ホビット

 2012年12月鑑賞。
 アクション映画が『マトリックス』の前と後で大きく変わったように、ファンタジー映画も『ロード・オブ・ザ・リング』前と後に分けることができる。しかしアクション映画がその後、ジェイソン・ボーン・シリーズでまた新たな方向性が登場したりして多様に展開しているのに対して、ファンタジー映画は『指輪』の亜流しか出とらんのな。

 で、『指輪』から十年ちょっと経って、ようやく登場した『指輪』を超える作品が、『指輪』の前日譚ていうのは、なんだかなあ。「超える」と断言してしまうのは早計かもしらんが、とにかくいろんな面でスケールアップしていることは確かである。
 しかしファンタジー映画としての新しい表現とか路線とかいったものが生まれたかというと、そんなことはない。前日譚としてはそれで正しいんだが、この10年間、ほかの連中(今回の監督もピーター・ジャクソンである)は何をしてたんだという気がしてならないのであった。

『指輪』と違ってまったくの子供向けである原作を、『シルマリル』とかの設定を組み込んで、巧いこと対処年齢を上げてるなあ。原作への多大な愛と敬意があって初めてできることで、『ナルニア』のスタッフは爪の垢を煎じて飲みやがれ(あんなクソ映画にしやがって……)。
 とにかく、第2作(1年後)も観に行こうという気にはさせられました。

 ところで『マトリックス』はSF映画にとってもエポック・メイキングであったはずなんだが、「大きく変わった」と言えるほど、その後SF映画は作られてないんだよなあ……

『ホビット2』感想

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ボス その男シヴァージ

 2012年12月鑑賞。
『ロボット』よりおもしろかったが、その主な理由はやはり、ダンスシーンがカットされていないことだろう。「なぜそこで踊る?」というわけのわからなさなのに、強引に魅せてしまう力業こそがインド映画の魅力ですよ。

 西原理恵子によれば、どんな料理もインド人が作るとカレーになるそうである。『ロボット』はハリウッド+香港をインドで料理したらこうなりました、という感じだった。インド人が作ってインド風味になってるけど、とりあえず一応、インド料理ではない、という感じ。
 一方、『ボス』はハリウッドと香港の影響を多大に受けてはいるが、あくまでインド料理であった。『ロボット』が最初から海外進出を視野に入れてると思しいのに対し、こちらはインド人のためにだけ作られている「本場もの」であって、くせは強いが、私はそのほうが良い。太鼓腹に絵を描いた男性ダンサーたちの群舞とか、頭がクラクラした。
 まあインド人のためだけ、といっても、インドは広くて多様だから、特定の地方だけではなく全インド人向けに作れば、それだけである程度の普遍性が生じ、だから外国人にも楽しめるのだろうけど。
 
 ストーリーは……あってなきが如きだから説明は省略するが、ラジニ・カーント演じる主人公は、『ロボット』と違って普通の人間である。なのに『ロボット』の時と大して変わらんくらい強いのである。そして、なぜ強いのか、説明がまったくない。
 説明がないのは『ムトゥ』も同じだが、当時(95年)はまだせいぜいカンフーを取り入れてる程度だったので大した問題はなかったが、2007年の本作では完全にワイヤーアクションと化しているので、もはや人間じゃないレベルです。なのに格闘技を学んだという設定すらない。たぶんインド人にとっては、「スーパースター・ラジニだから」ですべて説明がつくんだろうなあ。
 今回もラジニは黒のロングコートを着用。これもハリウッド経由の香港映画からの影響だろうけど、還暦近い(当時)ラジニが熱中症で死んじゃわないか心配だ。

 悪党の一人が日本刀っぽい武器を持ってましたが、微妙に幅広い刀身に鍔が溶接されているという代物でした。残念ながら日本文化はインドにあまり影響を与えていないようです(アニメは人気があるって聞くけどね)。

