舞台で、「小人の視点」であるにもかかわらず、ゴミも埃もカビも存在しない。
 小人の目から見た人間の身体の汚さが描かれているのは『ガリバー旅行記』である。小人の少女と人間の少年の恋が主題である以上、『ガリバー旅行記』のようなリアルな汚さを描くわけにはいかないのは当然だが、まったく描かないというのも不自然だ。

 しかしまあ、それらは監督の個性であるし、特に精緻さと、閉塞感に陥ることのないバランスの良さは得難い資質と言うべきなのだろう。
 もっとも、「小人から見た世界」の作り込みも、実はかなりムラがあるんだけどね。不潔さの排除は措くにしても、布や紙の厚みがまったく無視されてるのが特に気になった。人間(巨人)が作った布が小人(人間)にとって重くてゴツゴツして不快、ってのも、『ガリバー旅行記』である。布や紙の質感を出すのは、セルアニメじゃ無理だろうけど、厚みくらいはなんとかならんかったんかいな。水の表面張力まで表現してんのにな。
 私はアニメ声優の画一的なメソッドは好きではないが、だからって素人(声優として)のぎこちない演技や発声・滑舌の悪さは充分弊害だと思う。特に『ポニョ』の時はそれが顕著だった。今回は申し分なし。特に樹木希林が素晴らしかった。

 それにしても宮崎駿監督作品以外のジブリ作品は、付き合いで観た『思ひ出ぽろぽろ』しか知らんのだが、やはり宮崎作品のあの「曰く言い難い不穏さ」は他人には表現不可能なのだろうな。
 あの不穏さ、あるいは不気味さは、あまり言及されていないが、宮崎作品を宮崎作品たらしめる最大の特徴である。あれがあるから、宮崎作品は単なる良作に納まらない。『トトロ』が可愛くて楽しいだけのお話だったら、夜の森の闇をあんなに深くする必要はないし、『ラピュタ』が少年少女の冒険とエコをテーマとするだけの優等生的作品だったら、ムスカに「見ろ、人がゴミのようだ」などと言わせる必要はないのである。

『アリエッティ』は、宮崎駿が脚本を担当しているにもかかわらず、そういった不穏さはまったくない。「影(翳り、不安)」はあるが、闇はないのである。
 あの曰く言い難い不穏さが誰にも継承されることなく絶えてしまうのは、実に残念なことである。

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アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち

 タンゴの巨匠たち(1910年代~30年代生まれ)の名演を集めたアルバム「café de los maestros」(2006年)の制作から、コロン劇場でのコンサート(2007年)までの記録……という企画であることは、作中では一切説明されてないんだけどね。

 映画館はほぼ満席だったが、年配の方々ばかりであった。30代より若い客は、たぶん私と友人だけ。マエストロたちと同年輩と思われる人たちが半数以上。
 私は90年代のピアソラ・ブームでタンゴを聴くようになった口だが、あのブームはやっぱり一過性だったのかな。タンゴ・コンサートに行っても、昭和30年代のブーム以来のファンと思しき年配の人が大半だし。

 構成は、マエストロたちへのインタビューと彼らの演奏というもので、明確なストーリーはない。演奏は素晴らしいし、短いインタビューにも溢れ出るマエストロたちの強烈な個性も素敵である。
 しかし御高齢の方々には少々つらかったのであろうか。爆睡するする。劇場内には高鼾が響き渡ったのであった。

 それでも最後のコロン劇場でのコンサートになると皆さん目を覚まし、帰り際にはたいへん満足した様子でしたので、私も安心しましたが。

 ピアソラは好きなんだが、ずっと聴いてると、奇を衒いすぎなのが鼻に衝いてくる。全体にアメリカナイズされすぎだし、特に70年代のシンセサイザーを多用した曲にはかなり辟易するというか。
 そうすると、もっとシンプルなタンゴが聴きたくる。20年代の曲はさすがにシンプルすぎるので、40年代~50年代の、ちょうど今回のマエストロたちの最盛期の曲を聴く。

 しかし本作はたいへん価値のある映画だとは思うんだけど、タンゴの新しい動きとは直接には結び付かんよね。タンゴの現状についてはほとんど触れられていないし(マエストロたちの一人が学生たちを教えている短い場面があるのみ)。
 出演したマエストロは22人に上るんだけど、撮影開始から現在までに、8人も亡くなっているそうである。