『ロボット』感想

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パトリオット

 19世紀以前の戦争を扱った映画って、意外と少ないんだな。ただでさえ少ないうえに、メジャーなハリウッド映画以外(ハリウッド映画でもマイナーなのんや、割合メジャーでもハリウッド以外とか)はレンタル屋に置いてなかったりするし。
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 というわけで、戦闘場面を確認するだけのために再鑑賞。一応ネタバレ注意。
 たぶん十年ぶりくらい。再鑑賞前に記憶を反芻したところ、出てきたのは英軍に次男を殺れ長男を連れ去られたメル・ギブソンが炎上する家に飛び込んで行って山ほど武器を背負って出てくると森へ入ってトマホークで英兵を殺しまくる一連の場面、それと軍隊同士の会戦場面だけであった。
 レンタルしたのは「コレクターズ・エディション」で165分もあったが、上記の事情によりどのシーンが追加なのかは判らなかった。しかしどのみち、上記の場面だけがすべて、という作品なのでした。
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 長男(ヒース・レジャーだ)を取り戻すためとはいえ、まだ幼い三男と四男に援護射撃を行わせつつ、自分はチェロキー族のトマホークで英兵20人を虐殺、などという役を演じられるのはメル・ギブソンを措いてほかにいまい。とは思うものの、このシーン以外の彼の役は、狂言回し以上のものではない。
 この映画の主役は戦闘場面、それも民兵のゲリラ戦ではなく、軍隊同士の会戦なのであった。
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 前回の鑑賞の何ヵ月か前、偶々18‐19世紀の戦争についての本を読んでいたのである。整然と並んだ横隊が平らな場所で向き合って一斉射撃しては再装填することを繰り返す、という光景の記述に震え上がったのだが、今度はその記述がそっくり映像で再現されているのを見て震え上がったわけである。
 対峙する横隊が一斉射撃の轟音と共にバタバタと人が倒れるが生き残った兵士たちは整列したまま、という俯瞰映像は、改めて観てもまったくもって尋常ではない。砲弾(鉄球)がバウンドしながら飛んできて、兵士の頭や脚をバサバサ刈り取るという光景も然り。ちゃんとしたスタッフさえ付けば、凄いものが撮れるんだよな、この監督は。
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 このような戦場の光景を映像化した、という点のみにおいて、この映画は傑作である。そのほかの要素(物語とかキャラクターとか)も、上記の光景を成立させるためだけに在る、という点で大いに評価できる。

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危険なメソッド

 クローネンバーグ作品は全部観てるわけじゃないが、彼が選ぶ題材は狂気にしろ暴力しろ、どうにも観念を弄んでいるようにしか思えない。
 わかりやすい例を挙げると、『イグジステンス』で描かれているヴァーチャルリアリティのゲーム(RPG)は、ヴァーチャルリアリティとかヴィデオゲームについての観念(偏見)だけを凝り固めたような代物で、あんたヴィデオゲームを楽しんだこと一度もないやろ。
 あと、メタファーがあからさますぎて鼻につくんだよねー。
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 そう思いつつ、クローネンバーグ作品を何本も観ているのはなぜかと言えば、ほかに長所がたくさんあるからである。いや、『イグジステンス』みたいに何もかも駄目なのんもあるけど。
 特に近作の『ヒストリー・オブ・バイオレンス』と『イースタン・プロミス』では、観念やメタファーがかなり後景に退いている。てゆうか、『イースタン』のほうは監督の「ヴィゴ萌え」が全面に溢れ返ってて(それと、億面もないロシアンマフィアのエキゾティシズム)、観念やメタファーが入り込む隙がどこにもなかったってゆうか。なんと言いましょうか、「あられもないモノを見せられちまった……」という感じで少々、いやかなり困惑しましたが、うざい観念やメタファーよりはマシ。
 まともに評価できるのは『ヒストリー』のほうで、圧倒的な暴力描写と、暴力に直面してしまった家族のドラマが素晴らしかった。それでもところどころ、暴力そのものではなく「暴力という観念」や露骨なメタファーが顔を出してはいましたがね。
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『イースタン』のことがあるから、またヴィゴ・モーテンセン出演で、しかもフロイト役なんて、いったいどうなることやらと少々不安だったのですが、今回はクローネンバーグも冷静で、モーテンセンは重要な役どころではあるけれど常に一歩退いた立ち位置で、中心はあくまでユング(マイケル・ファスベンダー)とその患者にして愛人のザビーナ・シュピールライン(キーラ・ナイトレイ)でした。
 ものすごく堅実に作られた映画、という印象が強かったのは、脚本のお蔭でしょう(『危険な関係』でアカデミー賞を受賞しているクリストファー・ハンプトン)。堅実さとは無縁に思えるクローネンバーグなのに堅実だから、余計に堅実に感じるというのもあるんだろうけど。狂気や欲望、異常性愛といった題材自体はこれまでどおりのクローネンバーグらしいもので、ただそれらがひたすら堅実に、かっちりと(つまりメタファーだのなんだのなしに)描かれているのでした。
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 クローネバーグの堅実じゃないところが好きな人は、この堅実さに失望するかもしれませんが、私はむしろ好ましかったです。それにもしかすると、あの「堅実なスパンキング・シーン」等は、笑いどころだったのかもしれん。
 まあ私は即物的な人間ですから、危険な快楽に溺れるのは、心の闇とかじゃなくて報酬系の問題だよなーとか思ってまうわけですが。
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 キーラ・ナイトレイは『パイレーツ』シリーズと『ドミノ』しか観たことなくて(あと、あの女王の影武者)、おお、まともに役作りしてるのは初めて観るぞ。結構作り込んでますね。
 しかしそんなことよりも印象に残ったのは、予想を遥かに超えた貧乳でした……この時代の衣装はハイウエストだから胸の有無がはっきり判るなー、と思いながら観てたら、後半にセミヌードが……
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アイアン・スカイ

 ここ3、4年なかったほどのひどい夏バテからやっと回復してきたと思ったら、5、6年ぶりかそれ以上に久方ぶりに風邪をひいて3日間寝込みました。小学生の姪にうつされたんですが、やはり体力が落ちてたからでしょう。
 その後も自律神経がいかれて微熱が続いています。微熱といっても平熱が35度台なので、37度台でもかなり苦しいです。季節の変わり目の今日この頃、皆さまは如何お過ごしでしょうか。風邪をひく前に観た映画を御紹介。
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 フィンランドというとムーミンとシベリウスとアキ・カウリスマキくらいしか思い浮かばないんだが、そうしたイメージを完全に覆すバカSF映画。メインキャストは全員外国人で、フィンランド語の台詞は一言もない。
 内容を一言で言うと、「ナチスが月からやってくる」。
「ナチのすごい科学」ものは、いい加減やめるべきだと前々から思っているのである。だって事実として、ナチの科学はすごくなかったんだよ。ヒトラーを筆頭として首脳部は科学を理解できない上にオカルト大好きな低能連中だったし、ドイツの優秀な科学者の大部分は逃げ出すか収容所送りになっていたのだから、「すごい科学」なんて在りようがなかったのだ。
 すごくなかったものをすごいと言うのは、たとえそれが「悪の科学」ということであっても、歪曲に基づいた称賛にほかならない。
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 次に、いくら悪逆非道な組織または個人であっても、やってもいない悪事や阿呆なこと(「ナチのすごい科学」には阿呆なものが多い)をやったことにするのは、フィクションにしても限度というものがあると思うのである。そして「ナチのすごい科学」ものは、とっくにその限度を超えている。
 最後に、このネタはもはや陳腐であるだけでなく、安易だからである。どんなに歴史・科学考証にそぐわなかろうが、「ナチのすごい科学」だから、で済ませてしまうのは、あまりにも安直というものだ。 
 だいたいさー、時代・科学考証うんぬん以前に、そんなすごい科学(と国力)があるんだったら戦争にも勝てたんじゃないの、と思わずにはいられない。勝ったという歴史改変作品もあるにはあるが、「すごい科学」のお蔭で、というのがあったかどうか、ちょっと記憶にない。すごい科学を持ってるナチは、十中八九残党である。
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 というわけで、それでもやるというなら、せめてこれくらいはやってもらいたいものである――「ナチスが月からやってくる」。
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 ところで私は、でっかい機械がガシガシ動く映像を、大画面で観るのが大好きである。実物の機械には、サイズに関わりなく大して興味が湧かない。それが映像だと、なぜか画面のサイズが大きければ大きいほど惹き付けられるのである。映画館のスクリーンサイズで、細部まで舐めるように撮った映像だったりすると、ものすごく気持ち良くなる。出来さえよければ、架空メカでも問題なし。
 だから、いかにもドイツっぽい駆動部剥き出しの巨大な機械がいっぱい登場する本作は、とっても気持ち良かったです。欲を言えば、飛行船や円盤型戦闘機の細部も見たかった。
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 パンフレットによると、「ナチスが月からやってくる」というアイデアは、監督の自主制作映画仲間の脚本家ヤルモ・プスカラが見た夢(比喩ではなく本物の)だそうである。つまり、文字どおりオタクの夢を具現化した映画なのだが、そこで終わらずにアメリカを対象とした、かなり突っ込んだ風刺も行っている。
 宇宙開発は軍事を目的とせず、という国際協定を、すべての加盟国(フィンランドを除く)が破っていることを知ったサラ・ペイリン似の米大統領は激怒する。「アメリカだって違反してるだろ」と指摘されると、「アメリカはいいのよ!」。現実のアメリカもそう思ってるに違いない、と世界中の国が頷くところであろう。
 
 しかしこれくらいの風刺なら、ちょっと気の利いた人間なら誰でもやれることで、本作で最も重要なのは、数多のナチもの映画が取り上げないどころか、おそらく気づいてすらいなかった「ナチズムの本質」を精確に捉えている点である。
 それは、ナチズムの「綺麗ごと」だけで純粋培養されたヒロインが米大統領選の広報担当に起用され、まさにその綺麗ごとによってアメリカの大衆の心をがっちり攫むエピソードによって示されている。つまり、あからさまにやばい部分さえ隠してしまえば、ナチズムが説く理想は、非常に口当たりのよいものなのである。だからこそ、あれだけ多くの人々が惹き付けられたのだ。
 