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アリス・イン・ワンダーランド

 世間でのヒットにも関わらず、私の周囲では至って評判がよろしくないのだが、桜木町の県立図書館まで行ったついでに観てまいりました…………だってジョニー・デップが好きなんですもの……
 クリスピン・グローヴァーも好きです。すみませんわかりやすくて。

『アリス』の映画版を観るのは、ディズニーアニメも含めてこれが初めて。『ドリーム・チャイルド』なら観ている。ワンダーランドのシーンはわずかだが、三月兎やドードー鳥等、動物キャラクターがみんなボロボロの剥製みたいで気持ち悪く、意図してやってるなら素晴らしい。あと、イアン・ホルムの演技はよかったが、やはりルイス・キャロルは美形役者が演じるべきであろう。ああいう嗜好のくせにそこそこ美形だというところが、ルイス・キャロルの真骨頂なわけだから。
 なお、ここで「美形」というのは、「世間一般の感覚からすると美形であろう」という意味です。世間で美形と言われる男を見ても、私はいまいちピンと来ないのです。

 単におもしろかった、あるいはつまらなかった映画の感想は、ブログには書かない。映画の感想を書くのは、どうおもしろかったのか、あるいはどうつまらなかったのか、自分で考えをまとめたい時である。
 で、バートン版『アリス』の感想を一言で言うと、びっくりするほとつまんなかった。マジびっくり。
 よくもまあここまで『アリス』をつまんなくできるもんだという意味では、おもしろかったですよ。
 以下、どうつまんなかったかを述べる。

 小説と映画という表現形態の違いによって同じ作品がどのように変わるのか興味があるので、読んだことのある小説が映画化されたのを観たり、観た映画の原作小説を読んだりすることもある。今回は、そういう動機で観たわけではないんだが。
 原作(小説のほかにも漫画とか演劇とか)を映画化するには、いろいろと変更が必要である。単に尺の問題とか、単に実写では不可能な表現だとか(技術の進歩で解消されつつあるが)、原作ではおもしろかった表現や展開でも映画には向かないとか、あるいはもう一歩進んで映画にしかできない表現・展開に変えるとか。

 そういう必然性のある変更のほかにも、必然性がまったくないとしか思えない変更もある。それが改善なのか改悪なのかは、鑑賞者によっても判断が分かれるところであろうが、私は根性がねじけているので、それが改善だろうと改悪だろうと、「おまえ、こう変えたほうが原作よりよくなるとか思ったんだろ? 自分のほうが原作者より巧いとか思ってんだろ!?」と邪推してしまうのであった。
 まあ上に挙げた「必然性のある変更」も認めない原作至上主義者というのんもいるんだけどね。

 ティム・バートンはインタビューで、映画版『アリス』で行った変更について、次のように述べている。
「(原作の)小さな女の子が奇妙なキャラクターの言いなりになって彷徨い歩くだけのストーリーにはあまりに魅力を感じない」
「僕は、『アリス』の世界に、もっと深さを与えたかった」

 芬々たる「俺のほうがルイス・キャロルより上」臭がします。原作が嫌いだったら、そもそも映画化なんかするなよ。

 具体的にどのような「魅力」「深さ」を与えたのかというと、「敵がいて倒す」、「それを通じて主人公が成長する」話に変えたのである。
 摑みどころのないワンダーランドには、「赤の女王対白の女王」という「原作にはない明確な対立構造」(パンフレット解説より)が持ち込まれ、
「『オズの魔法使い』をはじめ、おとぎ話ではいつも、主人公は冒険を通じて、自分が抱える問題を解決する。この物語でも、彼女は冒険を通じて強くなるんだ。それは大きな旅ではあるが、同時にとてもプライベートな旅だ」(インタビューより)

 だったら最初から、『オズの魔法使い』でええやん。悪い女王(魔女)対善い女王(魔女)の構図なんかまんまやし。
『アリス』は当初、父と妹たちと一緒に観に行くつもりだったのだが、予告を観た父が、「『オズの魔法使い』みたいで怖いから観たくない」と言い出して取り止めになったのであった。父は就学前にジュディ・ガーランド主演の『オズの魔法使い』を観て大層怖い思いをし、還暦を過ぎた今でもトラウマとなっているんだそうな。父曰く、「ああいうアメリカのファンタジーはデザインが気持ち悪くてやだ」。

 父の危惧というか直観は的中していたわけで、バートン版『アリス』はデザインも含めて何から何まで悪い意味で『オズの魔法使い』化、悪い意味でアメリカナイズされていたのであった。
 バートン指揮下のスタッフたちが、プロットのみならずデザインについてまで「原作より俺らのほうが上」と考えていたのは明らかで、ジョン・テニエルのデザインはことごとく悪い意味でアメリカナイズされている。それ以外のオリジナルのデザインも、人間が演じたキャラクターのデザインはまあいいとして、風景や小道具に関しては、基本的にはいつものバートン映画のデザインと同じ路線にあるにもかかわらず、呆れるほど凡庸で、悪い意味で安っぽい。
 アメリカ的大味デザインでも、『オズの魔法使い』のほうが素朴(良い意味で)でプリミティヴ(良い意味で)だっただけ、遥かにマシである。

 予告やスチールでは「呆れるほど凡庸」とまでは思わなかったのだが、兎穴での超高速落下(原作ではのんびりと落ちていく)ですでに顰蹙し、最初の部屋から出た庭園のデザインを目にして最初に思ったことは、「これがギジェルモ・デル・トロ監督だったら……!」であった。その思いは終幕まで続く。ギジェルモ・デル・トロの『アリス』だったら……!
 別に私はそれほど『アリス』に思い入れがあるわけではないが、ジョン・テニエルの挿絵込みでなら、かなり思い入れがある(あの挿絵を気に入らなかったルイス・キャロル当人については、嗜好を昇華することのできた変態だと思っている)。

 プロットについて話を戻すと、つまりアメリカ人は例外もあるが大半は、無意味なものに耐えられない、明確な対立構造のない作品に耐えられない、主人公が成長しない作品に耐えられない、明確な教訓またはメッセージがない作品に耐えられない。それらがない作品は、それらがある作品よりも劣っているので、自分たちがそれらを与えてやることで「ダイナミックで深みのある魅力的な作品」になったと得意満面、というわけだ。
 おまえらなんか『オズ』がお似合いなんだよ。『アリス』に触んなや。

 ティム・バートンはそういうアメリカ人に於ける例外のはずだったんだけどねえ。徐々に作品に「意味」や「明確な対立構造」や「成長」を与えるようになってきているのは判ってたんだけど、ここまで堕ちていたとは……

 まあ『アリス』の映画化・『アリス』の改悪ではなく、オリジナルの「敵がいて倒す」「それを通じて主人公が成長する」、ジャリ向けファンタジー映画としては、かなりよくできているんじゃないですか? そもそも私は「敵がいて倒す」「それを通じて主人公が成長する」映画をおもしろいとは思わないんだが。『アリス』映画としてはゴミ。
 バートン映画としては最低ランク。最底辺の『猿の惑星』よりは遥かにマシ、と言えるが、『猿の惑星』はバートン映画としてはゴミ以下なので、あんまりフォローになりませんね。

 もう一点だけフォローをすると、上記のとおり凡庸なりにプロットや演出はそれなりの水準にあり、その中で役者(人間のキャラクター)はいい仕事をしていました。とにかくデザインはよかったし。
 ヒロインのミナ・ワシコウスカは例外。本人の責任というよりは、例によって凡庸で無個性なヒロインしか作れないバートンの責任。主人公としてのヒロインでさえ、そうなんだからなあ。
 それは措いて、ヘレナ・ボナム・カーター、ジョニー・デップ、クリスピン・グローヴァーと、狂気役者揃いである。アン・ハサウェイが、狂気役者の素質を持っているのは意外だった。この調子で頑張れば、『チャーリーズ・エンジェル・フルスロットル』のキャメロン・ディアスの狂気を孕んだ笑顔を越えられるでしょう。
 トウィードルダムとトウィードルディーのマット・ルーカスも良かった。

 しかし所詮、「意味のない狂気」を理解できないアメリカ人が造形したキャラクターなので、せっかく醸し出された狂気は活かされていない、もしくは余計な理由づけをされて台なしになっているのであった。あ、フォローになってない。いや、とにかくあまりのつまらなさが逆に興味深かったというのは措いても、人間のキャラクターのデザインはよかったですよ。