 制服(軍服)やゲルマン的美男美女といった、ヴィジュアル面でのナチズムの魅力については、先行作品でも指摘されてきたことではある。
 その「かっこいいナチ」を体現するのはゲッツ・オットー。『ヒトラー最後の12日間』で、端役なのにやたらでかいというだけの理由でやたら目立ってた兄ちゃんである。あれから8年で、ずいぶん老けたな。『ヒトラー』では演技力を披露しようもないほどの端役だったが、今回は徹底して戯画化されたナチを嬉々として演じている。
 
 ナチスというとマッドサイエンティスト、それも主として医学系が付きものだが、これはドイツ=医学というステレオタイプに加えて、ヨーゼフ・メンゲレが源泉なのであろう。本作のマッドサイエンティストも、巨大宇宙戦艦を設計するだけでなく人体実験も行っており、黒人宇宙飛行士にメンゲレ呼ばわりされる。
 メンゲレは実際に薬物投与による髪や虹彩の「漂白」実験を行ってたそうだが(そしてまったく成果を上げられなかったそうだが)、しかし本作で「漂白」された黒人がコリン・パウエルほども白くなかったのは、フィンランドの特殊メイク技術の限界によるものだろうか。ハリウッドの技術だと、それこそ白人並に白くできるそうだが。
 あと、やってることがメンゲレなのに、どうして外見は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のドクなんだろうなあ。ハリウッド映画に登場するマッドサイエンティストは、ほかにも山ほどいるのに。
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 以下、ネタばれ注意。
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 ヒトラーの跡を継いで月面ナチの総統となっているのが、ウド・キアー。というと素晴らしい活躍を期待してしまうが、実際には見せ場らしい見せ場はほとんどなかった。まさに役不足。
 
 終盤、ナチを倒した後、各国代表は月の資源をめぐって大乱闘となる。ここで終っていれば、いかにもパロディ満載の風刺映画的な終幕である。あるいは、黒人に戻った(「非白人化薬」で)宇宙飛行士とヒロインはめでたく結ばれるが、今後彼らと共に生きていくことになる月面ナチの生き残りに「黒人とキスするなんて」と非難され、苦笑いする。ここで終われば、苦難を予期させつつもハッピーエンド、という捻りの利いた終幕となる。
 が、どちらの終わり方にもならず、各国大乱闘は宇宙空間でも行われ、地上のあちこちでは核の爆発が起こるという、ブラックユーモアを通り越して暗澹とした終幕である。こういうところが北欧っぽいという気がするのだが、どうだろうか。
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 この「宇宙戦争」の場面で、日本の衛星が他国の衛星に突っ込んで、もろともに爆発するカットがあったんだが、制御不能になったからとかじゃなくて「カミカゼ」攻撃のつもりだとしたら、やな感じだな。
 最後の最後に火星上空を飛んでた探査機のようなものは、次作への伏線なのだろうか。
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おまけ:上映前、隣に座った年配の男性が『SFマガジン』を読んでました。この雑誌の存在を知って四半世紀以上経ちますが、SF関連の集まり以外で読んでいる人を初めて目撃しましたよ(本屋ですら見たことなかった)。

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ドラゴン・タトゥーの女

 原作および映画について感想。
 少し前に、我が家に『ミレニアム』ブームが訪れたのであった。ミステリ好きの妹二人と父が次々とこの長大なシリーズに嵌まり、何週間にもわたって話題に上らせ続けたのである。ミステリがあまり好きでない上に、その時偶々長い小説を読める精神状態になかった私と、そもそも小説を一切読まない母は完全に蚊帳の外であった。
 特に父はほとんど熱狂していたと言ってもよく、還暦をとうに過ぎた人間がここまで小説に嵌まれるものなのかと、傍で見ていて少々感動を覚えたほどであった。「俺も才能があったらこんな小説を書くんだが」とまで口走った。落ち着け、おっさん。
 ちなみに父は理系のくせに文学青年崩れで、若い頃は私小説のようなものを書いていたが、私が知る限りでは上記のような発言は初めてである。

 ブームが去ってしばらくしてから私も読んでみました。
 ミステリは好きじゃない、と書いたが、ミステリに分類される作品(小説、映画等)でも好きなものは結構ある。つまり、より正確には「好きじゃないミステリが多い」ということになる。
 で、それらの作品の何が好きじゃないのか。一言で言うと「真相(あるいはトリック)至上主義」とでもなるでしょうか。作中の人間関係とかいろんなエピソードとか何もかもが、真相/トリックの伏線もしくは読者をミスリードする目的なのがあからさますぎて、興醒めしてまうのである。
『ドラゴン・タトゥーの女』の例で言えば、依頼主の一族がやたらと奇人揃いで入り組んだ歴史を持つ設定なのは、読者を混乱させ謎解きを困難にするのが主目的であって、そういう一族を描くこと(ほかにも親ナチというスウェーデンの負の歴史など)自体は二の次に過ぎないとしか思えてならない。そして、そういうのんは楽しくないのである。要するに私は、ミステリをミステリたらしめている最重要素=謎解きに関心がないんだな。