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2010年度佐藤亜紀明治大学特別講義 第2回

何かが起こった瞬間、複数の人間が現場に居合わせたとして、同時にtwitをしたとする。他人がそれをリアルタイムで読んだとしても、出来事そのものを認識することはできない。
 その場に居合わせた人々自身であっても、出来事そのものを認識できはしない。観察者の数だけ情報の断片がある。出来事が丸のまま観察され、報告されることはない。

 だから、出来事そのものという「実体」はないのか? ……というのが、前回のお話。

 事件の総体を知っている、と人が錯覚している状態というのは、(事件を取り巻く)言説のネットワークがどのような形であるのかを知っている、ということである。ネット(網目)の形によって、中身を認識しているのである。

 そうした言説の網目の有効性が問われる時が来る。その瞬間に生まれるものがある。

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Isdr

 ゴヤの「サン・イシドロの草原」(上)と「サン・イシドロの巡礼」(下)。
 伝統的技法で描かれた「草原」の背景の群集は巡礼の人々である。つまり、二枚への絵は同じ主題を描いている。しかし「黒い絵」の「サン・イシドロの巡礼」のほうは、物事をありのままに写そう(無論、美化して)、という西洋絵画の伝統に関心がない。

 この二枚は描かれた時期が若い頃と晩年だが、次の二枚は同時期にセットで描かれたものである。

Goya_lucha00 「5月2日」

Goya_fusilamientos00 「5月3日」

「3日」や「黒い絵」では、人物はルーベンス的な立体的な肉体を持っていない。平面化され、記号化(キャラ化)されている。

 表現というものはどう変わり得るのか。表現が変化するということは、その表現によって包み込まれていた(あるいは包み込もうとしていた)実体が変化するということ。

 同時代の美術・文学・音楽は同じ傾向を持っている、と言えないことはない。ただし、どのように同じなのかという証明は非常に難しい。
 例えば、ゾラはセザンヌと親しかったが、画家を主人公にした小説を書いたら、「おまえは何も解っていない」と絶交された。画家が絵を描いている時、何を考えているかなど、小説家には解らないし、画家自身も解ってはいない。

 しかし彼らの間で共通するものはある。世界を把握する方法が似ているのである。それを鑑賞者は「同じ傾向」として感知しているのだろう。

「5月2日」と「3日」のテーマは一続きである。重要なのは、このような描き方の違いが起きた理由である。
 ゴヤ以前、ヴォルテールはポルトガル地震の惨禍に衝撃を受けて書いた『カンディード』で人物を機械人形のように平面化して描いている。これはゴヤの平面化された人物の描き方に通じる。

 表現は表現から作られる。表現は表現の網目からできていて、その網目が世界を包んでいる。網目が無効になった瞬間、表現は自ずと変わる。

 ゴヤのあの描き方をストレートに継承した者はいない。(ただし、皆無とは言えないかもしれない。いかにもゴヤらしいゴヤ作品だと思われていた「巨人」が、弟子の作品だと昨年判明した。それはともかく)スタイルだけ継承したのがマネである。

Mane07 「マクシミリアン皇帝の銃殺」

 人間が平面化され、「リアリティ」がない。写実性や固有色を否定した近代ヨーロッパ絵画は、ヨーロッパ絵画におけるミメーシス(模倣)の崩壊である。その原点はゴヤだと言える。彼自身にそんなつもりはなかったのだが。

 ゴヤにとってスペイン内戦は、表現を変えざるを得ない体験だった。見えている世界が変わってしまったので、表現も変えざるを得なかったのである。表現は必然性があって壊れるものである(だから「表現を壊そう」という意気込みで作られたものは碌でもない)。
世界が変容してしまえば、そこで表現された対象は、元の形をしていない(以前の方法で表現された形はしていない)。
 しかし世界は変容していくが、いったん確立された表現(様式)は、世界の変容よりも寿命が長い。刷新された表現を批評するには、その言葉もまた新たに作り出されなくてはならない。
 19世紀後半から20世紀初頭に新しく生まれた表現を、批評家たちは美しいとは思わなかった。彼らが美しいと思うのは、前時代以来のアカデミズム絵画だった。しかし彼らが新しい表現を評した言葉は的確だった。それが「印象派」であり「フォーヴィズム」である。何をもって美しいとするかという判断基準とは別の次元で、見る目は確かだったのである。