 そういうわけで、私にとって『ミレニアム』第1部は、確かに一気読みできるおもしろさはあるものの、じっくり読むほどの価値はなく、自分のミステリ属性のなさを再確認させられただけであった。それでも話がヒロイン中心になりすぎてる第2部以降よりは好きだが。
 で、映画版。本国版ではなくハリウッド・リメイクのほうにしたのは、ダニエル・クレイグがわりと好きだし、スチールで見る限り本国版よりヒロインが原作のイメージに近かったから(本国版だと結構ごついし老けてる)。そして何より、デヴィッド・フィンチャーの「成長」に関心があったからである。
 
 この監督の作品は、『セブン』『エイリアン3』の頃からほとんどすべて観ているが、偶々他人に付き合って観る機会が重なってそうなっただけで、少なくとも数年前までは嫌いな監督の一人であった。
 何が嫌いかって言うと、まずテーマもしくは「一発ネタ」ありきで(後者は『ゲーム』や『パニック・ルーム』)、それを成立させるために他のすべての要素を無理矢理にこじつけている。そのこじつけ方が強引を通り越して、拙劣ですらあること。第二に、話が主役の周囲のごく狭い人間関係に終始しているだけでなく、そこからいきなり「セカイ」に短絡する幼稚さである(『パニック・ルーム』は完全に一軒の家の中だけに終始しており、「セカイ」が語られない分、むしろマシである)。

 それが『ゾディアック』では、「狭い人間関係」と「セカイ」の間にある物事に目を向け、それらを描こうとする努力が見受けられるようになり、『ベンジャミン・バトン』ではその努力の成果が確実に見られる。
『ソーシャル・ネットワーク』は未見だが(そのうち観る予定)、この『ドラゴン・タトゥーの女』に至っては、上記の欠点(悪い意味での「デヴィッド・フィンチャーらしさ」)がまったく感じられなかった。
確かに原作ではキャラクター一人一人(かなりの端役に至るまで)の背景がしっかり作り込まれているが、映画では尺の問題で削らざるを得ないから、やりようによっては以前どおりの「フィンチャーらしい」話になった可能性もある。特にヒロインがああいうキャラだからね。
 にもかかわらず、ちゃんとバランスの取れた作品に仕上がっていたわけで、いやー大人になったねえ、と生温かい目で見守ってしまうのであった。

 あと、フィンチャー作品に毎回あるブラックなつもりらしいジョークは、鼻について笑えないんだが、今回のあのシチュエーションでエンヤが掛かったのには笑った。

 外国映画をハリウッドでリメイクすると、往々にして無理やりアメリカが舞台のアメリカ人の話に変えられてしまうのだが、アメリカ人は外国人への共感能力を欠いているのであろうか。しかし本作はハリウッドの俳優が英語で演じているとはいえ、ちゃんとスウェーデンが舞台のスウェーデン人の話であった。
 本国版と見比べる気は今のところないし、リメイクの意義を云々する気もないが、原作を巧く消化したという点も含めて、映画としてよく出来ていたと思う。フィンチャーの「成長」と切り離しても、充分評価できますよ。

 スウェーデン文化はよく知らんので(リンドグレーンは愛読してたが)、役者たちがちゃんとスウェーデン人らしかったかどうかはわからないんだけど、例えばダニエル・クレイグ演じる主人公の、女に対する良くも悪くも自由な態度は原作どおりであり、それは明らかにアメリカ文化とは異質なものだ。あと、彼がやたらと喫煙するのも(ストレスで禁煙を破っているという設定だとはいえ)、昨今のハリウッドの時流に逆らってますね。
 
 ダニエル・クレイグは、若いヒロインに対しておっさんという役柄。クレイグの出演作でこれまで印象に残っているのは007シリーズと『ミュンヘン』だけだが(ほかにも幾つか観てるんだが憶えてない)、どれも何年も前でもないのに「若造」の役だった。おっさんのほうが好きです。
 ルーニー・マーラーは本作で初めて観たのだが、小柄で不健康でひ弱そうという容姿だけでなく、それにもかかわらず強烈な怒りのエネルギーを抱えているという役に巧く嵌まっていたと思う。エキセントリックなキャラクターというのは、しばしば役者が「エキセントリックに演じる自分」に酔ってるのが見え透いていて辟易させられるのだが、そういう印象は受けなかったし。

 以下、一応ネタばれ注意。
 ステラン・スカルスガルドは、『宮廷画家ゴヤは見た』で温厚で堅実な人物としてのゴヤを好演していたが、今回はいかにも裏がありそうに見えてしまう。特に笑顔が不気味だ。単に眉毛がないせいかもしれないけど。
 謎の真相の変更については、私はプロットを簡潔にする(尺の問題で)ための適切な処置だと思ったのだが、父は映画のほかの要素は気に入ったようだが「あれじゃ台無しだ」とずいぶん不満げだった。ミステリ者かそうじゃないかの差だなー。

『ゾディアック』感想
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』感

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ファイナルファンタジーⅦ アドベント・チルドレン

 鑑賞はしばらく前。映画館、DVD、TV放映にかかわりなく、観た映画はすべて記録を取る習慣だが、大して感想がない時はわざわざ他人様に読んでもらうのもなんなんで、ここには上げない。これもそうした作品なんだが、ここのところ週に一度のDVD鑑賞が滞っているので、まあ賑やかしに、以前書いた感想を加筆修正。観たのは今年に入ってからなので、「思い出し鑑賞記」ではなく、このカテゴリーに。

 えーと、2005年制作か。当時、予告を観て、なんというか容易に予想がついたので観る気も起きなかったんだが、思うところあって鑑賞。
 いやー、見事なまでに予想どおりでした。それも、シナリオに関しては最悪の予想が的中してまいましたよ。
 1997年のゲームでも、世界が破滅の危機に瀕してるのに自分の性格について悩む主人公、そのコンプレックスを解消することと何故か同一視される世界の救済、まったく魅力のない(美形というだけの)ラスボス……とツッコミどころは山のように多かった。
 特にセフィロスがなあ。宇宙から来た怪物が「母親」だったという事実が、どうして惑星を滅ぼす行動に結びつくんだか。異質であることで迫害されたとか心身に苦痛を被ったとかいうような設定もないし。だいたいジェノバとの関係は細胞を移植されるかなんかされただけで、ちゃんと人間の母親がいるんじゃないの?
 しかしこうした数々の難点も、とにもかくにもゲームとしての出来を左右するほどではなかったのであった。

 で、 その2年後という設定の本作では……クラウドのうじうじが悪化しとるやんけ。いや、そもそも世界の救済と性格改善はなんの関係もないわけだから、当たり前と言えば当たり前なんだけど、制作陣の意図がリアリズムへの方向修正でないのは明らかだ。しかもゲームではクラウドのコンプレックスが明らかになるのはだいぶ後になってからだけど、本作では終始なので大変鬱陶しいです。
 セフィロスの思念体とやらは、セフィロス本人よりは切実な問題を抱えてたわけだから、いろいろ画策するのはいいとして、子供たちを使って結局何をする気だったんだか、とか三人も要らんやん、とか。
 ゲームでは神羅カンパニーの支配体制とか一応考慮されてましたが、本作ではエネルギー問題とか経済とか行政がどうなってるのか等について、大脳皮質を使った形跡がまったくない。ほかにも設定の多くが具体性を欠いている上に、あちこち辻褄が合わない。
 まあそれらは予想どおりだったからどうでもいいんだが、主人公チームが一般人を無視して街のど真ん中で激戦を展開するのは、いくらなんでもひどすぎだ(ゲームでは災厄が迫ってきた時の人々の避難とか一応言及されてたのに)。そしてその直後の街の別の一角では人々がのんびり歩いてるし。

 要するに、ゲームのシナリオの問題点をわざわざ拾い集めて、さらに悪化させたような話なわけです。アマチュアかそれに毛が生えた程度の若造がかいた漫画や小説ならまだしも、これだけの規模の作品ならシナリオだって大勢のチェックを受けてるだろうに。いい大人が寄ってたかって、こんな無思慮な話を作るってどうよ。
 プロット以外でもなあ。珍妙な言動はゲームでも多かった。このシチュエーションでその反応?とか、噛み合わない会話(明らかに意図したものではない)とか。それでも私はゲームをしてるんであって物語を鑑賞してるわけじゃないから、とスルーできたんだが、本作は「物語」なわけだからスルーは難しいし、そういう台詞の比率がゲームよりさらに高い。いったい何を表現しようとしているのか不明な仕草や表情も多いし。あと、やたらと出番の多いタークス二人組はお笑い担当らしいが、掛け合いのテンポがとにかく悪い。演出にも問題があるよな。

 いや、批判してるんじゃありません。怒ってるんでもない。呆れてるだけです。
 観た映画について、単に「おもしろかった/つまらなかった」という感想以上のもの、つまりどこがどうおもしろいか/どうつまらないかを分析して文章にする(批評というほど大したものではない)のは、創作の参考にするためです。偶にあまりにも腹に据えかねて、ひたすらクソミソに貶してるだけのこともありますが、あくまで偶にです。
 ちなみに読んだ小説についても同じことをしてますが、映画についてよりも難しくて人に見せられると思えるものがなかなか書けん……読書感想は小学校の昔から苦手なのです。