 大野晋が晩年に語った言葉:「最近の人はものをきちんと見ていないから、文章をきちんと書けない」
 これも、(皮肉抜きで)的確な評である。「きちんとした見方」すなわちそれまでの見方ではものをきちんと見ていない、つまりものの見方が違う。ものの見方が違う(=「きちんと見ていない」)から、表現もまた違ってくる(=「きちんとした文章が書けない」)のである。

 ……以上、前年までのまとめ。いよいよここから今年の本題「笙野頼子」である。

『母の発達』(1996)は、書き手(「=笙野頼子」とは限らない)が認識している世界と、一般的な世界の概念とのズレを描いている。世界を、書き手にとって見えているように書いている。
 世界(もしくは、少なくとも「母」の概念)の語り直し、書き換えである(ただし、この作品の段階では、まだ言語遊戯に留まっているきらいがある)。
母親を、言葉によって解体しているのである。語り手にとってだけでなく、母親自体も解体されていく。
 佐藤氏は初めてこの作品を読んだ時、書き手は悪意によって母親を解体しているのだと解釈した。しかし数年後再読して、母は意に反して解体されているのではないのだと気づいた。母の概念を解体することによって、母娘ともども解体され、浄化されるのである。

 これを、「お母さん、あなたは母である前に一人の人間なのです。自由になりましょう」という、いわゆるフェミニズム的な言葉に言い換えても、何一つ解体されない。言葉に魔術性がないからである。言葉の魔術性は、世界を変容させることが可能である。

第1回講義
 

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2010年度佐藤亜紀明治大学特別講義 第1回 ①

 5月29日。
 時間的にも気力的にもまとめるのがしんどいのだが、まとめておかないと後でノートを見返しても何が何だかわからないのは必至なので頑張る。

 まず、「これまでのお話」。

『トゥモロー・ワールド』や『宇宙戦争』といった、これまでになかった表現の映画が作られるようになった。
 どの辺が「これまでになかった表現」なのかというと、暴力の表現である。暴力が、人間に対して大々的な規模で振るわれるようになる。
『トゥモロー・ワールド』では、テロはなんの前触れもなく起こる。「爆発が起きるぞ」というサスペンスは一切無い。また、レンズに血痕が付着するといった、ドキュメンタリー手法で撮られているのだが、それはプロのカメラマンによって撮影されたのではない、偶々その場に居合せた人間が撮影したかのような映像である。こうした手法は娯楽映画にすっかり定着した。

 その下地は、ベルリンの壁崩壊以降の各地の紛争に於いて生まれていた。特に顕著なのがボスニア紛争である。
 それまで「難民」というのは我々とは違う「第三世界」の「可哀想な人たち」だった。「彼らも私たちと同じ人間なんだ」という想像力を働かせる必要があった。
 ボスニア紛争以降、難民とはベンツに乗ってipodを聴いているような、つまり「私たちと同じ」人々となった。「私たち」は、いつでも難民になり得る人々となったのである。

 1998年制作の『マーシャル・ロー』(エドワード・ズウィック監督)では、ニューヨークで大規模テロが起きるという設定の下、多数のイスラム系住民が軍隊によってスタジアムに収容される。「軍が市民をスタジアムに収容」というのは1973年のチリ・クーデターでやってることで、いやでもその後で行われた大虐殺を連想させる。
「米軍が自国民に対してそういうことをやりかねない」というのは、それまでに存在しなかった想像力である。こうした、アメリカの想像力の変化が顕在化するのは、言うまでもなく9.11以降である。

 ちなみに私はズウィック監督作品は『戦火の勇気』『グローリー』『ラスト・サムライ』『ブラッド・ダイヤモンド』しか観たことがないので、講義後、佐藤哲也氏に「ズウィックって才能があるんですかないんですか」と尋ねたら、「『レジェンド・オブ・フォール』は傑作だから観なさい」と叱られた。『グローリー』が駄目なのは、まだ若かったからだそうです。

 映画に於ける殴り合いの「型」の変遷。
 1948年ジョン・ヒューストン監督『黄金』ではボクシング。1963年の007シリーズの『ロシアより愛をこめて』ではプロレス(「型」は前者ほど明確ではないが、列車内での格闘シーンで網棚をリングのロープのように使うところなど)。
 どちらも男の筋力と体格にものを言わせた格闘なので、女が出る幕はない。それを変えたのはブルース・リーの登場である。服を着てれば全然強そうに見えず、脱いだら脱いだで、その肉体は持って生まれたのではなく鍛錬によって造り上げられたものである。
 つまり、恵まれた体格でない男および女も、技量を高めることによって強くなれる、という認識が生まれたのである。