 本作は鑑賞前から「こんな程度だろう」と予想していてたので、あまりにも予想どおりだったことに呆れはしても腹は立たない。長所があまりにも少なく、欠陥は根本的かつありきたり過ぎて、分析したところで得られるものはない。このとおり、やろうと思えばいくらでもツッコミを入れられますがね。どうでもいい。
 これもどうでもいいことだけど、クラウドを除くゲームのパーティーメンバーの扱いがぞんざいですねー。ティファでさえも。ゲームをやってないまったくの新規の鑑賞者なんてまず望めないのに(望んでたとしたら驚きだ)、これはゲームのファンに対して非礼というものではありませんか。どうでもいいことですが。
 
 一応、褒められるところは褒めておこう。鑑賞の理由の一つは美麗なCG映像を観たくなったからで、それについてはまあそこそこ。ただしほぼアクション場面限定。
 観たかったのは、実写(生身の俳優、ロケやセット、ミニチュアなど)では表現不可能な非現実的な光景を、セルアニメでは不可能な鮮明さで描いたものだったんだが、アクション以外で及第してる場面がほとんどない。ロケーションも半ば廃墟の不景気な街や不毛な荒野が中心で、せっかくのCGの質が泣く。FFシリーズのムービーの見所の一つは架空メカ(兵器含む)の細密な描写なのに、それもないに等しいし(クラウドのバイクくらいか)。

 あ、褒めてないや、これ。いや、とにかくアクションはまさにCGならでは、かつ良い意味でゲーム的な表現で、大変見応えがありました。後はえーと、キャラクターのCGは大変よくできてます。前述のとおり、ところどころ意味不明の仕草や表情があったにせよ。ゲームのムービーには当時驚嘆したものでしたが、比較してみるとたった8年で隔世の感がありますね。本作からはさらに7年も経ってるけど、今はどれだけ進歩してるのかな(ここんとこゲームはすっかりご無沙汰なんで)。

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るろうに剣心

 原作は連載開始当初(94年)から読んどって、時代もの漫画自体が少なかった当時において明治の剣客ものという変わった題材で、しかもジャンプなのに幕末~明治という時代の矛盾を真摯に誠実に描こうとしている作者の姿勢に好感が持てたのだが、開始からしばらくの間はジャンプにおける位置(文字どおりの意味)が少々微妙で、わりあいハラハラしながら応援していた思い出が……とか言いつつ、単行本は買ってもアンケート葉書は一度も出しませんでしたが。

 というわけで、原作にはそれなりに思い入れがある。大友啓史監督の力量は『龍馬伝』で明らかだし、剣心役の佐藤健も同作品で岡田以蔵を好演していたが、しかし漫画原作を巧く実写化できるかどうかはまた別問題である。
 興味はあるが、残念なものを観せられたらダメージもでかそうなので、友人を道連れにすることにした。彼女は今年30歳のアメリカ人で、高校時代に『るろうに剣心』と出会って以来、日本の漫画やアニメに嵌まり、ついには日本に在住するようになった、という絵に描いたような経歴の持ち主である。来日数年、字幕なしで邦画を観れるくらい日本語も上達していることだし、これは是非とも誘わねばなるまいよ、と。
 まあ実は、彼女は日本に住むうちに漫画・アニメへの興味はむしろ薄れ、廃墟巡りなど別の方向へと歩んでいて、この春に私が誘うまでは、るろ剣実写化の話も知らないほどだったんだけどね。とにかく、駄作だったら二人で冗談の種にしよう、ということで観に行く。

 結果は、私も彼女も大いに満足いたしました。原作の複数のエピソードを巧くまとめてオリジナルのプロットを作り上げているし、原作の主要なテーマである「明治初期という時代の矛盾」もより際立っている。
 特に感心したのが、斉藤一が逆刃刀を指して「己に向いた刃は、やがておまえを苦しめることになる」と述べた台詞で、これは原作にあるべき台詞だった。つまり、少なくともこの台詞をはじめとする幾つかの要素については、映画は原作以上に原作の本質を捉えることに成功している、と私は言い切りますよ。