 以降の映画に於ける格闘場面は、技をきれいに見せるものになる。その傾向は未だに続いているが、それとは異なる「型」が2002年の『ボーン・アイデンティティ』に始まるジェイソン・ボーン・シリーズである。
 このシリーズの格闘には「型」がない。二人の男が揉み合ってると思ったら、どっちかがダメージを喰らって倒れているのである。観客には何がどうなったのかは判らない。どのような攻撃をしたのか、という一打一打を撮っていないからである。

 攻撃側が「どのようにダメージを与えたのか」ではなく、攻撃された側が「どれだけのダメージを受けたか」だけを描く、というのは、『トゥモロー・ワールド』や『宇宙戦争』に於ける大々的な暴力の描き方に通じる。我々は何が何だかわからないうちに、大打撃を蒙るのである。

2010年度第1回講義②

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2010年度佐藤亜紀明治大学特別講義 第1回 ②

「語った数だけ歴史があり、“事実”は存在しない」という言説への疑問。

 村上春樹の『アンダー・グラウンド』。
 インタビュー集とはいうものの、誰の発言であろうとことごとく「春樹語」に翻訳されており、村上春樹作品になってしまっている。しかし、それでも判る「事実」はある。
 それは、地下鉄サリン事件そのものというよりも、事件が切り取った「その日」の首都圏の断面図である。例えば地下鉄の線によって現れる、「階級」の違いとか(当時日本には存在しないとされていた)。
 例えば、永田町へ向かう線で被害に遭った人々のほとんどがインタビューを拒否した中、唯一答えたのが防衛庁の人たちだった、とか。
 例えば、印刷所に勤める中年男性は、サリンのビニール袋が下に置かれた、まさにその座席に座り、異臭に気づいていながら立たなかった。せっかく座れた席から、絶対に立ちたくなかったのである。そして、そのせっかく座れた席で深く眠っていたため、そんな位置にもかかわらずそれほど被害を受けなかったのである、とか。
 例えば、ある男性は衣服に染み込んだサリンを振り撒きながらタクシーに乗ったが途中で力尽きた(そして、タクシーの運転手が二次被害を受けた)。すでにホームに降りた時点で気分が悪くなり始めていたであろうに、そうまでして彼は出勤しなければならなかった、とか。

 こうした「現場の語り」は信用できないと言えるのだろうか。

 あるいは、史料は信用できない、という意見がある。古い時代であれば識字階級は社会の上層のほんの一握りだから、特に下層階級についての記録など偏見に満ちていて信用できたものではない、参照するだけ無駄だ、等々。
 しかし、例えばヨーロッパであれば、貴族の子供は乳母をはじめ下層階級の人間に囲まれて育った。彼らが下層民を知らない、と言えるだろうか。
 文化がある一線できれいに分けられるということはあり得ない。一人の人間の中でさえ、複数の文化が入り混じっている。

 駅の売店で売っているゆで卵はネットに入っている。ある一つの出来事、それ自体は、あのゆで卵のようなものかもしれない。我々が歴史と呼んでいるものは、その出来事=ゆで卵を包む言説のネットであり、中身である出来事そのものを我々が認識(あるいは解明)できることは永遠にない。
 もしかしたら、中身は空白かもしれない。しかしそうだとしても、それを包む言説が恣意的なものとは限らない。
 ゆで卵=出来事を包む言説一つ一つにも、それが出てくる状況(背景)がある。「南京大虐殺はなかった」という言説にも、それが生じた背景は存在する。

 出来事そのものという中身が認識できないからといって、なかったことにしようとする人々もいる。例には事欠かないが、その中身にこだわらざるを得ない人々もいる。
 例えば、海外で知人一家とTVを見ていると、登場した一人の政治家の顔を見て、それまでの和やかな空気が凍り付く。後で聞いたところによると、一家の祖母は戦時中、目の前で父親を殺されている(パルチザン同士の抗争だった)。その殺人者がTVで演説していた政治家だった、という。
 そういう人たちに向かって、当事者の記憶、語りはあてにならないから、そんな出来事など存在しなかったのだ、と言えるのか。