 その他の要素については、役者がみんなテンション高くて楽しそうなのが良かったなー。学生時代に演劇をやってたんだけど、スタッフ・キャストが一丸になって一つの作品を作り上げる、いい意味での手作り感が共通してて。こういう「楽しんで作ってる」雰囲気がある映画には、つい評価が甘くなってまう。
 いや、龍谷大学がロケに使われてるから余計にそういう印象を受けてまうのかも知らんけど(陸軍省でした)。しかし龍大ロケは近年多いみたいだな、私が在学中はそんな話はとんと聞かなかったものだが。
 キャストはみんな、原作のキャラと似てる似てないというレベルを超えて好演してたけど、高荷恵役の蒼井優だけは、眉まで剃って頑張っても「妖艶な美女」にはミスキャストとまではいかないけど違和感が。まあこれは今までの彼女のイメージがあるからでしょう。蒼井優を全然知らなかった友人は、原作のイメージにぴったりだと感心してたし。
 あと、音楽の使い方が印象的だったな。

 しかしこの映画で最も重要なのはアクションで、比重で言うと半分くらい、最小に見積もっても三分の一は占めてるわけだが、よりにもよってそういう映画を観るのに眼鏡を忘れてしまったのであった。
 視力自体は、普通のドラマパートを見る分には問題ないんだけどねー、乱視だから眼の焦点が合うのが遅くて、動きの速い場面だとついていけない……スローモーションが多用されてることを期待したんだが、ほとんどなかった……これもアクションに力を入れている一つの証明ということでしょう。「ため」すらあまりないんだよね。とにかくみんな物凄くよく動くんで、目がついていけませんでした。もったいないことをした……痛恨の極み。

 この監督とキャストで続編作ったら、また一緒に観に行こうね、と友人と約束する。

「るろうに剣心 京都大火篇」感想 

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アンドレイ・ルブリョフ

 歩いて行ける距離に映画館がないので、電車で少し遠出する機会があれば、ついでに映画でも観ていこうかという気になるのだが、先日偶々東京まで出たのに、ロードショーで観たい作品が特にない。リバイバルか何かやってないかなと探したら、おお、渋谷でタルコフスキー生誕80周年記念映画祭をやっているではないか。

 時間的に都合がよかったのは『アンドレイ・ルブリョフ』1本だけ。8本の上映作品のうち、観たことも聞いたこともなかったのはこれと映画大学卒業制作の『ローラーとバイオリン』だけであった。
 たぶんタルコフスキー作品の中ではマイナーなんだろうと決め込んで、上映開始15分ほど前にユーロスペースに到着すると、すでにほぼ満席であった。すみません、タルコフスキーをなめてたわけじゃないですが、タルコフスキー人気はなめてたようです。

 ほぼ満席といっても、前の2列はまだかなり空いていた。席が前のほうでも平気な質なのは、こういう時は便利である。
 アンドレイ・ルブリョフ(14世紀後半‐15世紀前半)のロシアのイコン画家。同じくイコン画家のフェオファン・グレコも実在の人物で、史実ではルブリョフの師匠だそうだが、映画ではそのようには描かれていない。
 普通の歴史映画・伝記映画のはずはないと覚悟はしていたのだが、序盤は話の流れが正直摑めず、それは私に限ったことではなかったようで、近くの席からは盛大ないびきが聞こえてくる有様であった。
 しかし中盤、大公の弟がタタール人と組んで謀反を起こして以降は、随分と話が解り易くなる。上映時間はこれまで映画館で体験した中では最も長い3時間であったが、中盤以降は長さを感じなかった言っていい。いびきも以後は聞こえなかった。

 適当なロードショーでお茶を濁したりしなくて正解であったが、それはそれとして、中盤の襲撃場面の阿鼻叫喚をはじめとする暴力描写が、かなりえぐくて胃が痛くなった。
 直接的な描写はそれほどないにもかかわらずというか、だからこそというか、生々しい上に想像を掻き立てる。いちいち怖いんだよ、何しろロシア人のやることだから。モノクロだってこともかえって効果を高めてるんだろうな。傷口がどうなってるかはっきり見えないから、かえって作り物っぽくなくて。

 ルブリョフ役のアナトーリー・ソロニーツィンは『ソラリス』でサルトリウス(研究員の1人)を、『ストーカー』で作家を演じている。若い頃はこんな容姿だったんだなあ。後半の実質的な主人公である鐘職人を演じるえらく顔の整った子は、『僕の村は戦場だった』の主役。

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シティ・オブ・メン

『シティ・オブ・ゴッド』のパウロ・モレッリ監督作品。舞台が同じというだけで、続編というわけではない。
『ゴッド』は群像劇というかドキュメンタリー調というか、良くも悪くも物語性があまりなかったのに対し、本作は主人公の少年の父親探しと友情に、彼が住む丘のギャングの抗争が絡むという、良くも悪くも一貫したプロットがあり、主要キャラクターたちにも感情移入しやすい、良くも悪くも。

解り易くなった分、『ゴッド』の時ほどの衝撃はなく、貧困や犯罪はややもするとエキゾチックなスパイスに感じられる。まあ映画としてはよくできてるんだけど。

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