 歴史の捉え方の一つに、歴史=事件史というものがある。このやり方だと、事件一つ一つを個別に把握することになる。例えば「本能寺の変:1582年に明智光秀が京都の本能寺で織田信長を殺した」という具合に、出来事はすべて「○○○○年にA(人物)がB(場所)で××をした」というだけの個別の項目となり、それぞれの背景も互いの繋がりもまったく無視されることになる。だから歴史=暗記科目ということになる。

 出来事一つ一つが単独で存在するなどあり得ない。それを示したのが、ブローデルの『地中海』である。この大著は、まず地中海とその沿岸地域の地質学的解説から始まる。
地中海という構造(地形)によって気候風土が決定され、そこに住む人々の社会も決定される。そしてその気候が変動することによって社会も変動する。
 すなわち、ある「政治的決断」が成されるのは、無数の条件が重なった上に於いてであり、それらの条件を作ったのは、究極的には、気候であり、地形であり、地質学的変動ということになる。
 そんな巨大な構造の中で、人間が意思によって取り得る選択肢はせいぜい2つか3つである。
 人間の思考は社会階層に規定される、という立場を取れば、選択の幅はさらに狭まることになる。

 それでもなお、「歴史とは言説に過ぎない」と言えるのか。言説=ネットのみを語るのであれば、その表現はたかが知れている。

2010年度講義第1回①
2010年度講義第2回

2007年度講義 (第4回のみ出席)
2008年度講義第1回
2009年度講義第1回

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第九地区

 エビ映画。

 昨秋くらいから映画(DVD含む)鑑賞の量がめっきり減っていたとはいえ、本当に久し振りに、「映画を観た」という充実感を得ることのできた作品。でもエビ。

 南アフリカ共和国ヨハネスブルクの上空に、巨大宇宙船(『インディペンデンス・デイ』のんよりは小さい)が出現する。よりにもよってヨハネスブルクではならなかった必然性は、使徒や怪獣が日本を襲撃しなければならない必然性よりも遥かに高い。巨大宇宙船に乗っていたのは、難民化した宇宙人だったのである。しかもエビそっくりで醜く、不潔で、宇宙船を建造し操縦できるだけの知性が到底あるとも思えない連中だ。

『エイリアン・ネイション』(1988.『第九地区』で宇宙人が出現したとされるのと概ね同時期)も、難民として地球にやってきた宇宙人の話だった。宇宙人の造形の工夫の無さに加えて、あまりに綺麗事ばかり並べたその物語に、腹立ちすら覚えたものである。
『第九地区』はその点、非常にリアルである。たちどころにスラム化する難民キャンプとか、それに対する政府と委託企業の対応とか。

 ニュースやドキュメンタリー形式の映像が大量に挟み込まれている。ニュース映像とか「識者」へのインタビューとか、それらしくて笑えるのだが、「ヨハネスブルクに住み着いたエイリアンについての街頭インタビュー」は際立ってリアルだった。
 人々は口を揃えて「エイリアン」への嫌悪を語るのだが、実は彼らは役者でもエキストラでもなく、一般のヨハネスブルク市民であり、スタッフは映画撮影だとは告げずに、「ヨハネスブルクに住み着いたエイリアン=宇宙人」ではなく、「=外国人」について語らせたのだという。

 南アフリカ出身の監督(18歳からはカナダ在住)だからこそ撮れた映画ではあるが、単なるアパルトヘイトのメタファーではなく、どんな社会でも、いつの時代でも起こり得る事態のメタファーである。ナイジェリア人の扱いがあんまりにもあんまりなのも、メタファーというかネタとして見るべきなんだろう。

 そういう「リアルさ」は作り込まれているのに、エビ宇宙人たちがあんなすごい武器を作る原材料や工具をどうやって調達できたんだとか(ナイジェリア人ギャングがやってくれたとは思えない)、クリストファー・ロビンソンに協力者がほとんどいないのはどうしてだとか、人間とエイリアンがコミュニケーション可能なのはどうしてだとか、そういう設定がおざなりなのが非常に惜しまれる。プロットやアイロニーを犠牲にしなくても、そうした設定を詰める力量はあったはずである。
 最も根本的な疑問である「なぜ彼らは難民化したのか」がスルーされているのは良い。

 すっきりと解決する話ではないが、武器兵器が実在のものから架空のものまでバンバン登場してぶっ放されるので、それなりに爽快感はあります。

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